第二話〜1
俺がそこで最初に見たのは、落ちた楓の葉みたいな色に染まる、細かく詰まった木目だった。
ゆっくり、はやく――二回、まばたきをする。
うつ伏せていた顔を横に向けて視界を巡らせれば、首の軋む音が脳みそを引っ掻いた。
――ああ、静かだ。俺以外のすべてが、未だ、眠りから醒めていないかのように。
重たい頭でそう思考しながら、また、まばたきをする。
シャッターを切ったときのように一瞬だけ視界は黒く塗り潰されて、それでも目蓋を開けばまた、寸分違わぬ光景が映り込んだ。
妙に郷愁を掻き立てる、整然と並べられた木製の机達だ。
これに、この光景に、見覚えがある。
そう思ってみても、一体どこでだったのかはどうにも思い浮かばない。
家にこんな机はなかったし、自分が学生だった頃に使ったような覚えもなく、職場でも――勤めている高校でも、今は使っていない、はずだ。
――ああ、何かきっと、ドラマか映画か、昔の生活を描いたようなものとか……いや、もしかしたらニュースか何かという可能性もあるんじゃないだろうか。そういえばもうすぐ廃校となる学校を主題にしたドキュメンタリーを、この前、録画しておいたような。
まとまらない思考が文字列となって脳みその中を巡り、好き勝手に組み合わさっていく。
きっと、多分、恐らく、もしかしたら――そんな不確かなものばかりを並べ立て、出来上がった文章はひどく曖昧だ。
どれだけ正しく整列させようとしても、むしろ、正解などないとばかりにまた散らばっていき、いつまでも完成しない。
ああ、もう少しだというのに。
細く息を吐き、また、まばたきをする。
クリアにならない視界は、いつまでも赤い。
これから落ちていくのなら、すぐに暗くなるのだろう――ズレていく思考に気付かないまま机達を眺めていれば、脳みそがまどろみに溶けていく心地がした。
「いっちゃん」
それは、不意な呼びかけだった。
頭上からの声に、頭蓋の中、反応した脳みそは溶けられないままで原形を留める。
「いっちゃん、目が覚めたかい」
出始めが少し掠れたメゾ・ソプラノは、何らかの高ぶりを無理に押さえ付けているかのような、妙な重厚さを持っていた。
若い女の声だ。
年の頃でいうなら、日頃接している、十代半ばすぎの声だろう。
なにか、どこかで聞いたことがあると思うのは気のせいか――悩んでみても、分からない。
それがたとえば本当に自分のために受け持つ生徒だったとして、声だけで判別出来るほどの興味を彼らに対して持ち合わせていない俺では、候補すら挙げられなかった。
いや、いや。
この机に関してだって、どれだけ考えてみても曖昧であること極まりないというのに、思い出そうだなんて無理に決まっているのだ。
そんな判断してしまうのは、やはり教師として失格なのだろうか。
ただ、相変わらず靄がかかった頭では、それを情けないと思うことすらなかった。
机に伏せていた上体を、気怠さと慎重さでもってゆっくりと起こしていく。
下敷きにしていた片腕が痺れて、少し冷たい。
また、首の軋む音がした。
体を起こすにつれ、勝手に上がっていく視点。
机の向こう側に、何かが――いや、誰かが、立っている。
顔まで辿り着くのに予想以上の時間がかかって、それでようやく、その存在が思ったより近くにあることを知った。
いやに赤い太陽が、横から射している。
右半身だけが楓みたいな色を反射して、左半身はほとんどが影で良く見えない。
俺からすると普段見慣れない黒のセーラー服、それと、襟の下へ巻いている白いスカーフが、陽に赤く染まっている。
やはり女――女子生徒だ。
両耳の後ろ、下の方で三つ編みにした黒い髪を微かに揺らして、女が首を傾げてみせる。
半分だけ赤く染まる唇が開くさまを、まじまじと眺めた。
うちの生徒ではないなと、それだけを考える。
「おや、まだ半分眠っているのかな? 早く起きないといけないよ」
格好からして、俺よりいくらも年下なはずだ。
それなのに、まるで保護者か何かのように語りかけてくる――この女は、一体。
記憶を探ってみるけれども、どうにも答えには辿り着けないらしかった。
本当にまだ半分、眠っているのだろうか。
もしくは俺の脳みその、十代半ばの人間を覚えるための領域が、もう既に満杯になっているのだろうか。
