2〜2

 まだ大学に通っていた頃の話だ。

 偶然通りかかった病院の前、声をかけられたのは。

 君、語部かたりべさんのお宅の息子さんじゃないかななんて、よく俺の顔を覚えていたものだと思う。

 なにせそう声をかけられた俺は、相手が誰なのかさっぱり分からなかったから。

 俺が分かっていないと気付いたのだろう、隣に住んでいた来繰くくりですと頭を下げられて、それがあってようやく気付いたのだ。


 一応の知り合いだったからといって、俺が挨拶以上の何かしたかといえば、そんなことはない。

 むしろ雰囲気がおかしいような気がして、もしかしたらこの病院の前という場所が関係しているのかと気がついたから、何も気づかなかった風な顔をして通り過ぎてしまおうとしたくらいだ。


 でも、そうはいかなかった。

 今考えてみると、例えば俺の名を出した遺書のようなものを、読子とうこは残していたのかもしれない。


 これから時間を取れないかと、そう問われた。

 断れるような雰囲気でなく、渋々ながらうなずけば、聞かされたのは読子とうこの自殺未遂――茫然とする俺の前に残されたのは、病院名と病室の番号だ。

 すぐには無理だろうから時間があるときにでも見舞ってやって欲しいと、その言葉を添えて。

 

