第一章 正鵠の見えざる嚆矢

プロローグその1

 ―――約1週間後。王都アンバルシア北区、王女親衛隊兵舎


「レスリー。補修材を取ってくれ」


「は、はい。マテウス様」 


 昨夜の雨の影すら残さない、抜けるように広がる青空を見上げていたレスリーは、マテウスの呼び声で再び現実に引き戻される。強くなってきた日差しが、自身の褐色の肌に更なる日焼け痕を残しそうで、少し気になっていたのだ。


 マテウスは、そんなレスリーの思いも知らずに、彼女が慌てて手渡した補修材を受け取って、先程までそうしていたように、金槌を振るって木造兵舎の屋根の補修を続ける。トン、カン、と辺りに音を響かせて作業する彼の首筋から、一筋の汗が垂れた。


 それをいたわるように、優しい風が肌を撫でて吹き抜ける。その風に乗って華のような甘い香りがマテウスの鼻腔びこうをくすぐった。なにかと思って顔を上げると、レスリーが間近でマテウスの手元を覗きこんでいたのだ。


 彼女の小顔に良く似合う、エウレシア王国では珍しい黒髪のタイトなショートヘアが風に揺れると、先程と同じ香りがまた広がった。不安定な屋根の上が落ち着かないのか、震えながら四つん這いになっている様子は、大きな黒い瞳と相俟あいまって子猫のようだ。


 しかし、その装いは勿論子猫のそれではない。かといって、この場所に相応しいかといえばそうでもなく、端的に表してしまえば女使用人メイド服を着ていた。そしてそれは、エウレシア王宮に仕える女使用人達のモノとは大きく異なっている。


 まず袖がノースリーブ。襟元えりもとが深く開いているデザインの割りに、止めるボタンがないので、胸の谷間を隠すことが出来ない仕様になっているらしい。白いエプロンも腹部周りを隠すのみで、胸を強調するのに一役買っているだけだ。本来の役割を果たしているとは、言いがたいエプロンであった。


 そして見た目にして最大の違いは、膝上20cm以上はあろうかというミニスカートである。膝下まで伸びているエウレシア王宮の女使用人服を、貞淑ていしゅくと表現するなら、こちらの服装は淫奔いんぽんに過ぎた。


 だが、中身までそうなのかといえば、これもまたそうではない。レスリーはマテウスが作業が止まったのを見て、手元からマテウスの顔へと視線を上げる。そうする事によって、ようやく自分が近づきすぎていた事に気付いて、慌てて後ろへと飛び退いた。


 しかしレスリーは、その拍子に足を滑らせる。ここが屋根の上である事を忘れていた訳でもあるまいが、彼女は今ガーターベルトで止めたニーハイソックスだけで、靴を履いていなかった。滑るのも無理はない。


 咄嗟に立ち上がったマテウスが伸ばした右腕が、転げ落ちそうになるレスリーの身体を受け止める。出遅れた故に、体勢を崩して、レスリーを押し潰しそうになるマテウスであったが、上手く腕の中へと彼女を抱え直して身体を捻り、自分が下になって仰向けに倒れた。


「大丈夫か?」


「す、すいません。すいません! マテウス様、お怪我は? お怪我はありませんか?」


 2人は同時に互いを気遣う言葉を発した。マテウスは落ち着いていたが、レスリーは気が動転したままのようだ。マテウスの腕の中で、顔を悔恨や羞恥で真っ赤にしながら、彼の身体を気遣わしげに両手で触る。


 レスリーが動く度に、女性らしさを覚え始めた丸みを帯びた健康的な肉体がマテウスを刺激するが、今の状態の彼女を解放すると、動揺の余りまた同じ事を繰り返しかねなかったので、逆にギュッと強く抱きしめてやる。


「いいから落ち着け。俺は大丈夫だ。2人とも怪我はなかった。だから大丈夫だよ」


 耳元に落ち着いた声で繰り返し大丈夫だと囁きかけ、子供をあやすように片手で背中を叩いてやった。そうすると次第に落ち着いてきたのか、マテウスの身体に触れる動きを止める。自分がしていた事に恥ずかしさが込み上げる余裕も出てきたようで、マテウスから顔を隠すようにうつむいた。


