第82話 銅貨

 おもての戸を閉ざし、ジャンニは女が置いていったヤコポの遺品を抱えて奥に引っ込んでいた。


 書簡は、大半が近況を語るだけの内容だ。差出人は親戚や友人ばかりで、エネア・リナルデスキからのものはない。残っていたとしても、もう灰になってしまったというわけだ。ジャンニは書簡を束ねて脇へどけた。


 冊子は全部で3冊。左上に日付が書いてある。一番古いのは1535年だ。



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これはバルトロの息子ヤコポの覚書であり、ここには一家のこと、及び私の身の周りの事柄が記録される。


1535年3月5日の今日、私は結婚した。相手は鍛冶屋のピエロ親方の娘で……

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 ヤコポは結婚を機に日記を書き始めたらしい。先祖についての長い説明があり、次の項から取引先とのやりとりや些末な出来事の記述が始まった。家族について述べた後は一貫して身の周りの事を記録していくことにしたらしい。


 間隔はまちまちだった。毎日かと思えば2日に1回の時もあり、ときには1カ月も日付が飛ぶ。その間に何があったかは語られない。書き残すべき事があった日だけ書いたのだろう。大きな事件が起きれば複数行を費やし、そしてまた日常を語り始める。


 ヤコポはフィレンツェを取り巻く情勢に並みの関心を払いつつも生活に忙殺される、いわば平凡な男だったらしい。人生を全うしていたとしても、富も業績も残さず、1人のフィレンツェ人として過去帳に載せられ、忘れられていっただろう。


 あくびが出た。開いたままの性交体位素描集が目に入った。



『カエルの体位の愛人たち』



 やらなけりゃいけないことがある時に限ってくだらないものに目が吸い寄せられるのはどうしてなんだ?



 *



 おざなりに目を通していたので、危うく読み飛ばすところだった。

 その名前は、2冊目の覚書にいきなり出現していた。



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エネア・リナルデスキと会った。私が入っていくと不機嫌そうな顔をしたが、「話は成立した」と言った。会話はここに記さないが、金貨56スクードでまとまったと考えていいように思う。

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 1537年2月10日。トレッビオの城で運搬人のピエトロが殺された事件の、およそ2週間後だ。

 

 この年は1月7日から日記が始まっているが、事件についての記述はない。


 ジャンニの頭に疑問が湧いた――大きな事件が起こると、ヤコポは必ずページを費やして記述している。なのに、友人のピエトロが殺された事についてはどうして書かなかったのか。



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2月15日、Rと会った。当方の言い分はすでに伝えてあったが、それで良いとの返事であった。あちらは少々苛立っている様子だった。サン・フランチェスコ修道院の中庭で、我々は色々話した。その後別れた。今日については他に記すべき事はない。

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 Rとは誰のことだろう?



 それまでの日記に、この人物は出現していなかった気がした。次の記事は2月17日で、弟と市場へ行った話しか書いていない。


 会って「色々」話したのに、会話の内容はほとんど記されていない。Rは苛立っていた。ヤコポにとっても楽しい会話ではなかったらしい。


 その後の日記にはRはおろか、それらしい姓名さえ登場していなかった。この人とは二度と会わなかったか、会ったとしても書かなかったのだ。


 なぜ、ヤコポはこの人物をRとしか書かなかったのか。

 名を挙げると差し障りがあるような素性の者なのか。

 誰かに読まれるのを恐れていたのか。


 生きているヤコポが後ろにいて、肩越しに指さしているような気がした。


(ここを読んでくれ)



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会話はここに記さないが、金貨56スクードでまとまったと考えていいように思う。

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 56スクード――金貨56枚。


 

 もう一度読み、片手で腰の巾着袋をはずした。中をさぐるのがもどかしく、机にぶちまけた。紙屑や固くなったパン、エネアの指輪に混じって、ヤコポの口に詰め込まれていた銅貨が散らばった。


 ジャンニは銅貨の枚数を数えた。きっかり56枚あった。

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