第44話 もうひとつの情報

 近隣の住民が集まってきた。リッピーナがガブリエッロを井戸へ連れていき、血を洗って傷を縛った。


 両手に縄をかけられる間、マウリツィオは一言も口をきかなかった。顔立ちの整った偉丈夫だが、身なりに無頓着な日々を送っていたのか、体は悪臭を放ち、汚れた髪が伸びている。ほどなく両側から腕をとられ、庁舎に連行されていった。


 マウリツィオが所持していた短剣はバセラルドと呼ばれる、I形の柄が特徴的なスイスの短剣だった。室内には他にも、装飾のある珍しい細身の長剣が2本隠してあった。


 八人委員会は犯人を見つけ次第、死罪に処すと決めている。下手人が判明していないのに死刑の決定は極めて異例だが、大聖堂に死体を吊るすという冒涜行為がもう前代未聞と言えた。公爵は徹底的な捜査と処罰を命じている。マウリツィオが黒なら、明日の朝に首を斬られてもおかしくない。


 刃物を向けられた恐怖がいつまでも消えなかった。動悸がおさまらず、背中を流れる汗が冷たい。しだいに興奮が去り、頭がからっぽになると、ラウラのことを思い出した。日が暮れたら会いに行ってみようか。



 *


 

 レンツォが老女の家に乗り込んだ顛末を知るや、バスティアーノの顔は怒りで真っ赤になった。

「あいつには関わるなと言ったはずだ。なのに勝手な真似しやがって。お前のせいでコッラードがどうなったか忘れたのか。仲間を危険にさらしてるんだ、それが分からないのか?」


 ガブリエッロは傷の痛みを紛らわそうと市場で葡萄酒をがぶ飲みしている。


 無分別だった。もっと慎重に行動するべきだった。レンツォにもそれは分かっていた。だが、同僚の前でこれほど激しくなじられたのは初めてだった。憤りと恥ずかしさで顔が熱くなった。

 思わず立ち上がると、椅子が後ろに倒れた。


「おれのせい? あんただっていたじゃないか。おれだけの責任じゃない。コッラードがやられたとき、どこにいた? 腑抜けみたいに伸びてたのは誰だ? あの野郎を取り逃がしたのは、あんただって同じじゃないか!」


「そうだ、けどおれたちが捕まえなけりゃいけないのはあの頭巾の野郎だ、ランフレディ家の穀潰しじゃない。今後もここにいたいなら、黙って動くような真似はするな。嫌なら出てけ」


「あんたはおれの話を聞こうともしなかったじゃないか。それでおれが手柄を立てたもんだから気に食わないんだろ?」


 戸口に、ルカが立っていた。薄汚れた格好で、顔は髭だらけだ。遠慮がちに詰め所の中を見回している。

「あ、あのさ、ぶち込まれたときに守衛に財布を取り上げられたんだよ。あれって返してもえらえるのかな」


 よくあることだ。まず返してもらえない。机の上に、小銭が山盛りの皿があった。それを指さして、好きなだけ持っていけとレンツォは言った。

 ルカは皿の中の銅貨をすべて袋に入れた。まだ何か言いたそうな顔だ。


「足りないのか?」

「今、すかんぴんなんだ。もう盗みはやめたいんだよ。でも真っ当な職にありつけなくってさ、わかるだろ」


 マウリツィオを見つけた満足感は消えてしまっていた。レンツォは腰掛けを乱暴につかんで立たせ、尻を落としてから財布を取り出した。たいした金は入っていなかった。

「市内で、ヴァレンシア人のベルナをかくまえるのは誰だ?」


 ルカは金をもらおうと伸ばした手を引っ込めた。

「笛吹きのカルリーノ」


 カルリーノはもう牢の中だ。


「他には?」


 肩をすくめる。知らないというのだろう。


「ベルナについて他に何を知ってる?」

「ローマあたりから流れてきたって話だ。顔は知ってるけど、つきあったことはない」


 何か隠しているのではないかと勘ぐった。が、この盗人がヴァレンシアの石切職人をかばう理由は何も思いあたらない。


「ビッチは?」

「知らない」

「葡萄酒運搬人のヤコポには敵がいたか?」

「敵がいたかどうかは知らないけど、しばらく前にポンテ・ヴェッキオの橋で男と言い争ってたって話を聞いたよ」


 まったく期待していなかったので、その話を頭が理解するまでしばらくかかった。


「男?」

「ああ。見たやつがいるんだ」

「いつ?」

「2カ月くらい前らしいけど」


 脱獄の計画が事実で、ヤコポもそれに加担していたなら、ベルナと面識があっただろう。しかし、その頃はまだ牢獄にいたはずだ。口論していた相手はベルナではない。


「誰だったんだ、その男ってのは」

「さあね。おっと、そんな顔されても何も答えられないぜ、知らないんだから。知ってることは、あの時あんたにぜんぶ話した。殺されたなんて思ってなかったもんでね」



 *



 くさくさするのは、なじられたからではなかった。大聖堂から逃げた頭巾の男がマウリツィオだったのかどうか、レンツォ自身、いまだに確信がもてないからだ。記憶にある姿とマウリツィオを重ね、少しでも似ているところをさがそうとした。うまくいかなかった。


 警察長官庁舎の通用門の前を通りかかると、守衛が声をかけてきた。


「残念だったな」


 何を残念と言っているのか分からなかった。考えても思い当たることはない。


「何が?」

「なんだ、知らないのか? マウリツィオは釈放された。ついさっきここから歩いて出て行ったぜ」

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