2〜2
まだ大学に通っていた頃の話だ。
偶然通りかかった病院の前、声をかけられたのは。
君、
なにせそう声をかけられた俺は、相手が誰なのかさっぱり分からなかったから。
俺が分かっていないと気付いたのだろう、隣に住んでいた
一応の知り合いだったからといって、俺が挨拶以上の何かしたかといえば、そんなことはない。
むしろ雰囲気がおかしいような気がして、もしかしたらこの病院の前という場所が関係しているのかと気がついたから、何も気づかなかった風な顔をして通り過ぎてしまおうとしたくらいだ。
でも、そうはいかなかった。
今考えてみると、例えば俺の名を出した遺書のようなものを、
これから時間を取れないかと、そう問われた。
断れるような雰囲気でなく、渋々ながらうなずけば、聞かされたのは
すぐには無理だろうから時間があるときにでも見舞ってやって欲しいと、その言葉を添えて。
後日。
俺は
忘れたふりをするのは簡単で、何度もそうしようと考えて、それでも出来なかったのは、恐らくずっと心の中で気にしていたからだ。
共働きの両親は、あまり仲が良くない。
うちまで喧嘩をする声が聞こえることも、少なくなかった。
そんなときに
これはきっと、自惚れではない。
そしてずっと、
小さい頃からよくかまってやっていたから、それから成長してもずっと求めていたのだと思う。
けれども俺は――応えてはやらなかった。
まだまだ子供だった俺には、あまりにも重すぎたから。
そして俺は、大学へ進学すると共に実家を離れた。
俺が離れている内に、
離婚したんだと、そんな噂は聞いたけれども、俺には関係のない話だ。
ただひとつ心残りがあるとしたら、実家を離れる俺に何か言いたそうな顔をしていた
俺は一度そこで、
また握るつもりは多分、そのときの俺にはなかったと思う。
けれどもそれが、ベッドに横たわる
無意識の内に、俺は、
そして、これ以上の回復は望めないし、これ以上悪くなることもないと、数か月の後に退院を余儀なくされたのだ。
自宅で看る。
そういうことになって、
俺に向かっていつでも来てくれていいと言ったのは、
分からないけれども、弱い人なのだろうとは思った。
居心地の悪さばかりが、俺を苛む。
落ち着かなさに視線を漂わせていれば、目に入ったのが、一冊の本だった。
なんてことはない、児童書。
ただ、ひどく懐かしい。
眠ったままの
ハードカバーだ。
何度も何度も読んだのだろう。
小口は汚れているし、角もよく見れば解れている。
それでも、折れているページなんかはないし、破れも中身の汚れもなく、大切にしてきたのだな、と思えた。
大切にしてくれていたのだな、と。
子供の頃の記憶が蘇る。
俺が大切にしていた、本。
我が家に預けられていた
俺が目を離したすきに、遊び紙へぐちゃぐちゃと落書きをしたのだ。
そのとき、どう思ったのだったか。
よく覚えていない。
ただ俺の中で、もう読まないだろうな、という思いが湧き上がって、そのまま
その日、マンションにいたのは
俺が来る度に、
弱い人なのだ。
今までもそうして、逃げてきたのだろう。
静かな部屋で、眠ったままの
耳に届くのは機械音と、呼吸音――外から微かに届く雑音。
最初は
気付けば俺は、眠りに落ちていた。
――赤。
目覚めたそこは、赤かった。
夕日だろうか。
いやこれは、朝日だ。
そんなことを思ったのは、
なぜそこが
ただ、夢の中ではそういうものはよくあることだし、とにかく、俺は突っ伏していた机から顔を上げて、立ち上がったのだ。
あてもなく、さまよい歩く。
そこが校舎であることは、すぐに分かった。
ただ俺が通っていた学校ではないことはよく分かる。
何か手がかりはないだろうか――すべての扉を開いて、すべての教室を、部屋を覗いて歩いた。
けれども、何もない。
