第五節

 ある程度慣れてしまうと、違和感を感じなくなる事象がある。


 その一つとしては、文の世界でも表現される、白い天井だろうか。

 言ってしまえば、何度も入院生活を送っていれば、そのうちその天井を見ても、違和感が無くなってしまうと言う事だ。


 まあ、安直ではあるが、其れが今のコクトだった。


「……、」

 目を覚ませば、彼は見慣れた白い天井を目にする。


 ジャパリパーク医療機関。

 病院個室。


 その中で、彼は目を覚ました。


「……、」

 身体をゆっくりと起こし、周りを見渡す。

 右側に窓、左には扉。

 殺風景な個室には、誰一人として人は居なかった。


 何をするにもどうしようも無くなった彼は、ベッドを降り横に掛けられた白衣に腕を通して病室を出る。

 病院内はいつも通り平常的に運行しているようで、検診、治療、診断、全てが変わらずにいつも通りに行われていた。


「あ、所長、起きましたか」

 彼に向かって一人の医師が声を掛けてくる。

 其れはこの医療機関の新人医師である一人の青年だった。


「ああ、おはよう。えっと……」

「ああ、とりあえず事後報告はミタニさんが話すと言う事なので、出来たら研究局に来て欲しいと言う事です。何でも、少し話したい事もあるとか」

「そっか、わかった」

「いえいえ。でもビックリしましたよ。コクトさんが倒れて一週間も昏睡状態でしたからね」

「……ッ!?」

 その事実に眼をギョッとさせるコクト。

 自分はそんなに長く意識が切れてしまったのかと思い、頭を抱えて吐き捨てた。

「そ、そんなにかぁ……仕事がゴッソリ溜まってそうだ」

「あ、あはは……お疲れ様です」

 額に冷や汗を浮かべながら、新人医師は苦笑いを返してくる。


「そう言えば、医療機関の方は今どうなっている。人で問題や器材関係など、問題点はあるか?」

「そうですねー……今は特に。この前入ってきたカコさんも、以前の職の慣れか既にこの病院の外科専門医として活躍してくれていますし、寧ろ良好状態です。フレンズの通院や検診なども特に問題は無いですし、入院しているフレンズも居ますが、重傷者は特になし。完全に平和とは言えませんが、重大な問題に直面している事もないですし、現状は万事良好です」

(やっぱりカコの導入は正解だったな……)


 彼女一人入れるだけでか、元々の医師達の技能値の御蔭か、最近になって医療機関におけるコクトの出る幕は殆どと言って良い程無くなっている。

 企業が確立しだした兆候にあるのは事実で、ある意味安心できる情報となった。


「じゃあ私は早速ミタニの所に向かうとするよ。ああ、今週の経過報告は後で先週のと一緒に送ってくれ」

「了解しました」


 伝えるべき事項をキッチリ伝え、コクトは病院を後にする。

 元々医師である自分が、病院に居場所を感じなくなったのも事実だが、その中で部下達が成長しているというのは中々に嬉しい事だった。

 ただ、少し悲しくもあり、なんとも言いがたい顔のまま彼は研究所に向かう。


「……ハハッ、嬉しいような、寂しいような」


 小さく吐いたその背中は、何処か悲しく、寂しく見えて……。


   *


 いつもは……と言う言葉も、今はもう無い。

 嘗て、コクトが外回りから帰って来れば、中の職員が足早に寄ってきて仕事の報告をされた物だ。

 彼等では対処できない仕事を自分がやり、自分が教え、自分の場所がそこには在った。


 今はもう違う。


 研究所に入れば、喧騒も騒がしさも無い、声明の整った声で語らう研究者達、物静かな歩みで所内を進む研究員。休憩スペースでは少女子会如く女性研究員が仲良さげに談笑をしている。


