偶には必要な事をその2

「ここで警備をなさい。私の許可なく誰も中に入れないように」


 ゼノヴィアが書斎を前に護衛の衛士たちにそう告げると、彼等はうやうやしく敬礼をして、扉を守る石像と化した。彼女はそれを確認すると室内へと入り、内から鍵をかける。深く鼻から息を吸うと鼻腔に広がる紙の臭い。沈んでいた気分が少しだけ楽になった。


 ゼノヴィアは元々、書を愛するインドアな人間であった。ダンスも乗馬も得意ではなかったし、(彼女はその原因を、大きな胸が邪魔をしたからだと考えている)理力解放を操るすべも才能はなかった。具体的な例を挙げると、アイリーンが半日で出来るようになった騎士叙任の儀に、彼女は2週間を掛けた練習でようやく形にした程度である。勿論、装具など自ら触れようとした事すらない。容姿こそ若き頃のゼノヴィアとアイリーンとは生き写しであったが、内面は間逆といえた。


 そんなゼノヴィアだからこそ、書斎で1人になる瞬間は少しだけ気が楽になった。しかし、これから手に取る本は、子供の時によく読んだおとぎ話などではなく、経済や歴史に関する学術書である。それは、次の議会の為の必要な事であった。


 議会に列席するのは全員が並み居る貴族達だ。だが、その誰もが毎回、王都で開かれる議会に顔を出す訳ではない。彼等は彼等の領土を守る務めがあるし、議題に対して専門的知識が不足する場合だってある。だから、代理の学匠がくしょうを立てるのが一般的だ。現代的に例えると大学名誉教授のような立場の者達である。


 数ある最高学府から貴族に依頼された、選りすぐりの知恵者であり、論客でもある彼等は、領民の代表として、議会を舞台に弁論による鍔迫つばぜり合いを行なう。そう言葉にすると聞こえはいいかもしれないが、実際はそう清々しいものではない。


 所詮、彼等は依頼された貴族の傀儡かいらいとして、依頼人の意思を決議に反映させる為、弁舌を駆使して議会を操ろうとする存在なのだ。だから、彼等は議会の外でも情報戦を繰り広げる。草(スパイの事)を放ち、互いを牽制し、足を引っ張りあい、手を組むのである。その様子は、戦争における軍師のような役割にも似ていた。


 勿論、ゼノヴィアも学匠を相談役として立てる事を許されていたが、彼女に用意された学匠は彼女の意思ではなく、彼女の叔父であるヘルムート・オーウェン公爵の意思で動く男である。ヘルムートは遠い血族であり、議会とはまた別の意志を持って国を動かそうとする男であった。


 だが、ゼノヴィアの味方とは呼べるような男ではなく、勿論その学匠も同様であった。そんな孤立無援の状態で、学匠という議会の専門家達の相手をゼノヴィアが続けていられるのは、唯一といって最大のイニシアチブである、議会の最終決定件を女王である彼女が握っているからだ。


 正当な王の血が脈々と続く限り、国を動かす決断は王が為さねばならぬという不動のルールだけは、今もなお、守られ続けているのである。


 当然、学匠達もそれを十分に理解しているので、ゼノヴィアに気付かれないよう言葉巧みに自らの利になる案件を通してこようとするし、ゼノヴィアの提案を、難解な言葉を使って否定し、却下する。そうなれば、またこの国の行く末は、彼女の理想から掛け離れたものになってしまうのだ。それらを防ぐ為の十分な知識を欲して、彼女は書斎での時間を過ごしているのである。


(今日は収穫なしかしら……また新しく本が欲しい所だけど)


 そうしてゼノヴィアが文字に目を通しながら思案にふけていると、彼女を照らす枝付き燭台ジランドールが風に揺れる。それに気付いたゼノヴィアが視線を上げると、蝋燭ろうそくの火は変わらずに灯っていた。


 薄暗い夜の書斎で扱うのであれば、蝋燭式ではなく理力式の燭台に代えた方がいいのであろうが、未だにゼノヴィアは蝋燭式の燭台を愛用している。それには、彼女では理力式燭台の明度のコントロールが出来ずに、理力倉カートリッジを余計に消費してしまったという経緯があったからだ。前述した通り、彼女は理力解放のコントロールが苦手な為である。