歩いて、歩いて、歩いて。
何かを探して。
ふと中庭を見れば、
俺はその紐がある四階へと走り出す。
どうにかして引き上げなければ。
どうにかして助けなければ。
――けれど、
赤い水たまりを作って、中庭に横たわる。
目覚めた瞬間、叫びそうになって、咄嗟に口を手で覆った。
なんだあれは、なんて悪夢だ。
全身から汗が噴き出している。
心臓が激しく鳴って、今にも飛び出してしまいそうだ。
息が切れる。
苦しい。
脳裏に赤がこびりつく。
椅子に座ったまま、丸くなって喘いだ。
どれくらいそうしていたのか、どうにか呼吸を整えた頃には、眠りに落ちたときからおよそ一時間半ほどが経過していた。
はっとして転げるように
――温かい。
生きている、
そう確認して俺は、その場に崩れ落ちた。
なんて、なんてひどい悪夢だ。
どうしてあんな夢を見てしまったのか。
自分が恐ろしくて仕方ない。
それからたっぷり二時間ほどがたって、ようやく
どこに行っていたのかはしらないけれども、看ていてくれてありがとうなどと上っ面を繕うその顔に無性に腹が立つ。
軽く会釈して、俺は自宅へと戻った。
「それが、四年前までのことだ」
ベッドの脇に置いた椅子へ腰掛けて、そうつぶやいた。
その日もまた、俺は
父親はやはり、出かけた。
夜まで帰ってこないつもりだろう。
日頃きちんと
眠ったままの
これで何か少しでも、刺激になればいいと、そんなことを考えながら。
けれどもやはり長くは続かない。
気付けば俺は、その日も、眠りに落ちていた。
――そして、赤。
繰り返す。
繰り返される。
さまよい歩く俺と、首をくくる
飛び起きて、ひどく狼狽えて、
――それを、何度繰り返したことだろう。
変化は、本当にわずかなものだった。
いや、最初からその何かは起きていて、俺が気付かなかっただけなのかもしれない。
俺が夢の中で目覚めると、少女が立っていた。
彼女は、
――
俺達は一緒に歩き出した。
「そのときに分かったんだ。俺が話して聞かせていた
「タイトルを考えたのは、その子か?」
「いや……多分俺だよ。本に出来そうだよな、って……タイトルをつけるなら、
「あまりネーミングセンスはないな」
「うるせえよ」
それでも
隣に
「だから、俺は語ることにした」
「語り部として?」
「そう。
「それがどうして、あんな話になる」
「読んだのか?」
「本は読まれる為に存在するのであって、読まれない本の存在は神仏への冒涜に等しい」
「はは、それか。まぁ……そうだな、俺は、思ったんだよ、
眉間に皺を寄せて、難しい顔をしている。
それでも整っているのだから、悔しいとももう思わない。
「そんなに
ぎり、と歯を噛み締める音が耳に届いた。
「
「回復の兆し? 本気で言っているのか、
「ああ、そうだよ」
ソファの座面を殴る音がして、ああ荒れているなと、他人事のように考えた。
「どこまでが語りで、どこからが
思わず、笑った。
馬鹿にしたつもりはない。
多分、そう、やはり、ほっとしている。
「全てが語りで、そして、全てが
「ありもしないトラウマを、こしらえたのか」
「何でも良かったんだ、ただ、この子が目を覚ますなら。もう、首をくくることがないなら」
「それが、
「……いいよ。もう。
ミステリアスで素敵と女性によく言われる涼しげなその表情は、怒りなのか悲しみなのか、分からない複雑な感情に歪んでいるようだ。
「
「なぁ、
「……なんだ」
「
ただでさえ寄っていた眉間の皺が、ぐっと深くなる。
俺はただじっと見つめ、言葉を待った。
「――そうだな、たまに、嫌になる」
吐き出される、重苦しい溜め息。
「気付きたくなかった真実も、俺には見えてしまうのだから」
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