最上たる誉れその4

「んっ? あっ、ここは……痛ぅっ!?」


 目を覚ましたレスリーは左頬に走る焼けるような痛みに、身体を起こしながら顔を押さえようと手を伸ばす。しかし、その手をマテウスの手が遮った。


「止めておけ。傷口には触れないほうがいい」


「えっ、マテウス様? ここは、レスリーは……どうして?」


 レスリーは自らの状況を整理しようとするが、ズキズキと痛みが増す左頬の傷と、見た事もない景色に処理が追いつかない。ただ、訓練の最中に何度となく助け起こされたマテウスの手を握り返すと、少しだけ心が落ち着いた。そして、ゆっくりと理解が追いついてくる。


「そうか。レスリーは確か、闘技場で弾き飛ばされて……」


「思い出したか? 意識もハッキリしてきたようだな。身体の何処かで痛むところがあるか?」


「その、すいません。マテウス様。私またご迷惑を……」


「なんだ。やはり本調子じゃないようだな」


「えっ?」


「お得意の、すいません、が、たったの1回だ」


「あっ……すいませんっ、すいませんっ」


「冗談だよ、馬鹿。医者に見てもらうまで、頭を激しく動かすな」


 壊れた水汲み鳥のように頭を上下に振り始めるレスリーの額を、マテウスは掌で押さえつける。彼を見上げるレスリーの顔に巻かれた包帯に崩れがない事を確認すると、もう1度同じ質問を繰り返した。


「身体のどこかで痛むところはあるか?」


「えっ……その、あっ……顔が……」


「それ以外には? 両手足、腫れはないようだが打撲や捻挫による痛みや、痺れはないか? 特に頭部だ。本当に意識がハッキリしているのかどうかを教えてくれ」


 マテウスは左頬を避けるようにしてレスリーの顔に手を添える。瞳の下、それぞれに親指を押し当てながら、じっくり観察を始めた。その間レスリーは少し居心地が悪く視線を逸らそうとするが、それをマテウスにたしなめられて、大人しく彼の質問に答えを返そうと思考を巡らせる。


「えっと、手足は……その、大丈夫です。かすり傷が少しヒリヒリするぐらいでしょうか? 頭も、痛い所はなくて意識も……えっ? これ、包帯? あの、これ……マテウス様が?」


「そうだ。よく分かったな。キツく巻いたつもりはなかったが……緩めるか?」


「いえっ! すいませんっ、その……はい、大丈夫です。えっと、分かったというか……あの、レスリーなんかをお医者様が診てくれる訳はないと思って……その、やっぱりレスリーは、マテウス様にまたご迷惑を、すいませんっ」


「謝るな。必要ない。今回の戦闘、君は十分に役目を果たしていたからな。それに、先に言ったが医者には診てもらう。頭部の診察は専門に診てもらった方がいい。呼んでくるから、安静にして待っていてくれ」


 そう告げるとマテウスは、レスリーの反応を待たずして立ち去ってしまう。その間、レスリーは迫ってくる暗い過去の記憶に囚われていた。ドイル家での出来事だ。彼女が幼い頃、風邪を引いた時。医者の診察など受けさせて貰えず、そのまま働きづめの毎日……当然、風邪をこじらせて半死半生を彷徨さまよった経験が、彼女にはある。


 流石にその時点で仕事こそ休みを言い渡されたが、(彼女の体調をおもんばかった訳ではなく、病気の拡散を防ぐ為も)回復するまでの間、彼女は個室に閉じ込められて、独り粗末な食事を与えられるだけの生活を過ごす羽目になったのだ。


 レスリーにとって騎士団の生活とは、小さな生傷が耐えない場所ではあったが、ドイル家の生活では、あざや打撲に関しては、今と遜色なく経験してきていた。理由は説明の必要もないだろう。それでも彼女は、生涯1度も医者に診察されるという経験がなかったので、医者はベルモスクである自らとは縁遠い存在なのだと、勝手に認識していたのだ。