 視線を上げたゼノヴィアの前で、もう1度蝋燭の火が強く揺れた。それと同時に書斎の奥の暗がりで物音がする。


「……誰かいるのですか?」


 本を閉じて枝付き燭台を手に、立ち上がるゼノヴィア。彼女の声に反応はない。外の衛士を呼ぶべきかとも考えたが、清掃担当者が窓を閉め忘れただけかもしれないし、もう1つの可能性が彼女にそれを思い留まらせた。


 ゼノヴィアは床を気持ち強く踏みつけて足音を大袈裟に立てながら、ゆっくりと書斎の奥へと進む。彼女は、進む度に緊張で心音が高鳴るのを押さえるのに、苦労していた。薄っすらと月明かりが差し込むその場所を、恐る恐る手を伸ばして枝付き燭台で照らすと、観音開きの窓が少しだけ開いていた。


 その光景を見た瞬間、ゼノヴィアの緊張は一気に解けた。いつの間にかじっとりと浮かんでいた背筋の冷や汗を、自覚する余裕を取り戻す。換気は勿論必要だが、開けっ放しでは湿気で本が傷んでしまう。今日の清掃担当者には注意しておかねば……と、少しだけ腹を立てながら、枝付き燭台を手近な階段式脚立に置いて窓の方へ移動した。


 そうしてゼノヴィアが両手を伸ばして窓を閉めた瞬間、後ろから忍び寄った影の左手が、彼女の口を塞いだ。彼女は反射的に後ろを振り向こうとするが、後ろから抱き寄せるように拘束してくる相手の、圧倒的な力の前に身動きすら取れず、大きな左手に閉ざされた口では、声を出す事はおろか、顎を動かす事すら許されない。


 そして侵入者の右腕がゼノヴィアの首元へゆっくりと近づいてくる。抵抗しようにも左腕は侵入者の左腕が、左脇下から通っていて動かせない。右腕だけで必死に逆らってみるが、彼女の非力な細腕ではなに1つ侵入者の阻害にはならなかった。


 ゼノヴィアの頚動けいどう脈に触れた侵入者の指先が、ゆっくりと彼女の体のラインをなぞりながら下へ。侵入者の掌の上で玩ばれているのを知った彼女は、それでも萎縮いしゅくせずに抵抗を続ける。侵入者の指は豊かな胸を踏破とうはして細い腹部へ、そこから左横腹へと移動して……そこをくすぐり始めた。


「……んっ!? ふぅーっ! ふふっ、くくっくっ!!」


 口を押さえつけられたまま、呼吸困難になるまで散々擽り続けられるゼノヴィアは、今まで以上に激しく抵抗するが、それでも侵入者の前では赤子の抵抗のようなもの。結局は侵入者が満足するまでもてあそばれて、拘束から解放されるとグッタリと膝を落として、両手を床にして崩れ落ちた。


「はぁ、はぁ、なっ……にぃ、はぁ、ひぃ……」


「はははっ、慌てるな。まずは息をしっかり吐くと落ち着くぞ」


 ぜいぜいと両肩を揺らして息を整えようとするゼノヴィアの背を、侵入者は楽しそうに笑いながら上下に撫でる。彼のアドバイス通りに息を整えたゼノヴィアは、立ち上がったと同時に侵入者の胸板をポカポカと両手で殴りつけた。


「もうっ、義兄にいさんっ! 貴方はっ、本当にっ、幾つになったと思ってるんですかっ? こんな、子供みたいな事っ」


「悪かったよ、ゼヴィ。だが、少し声を抑えないと衛士が入ってきてしまうぞ?」


「誰のせいだと思ってるんですかっ? 大体、来るなら来るで事前に……」


「分かった、分かった。先に移動しよう。ここだと俺が隠れる場所がない。あぁ後、幾つか欲しい本があるんだ。さて、どこにあるか……」


 ブツブツと小言モードに入るゼノヴィアの背中を押しながら、枝付き燭台を片手に書斎の奥へと移動するマテウス。その間中の小言を右から左に聞き流す程度には、彼はゼノヴィアとの付き合い方を心得ていた。

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