「あの……ありがとうございます。も、もう大丈夫なので……」


「そうみたいだな。次は気をつけてくれ」


 マテウスはレスリーを解放すると、手を引いて屋根の中央で座らせる。その手を離すとすぐに彼女は両手を膝に着いて、頭を深く下げて、謝罪を始めた。


「すいませんっ、レ、レスリーはマテウス様に対してなんて失礼を……それに、命までお救い頂いてっ。どうか、なんなりと罰をお与え下さい」


「いや、いいって言ってるだろう。大げさだな。次に気をつけてくれればいい。それより、貸した靴はどうしたんだ?」


「あの靴は……その、大変申し上げにくいのですが、サイズが少し。ですので、逆に危ないかと思いまして」


 頭を上げて、膝に着いていた両手を胸の前で結んでは開いてと、落ち着かない様子で話すレスリー。視線もマトモに合わせようとしない。


 彼女のこの様子からマテウスは、最初は自分が怖がられているのかと思っていた。確かに自身の風貌ふうぼうはいつも眉間に皺を寄せているし、目付きが鋭くて、冷たい雰囲気を漂わせているので近寄りがたい。無理もないと慣れるのを待っていたが、どうやらレスリーは誰に対してもこうなのだと最近分かってきたのだ。


 女使用人としてやっていくのなら別段問題ないのだろう。彼女のような反応を初々しいと喜ぶ主人もいるかもしれない。だが、ここでやっていくのなら、このままでは困る。装いこそ女使用人ではあるものの、いずれ彼女は騎士になるのだから。


「こっちを見て話せ、レスリー。君はなにも間違った事は言ってない」


「は、はい。その……すいません」


「ふん……まぁ少しずつでいい。後、ソックスだと滑り易いだろう。いっそ脱いでみたらどうだ?」


「あっ、はい。マテウス様がそう仰るなら」


 素直に頷くその返答の内容に、先が思いやられるマテウス。レスリーはガーターを外してニーハイソックスに手をかけるが、脚を上げるとスカートが捲れてしまうので、マテウスの視線を気にしてか、おぼつかない様子だ。


 マテウスが視線を外せば良いのだが、マテウスからすればいかにも危なっかしい挙動をするレスリーが、また足を滑らせないかと心配で目が離せずにいた。


「俺の肩に手を着け。見ていられない」


「あっ、その、すいません。では、失礼します」


 言われたとおりにマテウスの肩へと片手を着くレスリー。肩に手を着いたまま前屈みになるので、マテウスの眼前には育ちかけで健康的な、褐色の谷間が広がる。


 そこから視線を切ろうと顔を背けた先では、風になびいてその向こう側が見えそうになるミニスカートが。更に視線を逃がした先には、軽くエビ反りになったレスリーが後ろを蹴るようにして折り曲げられた、艶やかに照らされたカモシカのような細足が目に入った。


 レスリーはといえば、後ろを向いてニーハイソックスを下ろしていく最中なので、マテウスの反応には全く頓着とんちゃくしていない。


 頭身に比較して彼女の足は長く、モデルのような体型をしている。ニーハイソックスをするする下ろしてく毎に、日焼け痕の差で少し薄い小麦色をした、彼女の地肌が広がっていく。


(どっちにせよ、見ていられないな)


 視線を下へと落とすマテウスは彼女の経歴を思い出す。彼女の名前はレスリー・ドイル。今年で15歳になるそうだ。ドイル子爵家の3人の兄、1人の姉を持つ次女で、貴族の出である。


 そんな彼女が何故女使用人服の袖を通しているのかといえば、別段マテウスの趣味だからという理由ワケではなく、ドイル家に女使用人として仕えていたからだ。


 次女という立場でありながら、何故そのような境遇なのか? などと、マテウスは詳しい事情を詮索しようとしなかった。エウレシアでは珍しい、褐色の肌、黒い瞳と同色の髪を見れば、大体は想像できたし、彼女も話したがらなかったからだ。


