第58話 【裁判記録・1537年2月23日】(1)

 日暮れの鐘が鳴っていた。


 ミケランジェロは素描帳に何やら描いているところだった。ジャンニが扉を開けると、彼は散らばった紙を慌てて隠した。


 気づかないふりをして、ジャンニはレオーネ通りの騒ぎを話して聞かせた。


「すると、居酒屋で逮捕された腹いせに、その男は警察の役人2人を殺したんですか?」

「ああ、そうらしい」


 レンツォの父親のジュスティーノは、ジャンニがほんの10歳くらいのときにフィレンツェを出て行き、戻ってきた時には女と子どもを連れていた。


 ジャンニはもちろん再会を喜んだ。が、つきあいは昔通りにはならなかった。ジュスティーノはラグーサで事業に失敗していた。そのせいかどうかわからなかったが、彼の顔からは精悍だった昔の面影がなくなってしまっていた。まだ30をいくつか過ぎた年齢だというのに額には深い皺が刻まれ、暗澹とした表情でいる日が多かった。


 ジャンニは複数の工房を渡り歩いて精力的に働いていた。ローマとフィレンツェを行き来もした。友情がなくなったわけではないが、どこかぎこちないものになってしまっていた。


 ミケランジェロはそわそわと手製のペンを片付けはじめている。


「なに帰り支度なんかしてるんだ? 仕事はこれからだぞ、お若いの」

「えっ、仕事?」


 ジャンニはヤコポの手紙を取り出した。


「帰って寝るにはまだ早いだろ? エネア・リナルデスキは8年前に裁判官だった。あのおっさんがここでどんな腹黒いことをしたのか、ちょいと調べてみようじゃないか」


 ミケランジェロは文書係助手のチェスコと戸惑った顔を見合わせた。


「ここをおれ1人でさがすのは無理だ。どうせ、8年前の記録なんかどこにあるか誰も知らないんだろうからな」


「いえ、それなら分かります。エネア・リナルデスキが市民裁判官だったのは1537年1月から4月まででしたね?」

 

 チェスコが黄ばんだ冊子の束を引っ張り出した。

 問題の4カ月間に八人委員会に提出された嘆願書の束、刑事訴訟の記録、紐で綴じられた訴状や裁判の判決、箱に入った密告状。大きなにざっと2杯分の量がありそうだ。


 もっとも量があるのは嘆願書だった。それがいかにろくでもない訴えで溢れているかは知っている。それに、どうもエネア・リナルデスキとヤコポの関わりを調べるにあたっては訴訟記録に足がかりがあるような気がする。


 過去に裁判官に任命された不運な同僚たちの労苦を思い、自分も同じだけの書類と関わることになるのかと考え、ジャンニはうんざりした。


「よし、こうしよう。嘆願書は棚に戻していい。残りの束からリナルデスキのおっさんが出てくる記録を抜き出すんだ」


 チェスコは紐の結び目をほどこうとしていた。無理と分かると、鋏を持ってきた。紐が切られ、黴の臭いが押し寄せた。紙は茶色く変色して湾曲し、紐が食い込んでいる。


「あとで整理するつもりだったんじゃないでしょうか。8年前の係は横着していたな」



 *



 中央に積みあげた記録簿の山から、各自が数冊ずつ取った。ジャンニの要領を得ない命令のせいで文書係助手は困惑していた。ミケランジェロは誰かを待たせてでもいるのか、気もそぞろだ。

 そして3人のうち誰も、何を探せばいいのか正確には分かっていなかった。


 ジャンニは一番上の記録簿を取った。エネア・リナルデスキが関わったことを匂わす文面はない。


 ミケランジェロが横から遠慮がちに顔をのぞき込んでいた。


「あのう、親方……」

「なんだい?」


「ライモンド・ロットの妻の宝飾品ですが、ぼくに図案をやらせてもらえないでしょうか。親方は、その……忙しいようだし、ぼくはフィエゾレの親方のところで製品の下図を描いたことがあるんです。ぜひ、やらせてください」


 ジャンニは顔も上げなかった。

「そりゃ、だめだ」


「ですよね……でも……なぜです?」


「あの女は飢えた女郎蜘蛛みたいにお前さんをぱっくり食っちまうからだよ。晩飯をご馳走になったとき、おれが若い徒弟なんか連れてったもんだから涎を垂らしそうになってたぜ。おれは、若いもんがライモンド・ロットに一物を切り落とされてのたうちまわるとこは見たくない。お前さんをあの女のとこなんかへやったら、働き手を1人なくすことになる」


 ジャンニは首の後ろをもみ、記録簿を押しやった。いつのまにか、窓の外では雨が降りはじめていた。


 文書係助手はジャンニが最初に読んだ記録簿をめくっている。


「そいつはもう見たよ、チェスコ。エネアのことはなんにも書いてなかった」

「ですが、ここにヤコポという名前が出ています。あの葡萄酒運搬人のことじゃないでしょうか」

「ほんとか? 見せてみろ」

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