 後日。

 俺は読子とうこを見舞っていた。

 忘れたふりをするのは簡単で、何度もそうしようと考えて、それでも出来なかったのは、恐らくずっと心の中で気にしていたからだ。


 読子とうこは、ずっと、家に居場所がないと感じていた。

 共働きの両親は、あまり仲が良くない。

 うちまで喧嘩をする声が聞こえることも、少なくなかった。

 そんなときに読子とうこが拠り所にしていたのは多分――俺だ。

 これはきっと、自惚れではない。

 そしてずっと、読子とうこは俺に居場所を求めていた。

 小さい頃からよくかまってやっていたから、それから成長してもずっと求めていたのだと思う。

 けれども俺は――応えてはやらなかった。

 まだまだ子供だった俺には、あまりにも重すぎたから。


 そして俺は、大学へ進学すると共に実家を離れた。

 俺が離れている内に、読子とうことその家族は、引っ越していったらしい。

 離婚したんだと、そんな噂は聞いたけれども、俺には関係のない話だ。

 ただひとつ心残りがあるとしたら、実家を離れる俺に何か言いたそうな顔をしていた読子とうこに、気付かないふりをしたことだろうか。


 俺は一度そこで、読子とうこの手を離した。

 また握るつもりは多分、そのときの俺にはなかったと思う。

 けれどもそれが、ベッドに横たわる読子とうこを眺めていると苦い後悔として湧き上がるのだ。




 無意識の内に、俺は、読子とうこをよく見舞うようになっていた。

 読子とうこは、遷延性意識障害、良く聞く言葉で言えば植物状態になっていた。

 そして、これ以上の回復は望めないし、これ以上悪くなることもないと、数か月の後に退院を余儀なくされたのだ。

 自宅で看る。

 そういうことになって、読子とうこの父親は読子とうこを連れて帰った。

 俺に向かっていつでも来てくれていいと言ったのは、読子とうこのことを想ってか、社交辞令か、それともひとりでは抱えきれなかったからだろうか。

 分からないけれども、弱い人なのだろうとは思った。


 読子とうこの部屋に入るのは十年ほどぶりで、ただそれは、俺が知っているあの隣の家ではなくて知らないマンションの一室だ。

 居心地の悪さばかりが、俺を苛む。

 落ち着かなさに視線を漂わせていれば、目に入ったのが、一冊の本だった。


 なんてことはない、児童書。

 ただ、ひどく懐かしい。

 眠ったままの読子とうこに断りを入れて、俺はそれを取り出した。


 ハードカバーだ。

 何度も何度も読んだのだろう。

 小口は汚れているし、角もよく見れば解れている。

 それでも、折れているページなんかはないし、破れも中身の汚れもなく、大切にしてきたのだな、と思えた。

 大切にしてくれていたのだな、と。


 子供の頃の記憶が蘇る。

 俺が大切にしていた、本。

 我が家に預けられていた読子とうこは、俺があまりにその本を大切にして、夢中になっているものだから、気に入らなかったのかもしれない。

 俺が目を離したすきに、遊び紙へぐちゃぐちゃと落書きをしたのだ。


 そのとき、どう思ったのだったか。

 よく覚えていない。

 ただ俺の中で、もう読まないだろうな、という思いが湧き上がって、そのまま読子とうこにやったのだったと、そんなことを思い出していた。




 その日、マンションにいたのは読子とうこと俺だけだった。

 読子とうこの父親は、出かけている。

 俺が来る度に、読子とうこの父親はこれ幸いと家を空けるようになっていた。

 弱い人なのだ。

 今までもそうして、逃げてきたのだろう。


 静かな部屋で、眠ったままの読子とうことふたりきり。

 耳に届くのは機械音と、呼吸音――外から微かに届く雑音。

 最初は繙多はんだ渡会わたらい刑事などのことを話していたけれども、一方的な対話では、すぐに話題は尽きてしまう。

 気付けば俺は、眠りに落ちていた。




 ――赤。


 目覚めたそこは、赤かった。

 夕日だろうか。

 いやこれは、朝日だ。


 そんなことを思ったのは、読子とうこが発見されたのが朝だったと聞いていたからだろう。

 なぜそこが読子とうこと関係があると思ったのか、それはよく分からない。

 ただ、夢の中ではそういうものはよくあることだし、とにかく、俺は突っ伏していた机から顔を上げて、立ち上がったのだ。


 あてもなく、さまよい歩く。

 そこが校舎であることは、すぐに分かった。

 ただ俺が通っていた学校ではないことはよく分かる。

 何か手がかりはないだろうか――すべての扉を開いて、すべての教室を、部屋を覗いて歩いた。

 けれども、何もない。


 歩いて、歩いて、歩いて。

 何かを探して。

 ふと中庭を見れば、読子とうこが首をくくっていた。


 俺はその紐がある四階へと走り出す。

 どうにかして引き上げなければ。

 どうにかして助けなければ。


 ――けれど、読子とうこは、落ちていく。


 赤い水たまりを作って、中庭に横たわる。




 目覚めた瞬間、叫びそうになって、咄嗟に口を手で覆った。

 なんだあれは、なんて悪夢だ。

 全身から汗が噴き出している。

 心臓が激しく鳴って、今にも飛び出してしまいそうだ。

 息が切れる。

 苦しい。

 脳裏に赤がこびりつく。

