エピローグその1

 ―――2日後、昼。王都アンバルシア中央区、ノリッジ病院


「……んっ……ここは……?」


 アイリーンが目を覚ました時、目の前には見慣れない天井が広がっていた。首を巡らせようとすると、使い慣れていない枕の具合が悪かったのか、首回りが硬くなっていて少し痛かった。


 汗でベタつく髪を撫でる心地いい風に気付いて、彼女の視線はそのまま窓ガラスの方へと移動する。窓の外の景色を、何処かで見たような気がしないでもないのだが……思い出そうにも全身がだるく、集中力を搔き乱されて、それどころではなかった。


 アイリーンはもう1度身体を反転させて、入り口方向へと身体を向ける。そこでようやく見知った顔を見つけて、ホッとした。すぐ傍に椅子があるにも関わらず、ベッドから少し離れた場所で直立不動。普段と変わらぬ無表情で見下ろしてくるパメラに対して、アイリーンに自然と笑みが零れる。


「パメラ……そうか、私。入院してるんだね」


「はい。アイリ様、お加減は如何ですか?」


「大丈夫……それより、皆は? 皆は無事なの?」


「皆というのが、赤鳳騎士団の方々を指しているのなら、皆さん存命しています」


「……そうなんだ。良かった……のかな? 良かった。うん、良かっただね」


 アイリーンは、助からなかった命を考えて言葉を選ぼうとするが、あの激しい戦いの中で皆が生き残った事を素直に感謝し、喜ぶ事にした。


「他の皆は、入院してないの? それにその……マテウスの指は……やっぱり……」


「ヴィヴィアナ卿が背中に怪我を負ってますが、彼女の希望で療養は騎士団寮でされています。そして、マテウス卿の指ですが、やはり再生は不可能でしょう」


 淡々と事実だけを告げるパメラの言葉が、アイリーンに突き刺さる。あの出来事が夢であったならどれだけ良かったか……容赦ない事実を突きつけて来る現実が、今のパメラにダブって見えて、縮こまりながら頭から布団を被って、視線を反らした。


「アイリ様が目を覚ましたら、医者を呼ぶようになっていましたので、少し席を外します。それと、食事をなされますか?」


「……したい」


 本当ならとても食べたい気分ではなかったが、2日も寝込んでいたアイリーンの体は正直に空腹を訴えていたので、彼女はそれに抗えず、布団から少しだけ顔を覗かせながら答える。


「では、用意させますので、暫くお待ちください」


 短くそう告げると、背を向けて部屋の外へと出ていくパメラ。その所作に、普段との違いは見られない。彼女は事件後からの2日間、アイリーンの目覚めを待ち、ずっと病室に張り付いて待っていたのだ。ようやくその労力が報われたにも関わらず、その瞳にはやはり、なんの感情も浮かべていなかった。


 そんな普段通りのパメラの姿に、アイリーンは安心感を抱く。少し寂しくもあるが、やはり彼女にとってのパメラはこうあってくれる方が有り難かった。


 しかし、アイリーンの胸に広がっていた温かな安心感が、搔き乱されるような事態が起こる。病室の外から聞こえてくる声で、今一番顔を合わせたくない人物の来訪に気付いたからだ。病室の外でバッタリ鉢合わせになったであろう、パメラとその人物との会話に聞き耳を立てる。


「パメラ。君がアイリの傍から離れるという事は、もしかして目を覚ましたのか?」


「えぇ。私は今からアイリ様の為に医者をお呼びして、お食事を用意させる所です」


「そうか……話せるようなら、入って話がしたいんだが、大丈夫か?」


「……彼女も、ですか?」


「そうだ」


「あぅ……その……レ、レスリーはっ……」


 普段通り、低く、落ち着いた、固い口調。しかし、マテウスの見た目の方は、随分な様変わりを遂げていた。身体中に痣を浮かべていたし、頭や右手は包帯で覆われていたし、立ち振る舞いの重心にも影響があるようだった。


