第60話 【裁判記録・1537年2月23日】(3)

 ジャンニは保管庫を出た。地下牢から話し声が聞こえたのでそちらに向かうと、まだ通路に明かりが灯っていた。


 看守が両手にカードを広げて持っていた。真っ赤な顔で手札を凝視しているところからして、酒に酔って数字を見分けるのが困難になっているらしい。

 トニーノは伏せた札をちょっとめくり、いいのがきたと思ったようだ。


「よし、これで行く」

「だめだ、降りた」


 看守はカードと銅貨を押しやり、財布の中を見て瞬きした。


「もう金がない。おい、ちょっと貸してくれよ」

「あんた、いつかの分をまだ返してくれてないじゃないか」


「くそ」


 看守は頭をがっくり垂れた。


「バスティアーノにも金を借りてたんだった。ちくしょう……」


 レンツォはまだ見つかっていない。誰も言おうとしないが、バスティアーノと同じように家畜みたいに殺されて今頃はアルノ川の深い所にでも沈んでいるのはまず間違いない。明日には川下の漁師が彼を見つけるかもしれない。


 ジャンニは誰かが残した葡萄酒を飲み干し、酒杯を床に転がした。


「おれと一緒に、ちょっと散歩をしたい奴はいないか? なに、そんなに遠くってわけじゃない」


 トニーノが尋ねた。

「どこへ行こうってんだ?」


「トレッビオの城だよ」


「トレッビオ!? なんでまた?」


「あそこで1537年に葡萄酒運搬人が殺されたのを覚えてるかい?」


「そういや、そんな事件があったなあ。貧乏な樽職人の息子が公爵を殺そうとしたやつだろ?」


 と言ったのは看守だ。思い出そうとするように首をかしげている。


「というのはな、あの日、最初の息子が生まれたんだよ。いつ生まれるかと待ってるとこへ隣の男が駆け込んできて、コジモがトレッビオの別荘ヴィラで殺されたと言ったんだ。結局それは間違いで、死んだのは別の男だったが、びっくりしたもんさ。なんせ先代の公爵も殺されたばかりだったから」


「ジャンニ、そこへ行ってどうするんだよ」

「あそこで何があったのか知りたいんだ」

「何って、殺しだろ。もう知ってるじゃないか」


「記録によると、ヤコポはこの事件で証人になってる。下手人の取り調べに携わったのはエネア・リナルデスキだ。偶然にも八人委員会の裁判官だったんだよ。この2人が立て続けに死んだんだぞ」


「けど、もう日が暮れる。今から出発するなんて……」


「ヤコポは下手人の顔を見たと証言してる。真夜中、灯りもないのに彼が何を見たのか、確かめるには夜に行ってみるしかない。誰かいないかい? できれば、あの辺をよく知ってるやつがいいんだけど」


 警察長官庁舎の男たちは、どう見ても面倒に関わりたくなさそうだった。顔を見合わせ、肩をすくめている。空っぽのコップの底に酒が残っていないかと懸命に見つめる者もいる。


「なあ、この老いぼれを1人で行かせようってのかい?」

「私がお供しましょう」


 誰かが呂律の回らない口調で言った。まだ少年っぽい顔の警吏だった。床から尻を上げ、立ち上がった瞬間におかしな表情になり、酒臭いげっぷを吐き出した。ジャンニは怯んだ。


「勇気ある志願に感謝する。だけど……」

「ジャンニ、ガブリエッロはあのあたりの生まれなんだ。こいつなら道を知ってるよ」


 マウリツィオに斬りつけられたあと、酒をしこたま飲んで屋台で寝ていたという警吏だろう。彼が胃の中の物をぶちまけたくなったとき、たまたま目の前にいないことを祈るしかない。


「分かった、ガブリエッロ、きてくれ。他には?」


 考え込んでいた看守が口を開いた。

「昔、トレッビオの葡萄園で働いてた爺さんを知ってる。ヴィートって名前で、確か、事件があった時もあそこに住んでたはずだ。彼に頼んで同行してもらうのはどうだろう」



 *



 ヴィートなる老人は市門の外に住んでいるとのことだった。


 細かい雨の中、通りを進むうち、ジャンニはヤコポの家に顔を出しておきたかったのを思い出した。


 ちょうど通りのすぐ先にある。

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