 椅子に座ったまま、丸くなって喘いだ。


 どれくらいそうしていたのか、どうにか呼吸を整えた頃には、眠りに落ちたときからおよそ一時間半ほどが経過していた。

 はっとして転げるように読子とうこへ駆け寄って、その頬に触れる。


 ――温かい。


 生きている、読子とうこはここにいる。

 そう確認して俺は、その場に崩れ落ちた。

 なんて、なんてひどい悪夢だ。

 どうしてあんな夢を見てしまったのか。

 自分が恐ろしくて仕方ない。


 それからたっぷり二時間ほどがたって、ようやく読子とうこの父親が帰ってきた。

 どこに行っていたのかはしらないけれども、看ていてくれてありがとうなどと上っ面を繕うその顔に無性に腹が立つ。

 軽く会釈して、俺は自宅へと戻った。




「それが、四年前までのことだ」


 ベッドの脇に置いた椅子へ腰掛けて、そうつぶやいた。




 その日もまた、俺は読子とうこを訪ねていた。

 父親はやはり、出かけた。

 夜まで帰ってこないつもりだろう。

 日頃きちんと読子とうこのことを看ているのだろうか、心配になる。


 眠ったままの読子とうこに、繙多はんだ渡会わたらい刑事のことを面白おかしく――何かの物語のように聞かせてやる。

 これで何か少しでも、刺激になればいいと、そんなことを考えながら。

 けれどもやはり長くは続かない。

 気付けば俺は、その日も、眠りに落ちていた。




 ――そして、赤。


 繰り返す。

 繰り返される。

 さまよい歩く俺と、首をくくる読子とうこと、落ちて、赤の中へ横たわる読子とうこ


 飛び起きて、ひどく狼狽えて、読子とうこが生きていることを確かめる。


 ――それを、何度繰り返したことだろう。


 変化は、本当にわずかなものだった。

 いや、最初からそのは起きていて、俺が気付かなかっただけなのかもしれない。


 俺がの中でると、少女が立っていた。

 彼女は、読子とうこの顔をして、読子よみこと名乗った。


 ――読子とうこがそれを望むなら。


 俺達は一緒に歩き出した。




「そのときに分かったんだ。俺が話して聞かせていた繙多はんだの話が、読子とうこに……読子よみこにとっては、本として存在していることが」

「タイトルを考えたのは、その子か?」

「いや……多分俺だよ。本に出来そうだよな、って……タイトルをつけるなら、解読ディサイファなんてどうだ、なんて言った覚えがある」

「あまりネーミングセンスはないな」

「うるせえよ」




 それでも読子とうこは首をくくり続けた。

 隣に読子よみこがいるのに、読子とうこは赤い水溜まりを作り続けた。




「だから、俺は語ることにした」

「語り部として?」

「そう。読子よみこは俺をキャラクターだと思っているから」

「それがどうして、あんな話になる」

「読んだのか?」

「本は読まれる為に存在するのであって、読まれない本の存在は神仏への冒涜に等しい」

「はは、それか。まぁ……そうだな、俺は、思ったんだよ、繙多はんだ


 読子とうこの黒い髪を撫でてから、繙多はんだへ視線を戻す。

 眉間に皺を寄せて、難しい顔をしている。

 それでも整っているのだから、悔しいとももう思わない。


「そんなに読子とうこ読子とうこ自身を殺したいなら、確実に殺してやろうと」


 ぎり、と歯を噛み締める音が耳に届いた。


読子よみこの前で読子とうこを殺してやる度に、少しずつ、反応を見せるようになった。を見せるようになった。だからこうして病院に戻って来たんだ」

「回復の兆し? 本気で言っているのか、語部かたりべ

「ああ、そうだよ」


 ソファの座面を殴る音がして、ああ荒れているなと、他人事のように考えた。


「どこまでが語りで、どこからがかたりなんだ、答えろ、語部かたりべ一路いちろ


 思わず、笑った。

 馬鹿にしたつもりはない。

 多分、そう、やはり、ほっとしている。


「全てが語りで、そして、全てがかたりだよ、繙多はんだ。虚実織り交ぜて、俺自身、もう、何が真実か分からない。ただ、アイコンとして思い出の本を破いた。しっかりとように、読子とうこで、とどめを刺した。それは分かる、覚えてる。だからきっと、俺には触れなかった」

「ありもしないトラウマを、こしらえたのか」

「何でも良かったんだ、ただ、この子が目を覚ますなら。もう、首をくくることがないなら」

「それが、読子よみこという、お前の知る読子とうこという女でなくなっても?」

「……いいよ。もう。読子よみこは、俺を愛してる。それに縋ってでも、生きてくれるなら」


 ミステリアスで素敵と女性によく言われる涼しげなその表情は、怒りなのか悲しみなのか、分からない複雑な感情に歪んでいるようだ。


語部かたりべ、お前――」

「なぁ、繙多はんだ

「……なんだ」

繙多はんだは、嫌になることはないか。真実をひもとくというその力を、自分が持っていること」


 ただでさえ寄っていた眉間の皺が、ぐっと深くなる。

 俺はただじっと見つめ、言葉を待った。


「――そうだな、たまに、嫌になる」


 吐き出される、重苦しい溜め息。


「気付きたくなかった真実も、俺には見えてしまうのだから」

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