「……、」

 流し目でロビーを一望すると、彼は静かに目的の場所に歩み始めた。


「……、」

 何も言わず、

 廊下を渡り。

 何も言わず、

 階段を上り。

 何も言わず、

 扉に手を掛けた。


『副所長室』と名札に書かれた扉を開く。

 そこには、資料と向き合い睨めっこをしながらも、此方に気付き大きく息を吐き捨てて歩み寄ってくるミタニがいた。


「ああ、目覚めてたのか」

「……ああ、悪かったな」

「いや良いさ。此処の所休み無しだっただろうし、倒れる前の話は聞いている。研究員達も今後は気をつけるように伝えておるよ」

「人事課か?」

「ああ、まるで殴り込みのようだった」


 事後処理報告。

 経過報告。


 必要事項は口頭で簡潔に行われ、状況確認をした後だった。


「――と、まぁ、以前変わらずだ。カコ君が研究所に来てからというもの、研究対象の多角化が行われ、現在各チームに分かれてプロジェクトを実行している。総務課の方も以前変わらずか。良くも悪くも、特に報告は無いらしい」

「……そうか」

「……どうした、未だ優れんのか?」

「いや、そこはまぁ……医者の自分がよく知ってるよ。万全さ。……ただ」


 部屋の壁に貼り付けられた窓に視線を移す。

 何処か、寂しそうな顔の青年は、小さく息を吐きながら言った。


「もう、四年も経ったのか」


「……嗚呼、早いなぁ」


 互いに視線を外に移す。

 嘗てはこのような整った施設はなく、コンテナの中で無我夢中の作業だった。

 それ故にか、時間が過ぎ去るのも忘れ、酷く辛くとも、苦では無かった。


 今は、どうだ。


 設備も、足場も、土台も、全てが整い始めている。


 流れる時の中で、この島は進化した。

 人の手によって、知恵によって、叡智によって。


 唯、正しい事なのかは知らない。


「……お主は、あの頃は未だ子供だったな」

「そうだな、未だ年端も無い一六歳だったさ」

「……お主は、良かったのか?」


 ミタニは、視線を戻しコクトに訴える。

 彼の人生の、その正当性を。


「仮にもお主は、そのズバ抜けた知識と叡智からこの島を復興させた。それ以前も嘗ては医者であり、更には獣医でもあったと聞いた。だが、一六とも言えば、それらは子であり、人並みの人生と、若さ潤った青春と、他愛のない日に焦がれたはずだ。其れを投げ捨ててまで、今はもう大人となってしまったお主は、そこまで人生を不意にして、其れでお主は良かったのか?」


 彼の言う通りだろう。

 コクトは、その人生が人とは全く別の道を歩いてきた。

 学校で言えば飛び級、軍隊で言えば特進、頭脳や成績によって、人の冠位はその序列を優先されてきた。

 唯、そう言う者達は、言うなればその中間、常人が歩むべき道を通り過ぎ、歩めずに終わる事を示している。


 凡人が天才を求める程に、優れた者もまた、普遍を求めるのだ。


 だが。


「……別に良いよ。そもそも、元から同じ舞台に立てちゃ居ないんだ」


 目線は変わらず、外の景色を見る。

 その眼は何処か、と言うよりは、未だ黄昏れたまま。


「……下手に聞かんが、唯、未練は残すなよ」

「嗚呼、そのつもりさ」


 彼等二人の会話は此処で終わった。

 コクトは部屋を去る。


「ゴホッゴホッ……」


 大きく咳をして、ミタニは彼の去って行った扉を見て、そして彼が見ていた窓の扉へと歩み出した。

 窓の鍵を開け、扉を開けば、ブワッと心地よい風が肌を撫でる。


「もう、そんなに経つのか」


 窓辺で一人、ミタニもまた、悲しそうに呟いていた。


   *


 事務所も同じだった。


 入れば少し五月蠅いだけのいつもの所内。

 総務課に向かえば、コクトの机には目を通す必要のある資料だけ。

 以前までは、職員達では未だ対処できない資料が重ねられ、それらをコクトが並行処理していた。


 だが今は、もう無い。


 総務課室の職員達の机を見れば、彼等が整理中である資料や、中には全て終わらせた職員が他の職員に手を貸している所が見受けられる。


「……、」


 コクトは部屋を後にし、事務所長室へと向かい、部屋の中にある腰掛けチェアに大きく息を吐き捨てながら腰掛ける。


「嗚呼」


 ポツリッ。


 呟いたのは、たった二語の言葉。

 唯其れは、力の無い、弱々しい声だった。

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