 だが、パメラはそんなマテウスの見た目にではなく、返答に対して眉根を僅かに上げる。彼女の視線の先には、なにかを口にしようと口をパクパクと開けては閉めてとする、レスリーが立っていた。パメラの視線が鋭さを増す。何故なら、レスリーとアイリーンとが口論になったという話を、小耳に挟んでいたからだ。


 しかし、直接誰かにそうだと聞いた訳ではなかった。誰しもが、パメラが直接確かめようとすると、言葉を濁すからである。もし、レスリーがアイリーンに直接手を上げた事実を知った場合、パメラは容赦なくレスリーを殺そうとするだろう。彼女が未だに事実に辿り着けていないのは、あの場に居合わせた者達が、その事をよく理解しているという事である。


「これより、医者に診てもらうので、それまでに終わるのならどうぞ御自由に」


「分かった。手短に済ませよう」


 会話に聞き耳を立てていたアイリーンは、1人で静かに慌てた。今、顔を合わせたくない人物ランキング1位と2位の訪問をどう迎えようかと考えて、畢竟ひっきょう、彼女は窓側に顔を向けて寝たふりを決め込む事にした。


「アイリ……寝ているのか?」


 気づかわし気なマテウスの声。アイリーンは、思わず跳ね起きて、彼の腕の中に飛び込み、甘えたくなる。だが、先の事件の失態で幾度もマテウスを失望させた事、レスリーへの2度と口にしたくもない暴言、ヴィヴィアナに指摘された事、そして未だに拭えずにいる彼に怪我を負わせてしまったという罪悪感が、素直な欲求を制し、心の整理までもはばむ。


 そして、今の自分にマテウスやレスリーがどんな表情を浮かべているのか、確認するのが怖くて、竦んでしまった心をそのまま現すように、2人に背を向けたまま、ぎゅっと強く両目を閉じて、息を呑んだ。


 一方、パメラに起きていると聞いたのに、声を掛けても身動きしないアイリーンに少し鼻白んだ空気を漂わせるマテウス。だが、アイリーンの身体が小さく震え続けているのを見て、彼女の狸寝入りを看破した。


(まぁ……顔を合わせ辛いよな)


「まずは、こいつを返しておこうか。ありがとうな」


 マテウスの身体のサイズには合わない丸椅子を移動させて、アイリーンのすぐ傍へ腰掛けながら、アイリーンの枕元へ高潔な薔薇ローゼンウォールを静かに置く。そして、いつまでも部屋の入り口に突っ立って動こうとしないレスリーを振り返り、隣を指差した。


「いつまでそこにいるつもりだ? ここへ来て座ってくれ。あぁ、椅子は自分で持って来てくれよ」


「は、はいっ。ただいまっ」


 マテウスが指示を出すと、少しだけ声を弾ませながら自身の椅子を用意して、マテウスの隣に腰掛けるレスリー。しかし、いざ椅子に腰掛けると、如何にも居心地悪そうにオドオドと視線をアチコチに彷徨わせながら、マテウスからの次の言葉を待つ。


「レスリー。あの時、話の続きは無事に帰ってからだと伝えた事、覚えているか?」


「は、はい」


「本当なら、アイリにも聞いてもらいたかったんだが、眠っているのを起こすのも……な」


 自身の名前を呼ばれた事に、アイリーンは心臓の鼓動が弾みだす。このまま、寝たふりを続けるかどうか迷ったが、やはり彼女には少しの勇気が足りなかった。


「だから、このまま話をしようと思う。いいな?」


「わ、分かりました」


 緊張を孕んだレスリーの返答。アイリーンにもそれは伝播して、彼女はそれを抑え込むように息を呑む。アイリーンの後ろ背に視線を落とし、彼女が息を呑む音を聞き遂けながら、マテウスはゆっくりと口を開いた。

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