第51話 薄闇の先(1)

 レンツォは急ぎ足で家に帰った。バスティアーノに会ったら、骨董屋が手に入れたという情報がどんな内容だったのか聞かなければいけない。一緒に行かなかったのを今になって後悔していた。


 茹でた羊肉とレバーのフライが皿に残っていた。階下の店で余った料理をもらってきたのだろう。野菜や豆と一緒に大急ぎで腹に詰め込んでから、レンツォはまた家を出た。


 広場を通りかかったとき、薪の束を肩に担いだ母親のテオドーラが近所の女と大声でお喋りしているのが見えた。

 女にしては大柄で、両腕なんか息子の脚より太くて頑丈そうだとはいえ、よく木材の束を抱えて立ち話なんかできるものだ。女は凄い。



 *


 

 旧市場には、知った顔は誰もいなかった。バスティアーノはまだ戻っていないようだ。八人委員会は、大聖堂で働いていた石切職人の1人を拘束したとのことだった。


 ハンガリー出身のその若者はイタリア語をろくに話せず、書記官と裁判官を手こずらせていた。修繕作業のあと、作業員らは集まって酒を飲んでいたが、どうやら彼だけは一緒に飲み屋へ行かず、そのことが疑いを招いたらしい。


 若者は脅えて牢の中で膝を抱え、誰とも話そうとしないという。


 大聖堂管理委員会が八人委員会に提出した名簿には、他にも現場に出入りできた30人ほどの名前があった。全員を調べるのに数カ月はかかる。この馬鹿騒ぎの末に残るのは被疑者で満杯の牢獄とその管理費、それに伴う経費の増大と公爵の不満くらいだろうという気がしてきた。


 牢獄の看守はカードの勝敗を記した壁の印を睨んでいた。試合はバスティアーノが順調に勝ち続け、彼に2点、トニーノに1点入っていた。看守は負けが込んでいるようだ。


「あんたが囚人をぶん殴ったのを上に黙っててもらうために、守衛にいくらふんだくられたと思ってるんだ?」


「悪かった」


「あんたの頼みは二度と聞かないぞ。次にあんなことがあったらおれの首が飛ぶ。それに……」


「いくら払ったんだ?」


「5ソルドだ、お若いの。この間トニーノに負けた額より1ソルド7デナーロ多い。おれにとっちゃ大金だ。5ソルドありゃ飯屋でウナギが食えた。ここの給料は馬鹿みたいに安いんだからな」


「これで半分だ、残りは次に払うよ」


 ルカにやってしまったので、財布には金がほとんど入っていなかった。看守はぎょっとして、出された硬貨を見つめた。


「よせよ、そんなことするな」


「いいんだ。あんたには迷惑かけた。ピエロ・ランフレディの息子はどうせまた何かやらかす。そこをとっつかまえて報奨金をふんだくってやるんだ。とっといてくれ」


「しまえよ、そんなもん。らしくもないな」


 男の叫び声が、どこからか反響して聞こえてきた。

 看守が言った。

「例のヴァレンシア人だよ。脱獄を企てていたっていう」


 取り調べのために2日前、牢獄から移送されてきたペロとかいう名前の男がいたのをレンツォは思い出した。前の晩の事件で頭が一杯で、脱獄を企てていたベルナの仲間のことなんかすっかり忘れていた。


「ラプッチが2度にわたって尋問したが、結果は思わしくなかったらしい。今日は警察長官が同席してる」


 尋問監房の扉は少し開いていて、内部の様子が見えた。2人の裁判官が座席についている。向かい合う位置で〈縄〉にかけられている男が問題のヴァレンシア人だろう。


 汗まみれの顔が苦痛に歪んでいる。


 背中側にねじられた両腕を見たとき、外科医がエネア・リナルデスキの死体について言ったことを思い出した。


 脱臼した両肩。


 外科医の言う通り、事故ではないとすると、エネアは死ぬ前にこれに似た拷問にかけられたのだろうか?


 滑車の軋みに邪魔され、話し声はよく聞こえない。


 レンツォは扉に身を寄せて耳を傾けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る