 そしてその事情が、騎士として強くなるに必要性を感じなかったからというのも大きかった。まぁ彼女が私服を1枚も持っておらず、女使用人服の代えなら幾らでもあるという状況は、少々困りものではあったが。


「やはり、こちらで一式衣服を揃えるぐらいはしてやるが、どうだ?」


 マテウスのこの申し出は、親切半分、自分の都合が半分といった所である。だからこの出資を、マテウスは自身の財布で済ませるつもりだった。親衛隊としての予算の事は一先ず置いておくとして、今現在の彼個人に関していえば、かなり裕福なのだ。何故なら彼は、王家からもらった恩賞を、ジェロームとの決闘で更に増やす事に成功していたからである。


「へっ? えっ、そんな。滅相もない。マテウス様にこれ以上ご迷惑など……」


「俺はただの教官だ。気を使う必要はない。ここにいる以上、君の役目は王女殿下護衛の為に強くなる事だ。それだけを考えればいい」


「そんなっ。レスリーをここに置いてくださったのはマテウス様です。マテウス様のお役に立ってご恩返しをしてからでないと……でも、レスリーはまだ全然闘えなくて、さっきも失敗して、足を引っ張るばかりのダメダメで……」


 瞳から色を失くして俯くレスリー。両足を開いてぺたんと女座りになると、それぞれニーハイソックスを握ったままの両手をぐったりとさせて、ぐりぐりと屋根の上に、のの字を書き始める。


「おい、レスリー」


「そうですよね。レスリーなんてゴミ屑同然なんです。きっともうすぐマテウス様にも呆れられて捨てられてしまうんです。捨てられる前に、マテウス様に組み伏せられて、激しく陵辱りょうじょくされて、身も心もボロボロになるまで精の捌け口に……あっ、でも、それで初めてお役に立てるのなら、レスリーにも生きる意味があったんですかね……ふふふっ」


「君は俺をなんだと思ってるんだ。後、正気に戻れ」


「はっ!? すいませんっ、すいませんっ」


 レスリーの眼前で手を叩いて意識を取り戻させるマテウス。彼女が彼の前でこうなるのは、何度目かの出来事だったので慣れたものだったが、正直面倒臭いとは感じていた。しかし、こんなレスリーでも女王の布告に応じて集まった女性隊員候補の中では、マシな部類である。


 親衛隊の設立に女王からの布告が貴族諸侯きぞくしょこうへと発せられたのは、マテウスが叙任式じょにんしきを終えた翌日であった。これは、未婚の娘を御家の発展や安寧あんねいの道具として使う諸侯にとって、女王の布告に応じる名誉、未だ社交界に姿を現さない第3王女とお近づきになる機会などのメリットがあった。故に募集当初こそ、多くの女王派貴族の子女達がこの親衛隊兵舎へと訪れた。


 だが、その誰もがティーカップより重いものを持った事がない上に、騎士としての装備を一式も持たず、駆け足も出来ないドレスにめかし込んで現れて、マテウスを給仕扱いして紅茶を頼もうとするのである。


 これには、茶飲み友達を募集したんじゃねーんだぞ? と、流石のマテウスも苛立ちが顔に浮かんだ。(付け加えれば、茶飲み友達でも入隊許可を出しそうな能天気な主人の存在も、彼の心労のひとつであった)


 彼女等に適当な入隊試験を課して、追い返し続けた日々を思えば、レスリーをマシな部類と思いたくもなるのは、止むを得ないだろう。


 そして今では貴族子女達の来訪は途切れ、この親衛隊兵舎にはマテウスとレスリーしか残されていない。因みにこの親衛隊兵舎だが、本来、女王の政策の1つ、軍縮の折に潰された騎士団が使っていたものを、そのまま流用させてもらっている。


 長く人の住んでいなかった兵舎は当然老朽化が進んでいたが、事実上結成したとはいえ、現実には人員の確保もままならず、始動すらしていない親衛隊には、兵舎新設どころか改装費用ですら与えて貰える筈もない。


 故に昨夜の雨で露見した雨漏りの補修まで、自力でなんとかするより他はなく、マテウスとレスリーは2人で屋根へと上って補修作業をしている最中というのが、現状だった。

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