 マテウスが医者を連れてくる。レスリーは医者が向ける視線の冷たさに、表情が硬くなった。だが、同時に安堵を覚えた。彼女にとっては、その視線こそが見慣れた反応であるからだ。医者は冷たい声でぶっきら棒に指示を出す。真っ直ぐこっちを向け、顎を下げろ、右を向け、左を向け、唾を飲み込め……態度とは裏腹の丁寧な診察。


 その間中、レスリーは脅えたように身体を震わせながら、素直に従った。そうした方がこの手の相手は喜ぶ事が多かった……そういう経験からだ。実際、診察を終えた医者は、レスリーを見下ろし蔑むように口元を歪めて鼻で笑う。


「ふん。医者の俺に脅えていて、騎士が務まるのか? ベルモスクはなにをやっても成り損ないだな」


「それより、彼女はどうだった?」


「ピンピンしてるだろう? それが答えだ。特に後遺症も残ってないみたいだぞ」


「そうか、ありがとう。世話になった」


「それにしても、この包帯を巻いたのはお前か? ウチの看護婦より上手いじゃねぇか? 器用な奴だ」


「包帯を巻く機会が多かっただけだ。俺の立場じゃ自慢できるような事じゃない」


「へぇ……昔はなにをしていたんだ?」


「アンタ風に言うと騎士の成り損ない、だな。そろそろ帰りたいんだが、もういいか?」


 マテウスの返答で急に鼻白んだ顔になった医者は、レスリーには一瞥いちべつもくれずに立ち去っていく。マテウスが相手の不快を買ってまで話を切り上げる行為に、どういう意図があったのか……レスリーはそれに気付いて頭を下げる。


「その、すいませんっ。マテウス様。レスリーの事など気にされなくても……良かったのに」


「ん? あぁ、成る程、深読みしすぎだ。俺は話を切り上げたかった、ただそれだけだからな。ここにはもう用がない。行こう、レスリー。1人で歩けそうか? 無理だというなら、背負って運んでもいいが……」


「はい。レスリーは、だ、大丈夫です」


 レスリーはそう言って立ち上がろうとしたが、足下をふら付かせてよろめいた。マテウスはそれを支えて、彼女の顔を覗き込む。


「無理はするな。立ちくらみ……ではなさそうだな」


「すいませんっ、その……足に力が入らなくてっ、すぐ良くなりますので、すいません」


「訓練では誤魔化せていたようだが……身の丈に合わない黒閃槍シュバルディウスを、俺のかたを真似して振り回すからそうなる。君の見取り稽古の才能には感心するが、実戦に使いたいのならもっと自分用に昇華させる事だな。俺と君とでは、体重、筋力、体格……全てに違いが過ぎる」


「す、すいません……その、ただ、どうすれば良いか……」


「まぁ、それもまた今度だな。今必要なのは休養だ」


「えっ、わっ……そのっ! ま、マテウス様っ!?」


 マテウスは背を向けて、レスリーに有無を言わさず彼女を背中に担いだ。マテウスの背中の上でジタバタと暴れるレスリーだったが、いざ落ちそうになると反射的にマテウスの首に両腕を回してしがみ付く。


「命令だ。大人しくしていろ」


 命じられればレスリーはそうせざるを得ない。多少卑怯であろうと効率的な選択をするマテウスらしい一言で、レスリーは動きを止める。彼女は抗議の意味を込めて、マテウスの首に回す両腕に少しばかり力を入れてみせたが、マテウスは無反応。やがて抵抗を諦めたレスリーは、身を預けるようにマテウスの肩に顔を埋めた。


 そうしていてレスリーが胸中に抱く感情を最も的確な言葉で表現するならば、不安であった。いっそあの冷たい視線を向ける医者のように扱ってくれた方が、分かり易くて安心できるのに……こうした事がある度に彼女は心の中で悪態を吐く。だが同時に、マテウスの言葉に黙って従う一時こそが、レスリーの心を最も安心させ、満たしてくれるのだ。


(レスリーはこの人にどうしてもらいたいのでしょうか?)


 勿論、それが分かった所で口にする事など、レスリーに出来よう筈がなかった。だが、そういった疑問を抱く事すら大それた事だと脅え、震えていた当時からすれば、それはレスリー本人すら気付いていない、小さな変化といえた。

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