第一一章
――光明を見た瞬間、油断する事勿れ。光明とは時に、影をも連れて迫り来る。
*
いつもと同じ、事務所長室。
コクトはその室内で事務に明け暮れていた。
提出された書類に目を通し、外商での委任許可書に調印する。
一枚一枚に目を配り資料を整理するその手つきは手慣れており、見ていて清々しい物だった。
「……ふぅ」
実験から一月、体内のサンドスターρは徐々に侵攻が収まっている。
初期段階では肉体が弾けそうな程の苦痛が日中日夜止まらず続いていたが、どうやら肉体に定着したらしい。
(この具合なら近い内にこの肉体でワクチン生成が可能かも知れない。ただ、正直に私だから出来た荒療治かも知れないな……。こんな物、覚悟した常人でさえ理性が吹き飛ぶ程だ)
作業の手を止め、自分の掌を見る。
手を握っては放し、肉体が正常かどうか確認する。
異常が無いと解ると、一息つくようにして横合いに置かれた珈琲を一口啜った。
プルルルルルッ
不意に、ジャパリパークの専用端末からコール音が響く。
コクトは直ぐに手に取って受話器を耳に当てた。
「はい、此方コクト」
「所長! 急患です!!」
電話の向こうから焦るような大声で叫んできた。ウッと一瞬耳への痛みを懸念したが、直ぐに切り返して話を進めた。
「外傷か? 症状は?」
「そ、それが……」
「何だ? ハッキリしろ」
「じ、実は……その患者が……患者の病気が……」
「落ち着け、深呼吸して話してみろ」
コクトの忠告は、相手に軽く無視される。
それは、其れだけ人の声が耳に入らないような怯えと恐怖を感じてしまっているような震えた声で、受話器から聞こえてきた。
「――っ」
コクトの目が変わった。
光の無いその灰色の目は一気に瞳孔を開き、口は半開きになっていた。
一瞬、彼の思考はその言葉の真意に対しての考慮を拒絶した。
だが、彼はその瞬間直ぐに気を取り戻し、発した。
「直ぐに精密検査に掛けろ。
返答を待たずコクトは、部屋を飛び出した。
いつになくその足は速い。
片手に握った携帯端末に汗が付く程に、酷く焦っていた。
(何故だ)
走りながら。
走りながら彼は、思った。
(何故いつも、こうなるんだ!!)
*
医療機関。
コクトは入り口に付くと受付を無視し、患者であるフレンズを避けて一つの一室に付く。
「……、」
部屋の前まで来ると、焦った自分を落ち着かせるように息を吐く。これから起こる事に対して、冷静に対処しなければならない。
そう言い聞かせるように。
「失礼する」
「おお、来たか」
病室を開ければ、其処にはベッドの上で、患者服となっているミタニの姿があった。
彼は一見元気そうに手を振っているが、片方の手には点滴のような物が刺さっている。
「どうやら、此処までのようだな」
「……お前、知ってたのか?」
「そりゃあなぁ。休みを貰って本島で見て貰った事がある。その時からだな」
「何で、何も言わなかった」
「お主は、そう言う事に敏感だろう?」
「ッ!! ……、検査結果を見てくる。無理はするな」
「おー」
今までのミタニでは考えられない、気の抜けた声。
部屋を出たコクトは、顔に手を当て、頭を押さえた。
(いつも思う。こう言う手合い程、面倒な事この上ない……本当に、本当に……クソったれ)
*
「いらっしゃいましたか。所長」
検査室内に入ると、其処には三人の専門医とカコが居た。
カコ以外の三人は、苦悶な表情を浮かべている。
「あ、あの、所長。精一杯サポートしますので、気は落とさないで下さい!」
「あぁ……。検査結果は?」
そう言うと、一人の専門医はパソコンを使って
「……胃癌か。それもコレは。ステージ……Ⅳ」
「はい、それも、進行型胃癌の可能性も高く。更には既に各地に飛び回っていまして……その」
「処置の施しようが無い、末期癌。それも最終ステージ……か」
「なっ!? 何とかならないんですか?!」
彼等の苦悶の声に、カコが焦った声で吐き出してくる。
ただ、その前向きな言葉は、寧ろ矢のようにして彼等の心を抉った。
コクトは、静かに言った。
「カコ、この際だ。良く聞いておきなさい。進行型胃癌。その恐ろしいのは、粘膜から漿膜に掛けてじわじわと進行していく病気でな、漿膜を突き抜けて胃の外側に達すると、がん細胞が飛び散って前進に転移してしまう。血液、リンパ、腹膜、それらに乗って転移し、孰れ全身を回って死に至らしめる。ミタニは、謂わばもう転移してしまった状態なんだ。そうなってしまうと、外科手術での切除は不可能。頼れるのは化学療法か放射線治療のみだ……ただステージⅣと言うのが絶望的なんだ」
「え……」
「ステージⅣは生存確率七%。だが、ここまで転移し進行していると……もう……」
「や、薬品などでの治療で長期の治療は!?」
「無理だろう。精々延命期間を延ばすだけだ。……だが」
コクトはそう言うと、目線を専門医に切り替える。
「腫瘍の数は?」
「……八です」
「……そうか」
「た、確か腫瘍が八つって……」
「絶望的だ」
無慈悲だった。
だが、言ってる本人もその表情は暗く沈んでいる。
決断を早めるつもりは無くとも、医療に置いても、どうしようも無いという現実は覆せない。在るのだ。常に諦める心が無くとも、賢明に喰らいつく覚悟があろうとも、〇%は、確かにあるのだ。
「患者の……ミタニの処置希望は?」
「いえ、ミタニさんは……治療を受けないとの事です」
「……多く見積もっても一週間……も、無いか」
「所長……」
カコも含め、専門医達の目は、沈んでいた。
少なからず、コクトを心配している目もあったが、諫めには成らない。
「ミタニとは、私が話す。各々、自分の持ち場に戻ってくれ。何かあればまた連絡する」
「ぁ……」
コクトは、それ以上は何も言わず何も聞かず、部屋を後にした。
*
「失礼する」
コクトは、ミタニの病室に入る。
カーテンは開き、扉が開け放たれている。
外の空気が入り込み、この部屋は何処か心地が良い。
ミタニは一人、彼の声が聞こえないのか、外を眺め続けていた。
「……ッ」
コクトは唾を飲み、息を落ち着かせると、緊張していた表情を穏やかにして、彼へと近づいた。
「良い、景色だな」
「……来てたのか」
「まあね」
「悪いな、少し、眠かったらしい」
「構わないよ。少し、話そうか。ミタニ」
「ああ、そうだな……」
ミタニの表情に、今までの堅さは無かった。
何か、重荷が外れたかのように、酷く穏やかで、何処か、儚げだ。
そして、それは、互いにも言えるだろう。
「私の余命は、後どのくらいだ?」
「……数日だ。伸びて一週間」
「包み隠さず言うのだな」
「患者に嘘はつかない。判断するのも彼等だし、それでも生きようとするなら助けるさ。私達医者は、救うのでは無く、患者の生きるという意志の手伝いをしているのだからな」
「手厳しいな」
「それは、お互い様だ。お前に言うこの言葉程、今程辛い事は無い」
「お主はそうだったな。仲間外れを嫌っていた。いつも、調和を計っておったわ」
「そうでも無いさ」
「そうか……」
「……間違っても、無いさ」
「そうか」
時間は、静かに流れる。
そこに、所長と副所長の姿は無かった。
寧ろ、親子と言うべきか。
久々に帰ってきた息子が、父と二人で語らうような、そんな、懐かしい気分だった。
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