第70話 裁判官には不適格(2)
湿気で焚き付けが湿っていて、なかなか火がつかなかった。煙にむせながら、ジャンニは額の汗を拭った。
「ラプッチの野郎は最初からおれを厄介払いしたがってた。せいせいするよ、トニーノ。これでやっと面倒な任務から解放される」
「どうせ、選挙管理官の発言もラプッチと示し合わせたのに違いないよ。こんなときに裁判官をすげ替えるなんて……」
取調室に立たされている自分の姿を、ジャンニは思い浮かべた。
今頃、ラプッチは豚が焼き上がるのを待つように涎を垂らし、肉切り包丁を研いでいるに違いない。
ジャンニを他の裁判官の前で公開処刑するための特大の包丁を。
辞めたくて仕方がなかったのに、罷免されるとなると妙なわだかまりを感じるのはなぜだろう。
「ジャンニ、会合は9時からだ。不服を申し立てたほうがいいぜ。今なら解任を撤回できるかもしれない」
火は小さくなり、死滅してしまった。ジャンニは薪の束に腰を降ろし、紙くずを炉に投げ込んだ。
「何のために? おれはただの彫金師だ。裁判官なんかには向いてない。そろそろ自分の仕事に戻るよ」
「残念だよ。直々に言い渡される前に知っときたいだろうと思ったんだ。何にも知らないあんたを書記官のとこに連れて行ったりしたくなかったし」
これでやっと、ジャンニ・モレッリ親方は本来の仕事に精を出せるというわけだ。
立ち上がり、期日の迫った注文を入れる棚に手を伸ばした。ガラクタで一杯の引き出しは途中でつかえた。力任せに引っぱると、突然抜けた。
ジャンニはよろけた。床の上にくしゃくしゃの注文書や短くなった蝋燭、食べかけのチーズ、鼻をかんだ布、死んだゴキブリその他もろもろが散乱した。
転がった引き出しを思い切り蹴飛ばし、腰掛けに座り込んだ。
溜まった仕事を片づけるという意気込みはアペニン山脈の彼方に消えていた。こんなところをピエルフランチェスコ・リッチョに見られたら、またどやされる。
ジャンニは姿をくらますことにした。表の戸を閉め、ライモンド・ロットの寝室で拾った鍵で施錠する。
ミケランジェロめ。眠りこけてるのか脅えて縮こまってるのか知らないが、何をやらかしたのかたっぷり説明させてやる。
*
ロット家の館は、もう正面玄関が閉まっていた。
明け方まで降り続いた雨はやみ、雲間から陽がさしそめている。陰惨な事件があったとはとても思えない。
立って眺めていると、勝手口のほうから娘が1人出てきた。アレッサンドラの身のまわりの世話をしている、あの小間使いだ。旧市場の方向に歩いて行く。
しばらく考え、ジャンニは後をつけることにした。
*
市場へ買い物に、という予想は外れた。
娘は屋台の間を縫って路地へ入り、靴屋の軒先に近づいた。
話し声は聞こえなかった。相手は巻き毛の若者だった。汚れた前掛けをつけ、陳列台に寄りかかっている。女たらしの靴屋の倅。この若者が夜中に亭主持ちの女の家に入って行くのを、ジャンニは何度か見かけたことがある。
若者は娘の頬を撫でた。食ってかかるようだった小間使いの態度は次第に落ちつき、顔の距離が縮まった。
2人が時折微笑みながら小声で会話するのを、ジャンニは見守った。
靴屋を出ると、娘は果物売りから桃をいくつか買い、顎をつんとあげて歩きはじめた。そして館に戻り、扉を閉めようとしたところで小さな悲鳴を上げた。
ジャンニ・モレッリが戸をがっちり掴み、にっこり微笑んでいたからだ。
「やあ、お嬢さん。驚かせちまってすまない」
「奥様は休んでおいでです。大変なことがあったんですから。今日はもう、どなた様にもお会いになりません」
「いや、お嬢さん。あんたに聞きたいことがあるんだ」
ジャンニが予想した通り、娘の顔にさっと警戒の色が浮かんだ。
「どんなことでしょう?」
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