なにもかもがマーブル模様を描いて、ぐちゃぐちゃに混じり合っていく。
せめてもの抵抗とばかりに、何度か目をしばたたかせた。
「ああ、そういえば」
見上げる俺と、見下ろす女。
女は急に合点がいったとでもいう風に、両の手のひらを合わせた。
ついでにまた反対側へ首を傾げたせいで、三つ編みにした髪が揺れる。
その仕草は――仕草だけ見れば、ただただ無邪気なものだ。
だというのに、背筋が微かに震えた。
「自己紹介をまだしていなかったね。私は、私のことは、ドク、とでも呼んでおくれ」
「ド、ク?」
声が掠れたのは、決して、怯えたせいではない。
そう、決して。
ドクと名乗ったそのセーラー服の女は、俺の様子など気に止めず、撫でられて満足げにする猫のように目を細めた。
中学生か、高校生か――雰囲気からして、恐らくは高校生くらいだろう。
そう判断して、けれども、俺の中を戸惑いのようなものがじわじわと侵食していく。
どうしてそう思うのか分からないまま、ただその戸惑いを振り払いたくて、半分だけ赤くそまったその顔をじっと見つめた。
二重でくるりと円い瞳は黒く、鼻梁は細く、あまり高くはない。
陽に半分だけ赤く染められている唇は、下側が少しだけ厚く、全体的には小ぶりだ。
特別目を引くような美人ではないけれども、かと言って醜いわけでもなく、容姿を一言でまとめてしまうなら、いかにも日本人らしい、と言えるだろう。
ただ、口元は笑みを象っているのに、俺の目にはどうにもそうは見えなかった。
――これは、なんだ。
そろそろと目をしばたたく内に、ようやく脳みそが働いてきたらしい。
見知らぬ女が目の前に立っていたとか、それが一体誰なのかとか。
ディテールばかりを気にしている場合ではないだろう。
何よりも、自分が置かれた状況自体がもう既におかしなことなのだと、そう気が付いたのだ。
机、なのだ。
俺が伏せていたものと同じ、木目の天板が張られた生徒用の机と椅子、それらが同じ方向を向いて並べられている。
その先には文字が消えきっていない黒板と教卓、壁にかかっているのは、一本だけ残された短針が五時から六時辺りを指しているシンプルな時計だ。
ここは、教室だ。
雰囲気からすると普通教室ではなく、何かの特別教室のように感じる。
とはいえ、いまいち見覚えがない。
あまり入ることのない教室だろうかと考えてみても、やはりそれも違う。
どこの高校も大抵、雰囲気は似たり寄ったりだろう。
だからといってどこも全く同じはずはないし、覚えがないとなれば、勤め先の高校ではなく、見知らぬ学校であるはずだ。
しかし、そんなことを抜きにしても、何か、どうしても拭い去れない違和感があった。
女の黒い瞳が俺を見ている。
それには気付かないふりをして、もう一度教室内を見回す。
そうすれば、違和感の原因がようやく知れた。
人のいた気配というものがないのだ。
掲示物はなく、机の中にも何もない。
黒板が汚れているけれども、それしか人を感じさせるものが存在せず、余計に落ち着かない気分にさせられる。
いや、そもそも。
俺は目を覚ます前、職員室で自分に宛がわれた事務机で仕事をしていたはずなのだ。
それが何故こんな、見知らぬ教室にいるのだろうか。
長針がない時計では正確な時間は分からないしそもそも動いているかも分からないけれども、太陽の傾き方からして、職員室で時計を確認した時点からもさほどたっていないように思われた。
俺はどうしてここにいる。
彼女が、ドクが運んだのか。
そんな細腕で、俺を起こすことなく、ほんのわずかな時間の内に。
――そんなのは、無理だ。
「いっちゃん」
反射的に肩が跳ねた。
女が小さく笑う。
デジャヴか、と思いはしたけれども、職員室で俺に声をかけてきたのはきっと、彼女だったのだろう。
何故そんなことが起きたのか、それがそもそもの疑問点ではあるのだけれども。
「考え事もいいのだけれどね、そろそろ移動しようじゃないか」
大仰に両手を広げる彼女は、とうとう堪えきれなくなったとでもいう風に、興奮に震える声で俺を誘った。
陽のせいなのか、頬は相変わらず赤い。
伸べられる手のひらを、普通なら取らないだろう。
けれども俺は、自分の左手を確かに重ねた。
