郷に入って君に従ってその1
―――約1週間後、午前。バルアーノ領、ヴェネット、上級市民街
「……今日も雨なのね」
「ここの所、続きますねぇ」
窓の外でシトシトと強くもなく、かといって無視出来ない程には弱くもなく……降り続ける小粒の雨を眺めながら、アイリーンが独り言を零す。
誰に聞かせるでもなかったそれに相槌を打ったのは、ここバルアーノ領はヴェネットの街に滞在するにあたって、アイリーンの身の回りの世話をする為に用意された、ベテランの使用人だ。
名をルイーザといい、愛想のいい
ルイーザは失礼しますよ、と背後から一言忠告して、アイリーンの背中を足裏で抑え付けながら、コルセットの紐を両腕で力の限り引き絞る。グエッと蛙が押し潰されたか時のような声が漏れるのを堪える為、なんとかやせ我慢を続けるアイリーン。
「アスユリ領じゃあるまいし、ここら辺には雨季なんてないんだけどねぇ。おばちゃんも、こんな長い雨は初めてやわぁ」
ルイーザはその後も色々と喋っていた様子だったが、アイリーンはというと、コルセットを着ける前の強烈な圧迫感に息も絶え絶えで、話の内容は半分も入ってなかったし、口ではなく手を動かせと伝えたい所だった。(まぁ苦しくて、そんな余裕もないのだが)
「はい、お終い。もうちょっとで、おめかしも終わりやからね」
「ははっ、そうね。よろしく」
手を動かしている時間よりも、口を動かしている時間の方が多いのは、バルアーノ女(特に中年以降)の特徴といっていいだろう。その語り口は軽妙な上に滑らかで、ここ4、5日降り続ける雨の影響でジメッとした重い空気を、気持ち和らげてくれる。
そうして粗方のドレスの着付けが終わると、次は化粧やヘアセットである。肩が凝り固まるのも我慢して、真っ直ぐ前を向いていたアイリーンだったが、玄関口前に馬車が着けられる音がすると、ピクリと反応して視線だけを外へと運ぶ。
この音がしたという事は、馬車と御者の手配をしていたマテウスも帰って来たという事だ。案の定、ノシノシと重い足音が部屋へと近づいて来て、雑に部屋の扉がノックされる。
「アイリ……準備は出来たか?」
「もう少……」「はいはい、慌てんでも、もう少しで出来ますよっ。女の子の用意は時間が掛かるんですからね。そんな
弾んだ声を上げながら、マテウスの問い掛けに応えようとしたアイリーンだったが、それに被せるようにルイーザの声が割って入って、彼女の声を掻き消す。
「分かった。まだ時間に余裕はある。下で待っているぞ」
「あっ……」「おおっとっ……あんまり動かんでくださいな。お召し物が汚れますと、大変やからねぇ」
今日の予定……技術交流会のホストである、シスモンド・ゾフ伯爵との晩餐を前に、少し緊張していたアイリーンは、もう少しマテウスと話をして、リラックスしたかったのだが、あっさりと離れていく足音に、僅かな寂しさを覚える。
(一緒にいてくれれば、すぐにドレス姿を見せてあげられたのに……)
口にしても仕方がない、子供のような我が儘。そんな感情がメイクを進めている顔に出てしまわないように、努めて無表情を守っていたのだが……
「「アハハハハハッ!!」」
1階から聞こえてくる複数の大きな笑い声に、集中力が搔き乱されて顔が動いてしまう、アイリーン。それをルイーザがすぐに押さえつけて、正面へと向きなおさせるのだが、楽しそうな話し声や笑い声が断片的に届いてくるので、ソワソワしっぱなしの彼女では、メイクが遅々として進まない。
「下に降りて、少し声を控えるように申し付けて来ます」
「そうしてもらえると助かるわぁ~。王女様はもう少しだけ、我慢しといてくださいね?」
「……はい」
部屋の隅で立ったままアイリーンの様子を眺めていたパメラがそう告げて歩き去るのを見送りながら、アイリーンは力なく返事を返した。この時、今日は護衛で一日中傍にいてくれる筈のマテウスに、沢山甘えようと心に決めるのだった。
一方、アイリーンがそんな誓いを立てているとは露知らず、濡れたフード付きの
盛大に笑っているのは2名。ヴィヴィアナとフィオナの2人であった。腹を抱えてテーブルを叩き、口を大きく広げてゲラゲラ笑う姿は、上品とは言い難い。ただ、彼女達がマテウスを見てこんな反応を示すのには、当然大きな理由がある。
ゾフ伯爵家の晩餐に王女殿下護衛の1人として参加する事となったマテウスは、普段の下級市民のような姿で参加する訳にはいかず、久々に身だしなみを整える必要に迫られた。
だから今の彼は、普段の下級市民のような服を脱ぎ捨て、
因みにマテウスは、今朝の早くから移動用の馬車と御者の手配。そして、このカツラを受け取る為に外出していた為、彼女達にとっては、この場が彼の姿の初お披露目となっている。
つまり、僅か一晩で、数年間放置された荒れ地のような無精髭がなくなって、心なしか瞳まで幼く見えるぐらいに変貌した顔と、後退が進んだサバンナと化していた頭髪が、無駄にサラッサラの長髪に変化した姿を見せ付けられれば、普段のマテウスを知っていれば知っている程、笑いを堪えられないのは無理からぬ事だ。
「まぁ気持ちは分かるが、笑い過ぎだ」
「アハハハッ、だってアンタ……クフッ、アハっ……髪、綺麗過ぎてっ、アハハハハッ、無理っ!」
「ヴィヴィちゃんっ。マテウスはんは真面目に……クゥッ、ハハハッ。すっ、すまんなぁ~…笑っちゃ駄目なんやけど、その顔はそのっ……アハハハハッ!!」
自身も似合っていない事を自覚していたマテウスからすれば、この反応は想定内で、むしろ覚悟が出来ていたので
エステルは、飼い犬が変わり果てた主人に対して警戒を示すような、
「ほっ……本当に、マテウス卿なのか? なにかの間違いでは……いや、しかし……っ!? いやいや……まさか……!?!?」
どうやら、余りの変わり果てた姿に、見分けが着かなくなって……否、動揺が大きいようである。因みにレスリーは、赤くした顔を俯かせながら、時折り顔を上げてはマテウスの顔を確認して、また顔を俯かせるを繰り返しているのだが、マテウスにはその心境が理解出来ず、そっとしておこうという結論に達した。
この宿は、アイリーンが滞在中に使用する為に用意された屋敷で、どんなに騒いでも他の迷惑になる事がないから、フィオナとヴィヴィアナに関しても、笑い疲れるまで放置しておこうかと考え始めていたマテウスだったが、2階から降りて来たパメラが、そんなマテウスの代わりに、彼女達に声を掛けようとして……
「フィオナ様、ヴィヴィアナ様。アイリ様の集中が……」
マテウスと目と目が合う。暫くそうして見詰め合っていたパメラとマテウスだったが、ふと彼女が先に視線を反らした。珍しいな……と、マテウスが思うのも束の間、彼女は見た事もない
「これ以上、騒がしくされた方には、私より直接ご退席お願いしようと思います。それと、その顔……リネカーへの挑戦として、受け止めておきますので」
((怖っ……))
それだけ告げて、踵を返して足音もなく2階へと上っていくパメラの後ろ背に、皆が恐怖を覚える最中……
「あんなに笑うアイツを拝めるとは……わざわざ着替えた甲斐があったな」
「えぇっ? あれ笑ってたん!?」
マテウスは1人、満足気に鼻を鳴らしていた。
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