9.夕刻の帰路

 PM5:00。30度を超える暑さが訪れてしばらく経ったが、夕刻になると絹のような風が肌に当たる今年の夏は幾分過ごし易い。ナゴヤ駅でマナミと、そして多数のプライベートエデンの信者たちと別れた俺たち二人は、三人と一匹が待ちぼうけているであろう家に辿り着いた。

「明日は雨が降るかもな」

 ヨンジーが空を見上げながら言った。少女の視線の先を見ると、ナゴヤ空港あたりを飛び立ったのだろう飛行機が、赤みがかった空を割るように太く長い雲を引いて飛び去って行った。

「今日出かけておいて良かったな」

 言って、綺麗に並んだ小さな歯を剥き出しにして笑うヨンジーに、電車の中で感じていた不安が消えていくのを感じた俺は、小さく頷いた。

「そうだな。さて、ヨンジー、俺の家に入る時だが、いくつかルールがある。まずはドアを開けるときは素早く―――」

 言いながら、玄関のドアに手をかけ、引く。しかし、開かない。鍵がかかっている。

「あれ?」

 俺が発した疑問の声は、開かないドアについてではなく、俺たちの背後に立って雁首を揃えた同居人たちの、悪戯が見つかったかのような気まずそうな表情についてだ。

「お前たちも出かけていたのか」

 俺の問いかけに、ユウが目を逸らした。確定だ。こいつらは何か悪さをしていた。

「う、うん。ユウ君の家に行ってたの。大きいビルだったよね、シーナ」

 イブの性格について、何かを誤魔化そうとしてもすぐ顔に出るように設計した製作者は偉いと思った。会ったら「よくやった」と賛辞を贈りながらぶん殴ってやろう。

 しかし、浅はかな隠蔽は、そもそも誤魔化す術を知らない純粋無垢な魂の前に敗北する。シーナが嬉しそうにこう言った。

「うん!街にあんなにカメラがあったなんて知らなかったね!イブお姉ちゃん!」

「ほう」

 会話についていけていない様子のヨンジーのキョトンとした表情に愛想笑いを返すイブを放っておいて、俺は女子と並ぶと本当に性別不詳になる少年と男同士の会話をするため、その細身の肩を抱いて玄関先の外側に連れ出した。

「なぁ、ユウ。お前と会ったのはもう三年前だ。この中では、付き合いが一番長いはずだろう?」

「ああ、そうだね」

 あくまで目を逸らそうとするユウの色素の薄い肌に頬をぐい、と寄せて、俺はストーキング被害者として実行犯を糾弾する声を出す。

「実の弟より弟だと思っていた友人に裏切られる気分は良くないな」

「そ、それは光栄だね。ボクは一人っ子だから、兄弟ができて嬉しい―――」

「兄のプライベートを覗こうと提案されたら、止めるのが筋だろう?それが弟というものだろう?」

「……ごめんなさい」

「一つ、“貸し”だぜ?兄弟」

「あぅ……」

 恐らく言い出しっぺであろうイブについては、別途、糾弾と折檻の機会を設けるとして、一先ず家に入ることにする。シーナの持っているペット用のケースが、先ほどから悪霊でも取り憑いたように右に左に大揺れしているからだ。うちの家主は狭いところが嫌いなのだ。


 以前は殺風景そのものだった家だが、そこら中に、主にイブが脱ぎ散らかした服や、シーナが食べ散らかしたお菓子や、レノンが訳もなく普通に散らかした諸所のものが床を埋め尽くしたことで、すっかり生活臭が出たような気がする。断じて、祖母が遺した家が無残に散らかっていくことに対する現実逃避でそう考えているのではない。決して。

「ヨンジーさん、ユウ君が部屋を片付けたから一緒に行こう」

「ありがとう、イブ」

 そんな家の中で、ヨンジーがイブに案内され、ユウから明け渡された部屋に荷物を下ろしに行っている。シーナは―――ドタバタと音がするのでどこかでレノンと追いかけっこの最中だろう。

 その間に、俺は夕食の準備に取り掛かるため、台所に立って冷蔵庫を開け、一枚の皿を取り出した。

「それをヨンジーさんに出すつもりかい?サブ」

 冷蔵庫から出した皿をレンジにかける俺に、ユウが血みどろの殺人現場でも見るかのような目を向け訊いてきた。

「何か問題でも?」

 橙の光に照らされゆっくりと温まっていく餃子を見ている俺の声に若干被せるほどの素早さで、ユウが言葉を叩き返す。

「問題しかないよ。それは君が昨日、みんなで作ったやつの余り物を使って夜中にせっせと一人でこしらえた餃子だ。危険だよ。そんなダークマターをお忍びのスターに提供して傷物にするつもりかい?」

 ハイテクがもたらす叡智の全てを父から授かっているような少年が吐く迷信めいた言葉に、俺は諭すように言う。

「みんなで作ったら美味くなったなんてことあるわけないだろう。コツが分かったんだ。いいから食卓に持っていけ」

 かくして、俺が一人で作った餃子が、同居人三人の不安気どころか世界の終わりのような表情を並べた居間の食卓に配膳されたのだった。

「いただきます」

 シーナがいつもの元気が全くない声で言うと、とりあえずといった感じでインスタントの味噌汁を啜る。イブもユウもメインディッシュには目も向けず、一番に餃子に箸を動かしたのはヨンジーだった。

「……これは誰が作ったの?」

 餃子を一口齧ったヨンジーが表情も無く言った。

「俺だよ」

「死ね」

「死ね!?」

 最早『ぶっ殺す』ですらなかった。

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