満足そうに目を細めている彼女を見ると、心臓の辺りが妙にざわつく。
「移動って、どこへ」
俺はそう言いながらも、手を引かれて立ち上がった。
見た目の通りというか何というか、彼女には人並みの力しかない。
やはり、彼女の手によって俺がここへ連れて来られたのだとは考え難かった。
ドクの右手と、俺の左手。
離すタイミングを見付けられず、繋いだそのままに教室の前方のドアへと向かう。
細身で小さい彼女がすいすいと縫う机の間は、大の大人で、しかも寝起きの俺にしてみれば随分と狭く感じられるものだ。
次々と引っかかって、綺麗に並べられていたそれは、ずれ、乱れていく。
何気なく振り返ったその跡は、まるでもぐらか何かの通り道のようだった。
彼女は俺の質問に答えず、そして、手を離すこともしない。
足が竦みそうになるのに、それと同時に、空回りしてしまいそうなほど足を踏み出しそうになる。
自分の心と身体なのに、自分で動かしているはずなのに、自由が利いていないような気分だ。
連れられて出た廊下から最初に見えたのは、吹き抜けになっているらしい空間と、そこへ面するずらりと並んだ窓だった。
この建物の構造からしてもやはり、俺の赴任している高校ではないということが分かる。
分かる、けれども、ではここが一体どこなのか判別出来るほどの細かな情報を手に入れる術はない。
何故ならこの廊下は教室側から射す陽だけが光源となっていて、仄暗いからだ。
全てが曖昧で、覚束ない。
――いやだ。ここは、いやだ。
そんな癇癪を起こした子供のような感情が腹の底から湧き出して、薄皮一枚の下を這いずり回る。
まだらに肉を削り取られるような、何とも言い表せられない、どろりとした不安感。
それを拭い去りたい一心で俺は、前を歩く彼女を見つめた。
目眩がする。
デジャヴだ。
俺は前にも、誰かにこうして手を引かれ歩いたことがあった。
そう思うのだけれども、それは一体誰だったのか――母だったろうか、それとも。
記憶を辿ろうとして、そこで俺は、ふと我に返った。
今は、そんなことを思い返している場合ではないだろう。
短く息を吐いて、黒い後頭部を
「質問に答えてくれ。ここはどこなんだ。君は誰だ。一体何が」
「ドク」
「は?」
言い募る俺に、彼女は短く被せた。
名前は――勿論本名ではないだろうけれども――先程聞いたのに。
真っ直ぐと訴えかけるその黒い瞳に、たじろぐ。
彼女の背後からのっそりと射し込む陽が、その表情を曖昧にさせている。
「ドクと呼んで欲しいと、言ったと思うのだけれどね」
それは、出来の悪い子供に言い聞かせるような口調だった。
それなのに、どことなく媚びの混じった、拗ねた声色だった。
母のように、姉のように、妹のように――何より、女であると主張するかのように。
胃の辺りが何だか落ち着かない。
俺はどうにも苦手なのだ、このくらいの年代の少女という生き物が。
どうして苦手なのかは自分でもよく分からないけれども、とにかく、苦手だった――ともすれば、恐ろしく感じてしまうほど。
真顔で俺をじっと見つめていたドクは、一拍置くと再び前を向いて、からからと楽しげに笑った。
「そんな顔をしなくったって良いじゃあないか。折角の男前が台無しだよ、一路くん」
ドクのそんな声に、思わず、む、と口を
そんな顔がどんな顔か分からないし、俺は特段男前と言えるほどでもない。
とはいえ判断基準になっているのは大学時代からの某友人であって、ソイツと比べれば大体の人間は平々凡々な顔付きと呼べてしまうだろう。
まぁともかく、俺だって不細工でもないとは思うけれども、素直に受け取れはしない。
何よりも、こんなときに初めに思い出したのがアイツかと妙な顔をしてしまったことを、今度こそ自覚した。
横目で面白そうに窺ってくるドクの視線が、何よりの証拠だろう。
――それにしても。
それにしても、下の名前を、あだ名でなくきちんと呼ばれたのは久し振りだ、などと関係のないことを考えて、自分を誤魔化した。
一体何を誤魔化したのか、自分でもよく分からない。
けれども、それでもどうやら、気を紛らわせることには成功したようだった。
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