世界でただ一人のウォッチャー
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世界でただ一人のウォッチャー
机がずらりと並んだオフィス。その机の島の一角で定例の伝票処理をしていると、壁の時計が十二時を指した。昼休みの時間だ。作業の手を止め、社員たちがめいめいに立ち上がる。
「
「はい」
私こと
オフィスの一角。パーティションで仕切られた小さなミーティング用のスペースで向かい合って私と唐音は弁当箱を開く。ほとんどは夕べの残り物を朝大急ぎで詰め込んだものだ。
食事を摂りながら、とりとめのない会話が続く。
「そういえば、夕べ、鎌手所長のチームで飲み会したそうですよ」
「よく知ってるね」
「橋さんです」
「ああ、あいつはしゃべり続けてないと死ぬから」
回遊魚が泳ぎ続けないと死んでしまうように、橋氏はいつも何がしかしゃべり続けている。ときには独り言をぶつぶつと。時には電話に向かってとうとうと。とにかく切れ間なくしゃべり続けているのだ。
「で、来年の話題になったらしいです」
唐音が突然話題を切り替えた。今は十二月の年末シーズンだ。
「ニ〇二〇年、何だろう、東京オリンピック?」
東京オリンピックを間近に控え、景気は順調に回転している。私たちの勤めている業界に直接の好影響がある訳ではないけど、経済は巡り巡って私たちの会社の台所をも潤している。
「
「ああ、もうそんなに経ったんだ」
同僚を話題にしていると、ちょうどその彼が営業から戻ってきた。
「ただいま帰りましたー」
グレーのスーツで身を包んだ彼を離れた島から見やる。営業部の社家地三郎太は入社ニ年目の若手社員。あだ名はシャケッチ。鮭の産卵を連想させるけど実は関係ない。成績は可もなく不可もなくといったごく普通の営業マンである。
社家地君は営業用の鞄をデスクに無造作に乗せ、パソコンの電源を入れる。プレゼンテーションソフトで作成した提案書に修正を入れるのかもしれない。
新人だった彼が配属の日、緊張した面持ちで自己紹介をしたのはついこないだのように思っていた。二年が経過し、それなりに営業マンらしくなった彼は椅子に腰かけ、眼鏡を外して汚れを拭きとりはじめた。
しばし彼の動向を見やっていると、唐音が口を開いた。彼女もまた彼に注目していたようだ。
「どうなのかなあ、他所の営業所に転勤かしら」
彼が言っていた三年目、それは別の営業所へ異動になるかもしれないといったニュアンスを持ち合わせていた。
「リース会社だもの、仕事柄、転勤は仕方ないよ」
「ですよね」
唐音はうなずいた。リース会社も金融業の一つである。厳密な金勘定が絡む金融業では、営業マンと言っても顧客との癒着は避けなければならない。そのため、適当な時間が経過すると自然と異動となるのであった。
※ ※ ※
その夜、自宅に戻った私は食事を済ませ、シャワーで一日の疲れを洗い流すと、自室のパソコンをスリープモードから復帰させた。マウスをクリックしてブラウザを立ち上げる。
お目当てはブックマークしているとあるブログ。これは社家地君のブログである。マウスを操作して画面遷移する。
「……特に変わったことは書いてないか」
そこには社家地君のプライベートが
マウスをクリック、ブラウザに新しいタブを追加して、小説投稿サイトを呼び出す。小説投稿サイトからとあるSNSのアカウントに辿り着き、そこから更に彼のブログへとたどり着いたのあった。
「ハンドルネーム、シャケッチだし、登場人物に同僚の名前使ったら
個人情報が厳重に保護される現代だけど、彼の脇は意外に甘かった。慣れ親しんだ自分のあだ名をハンドルネームにしているから検索で一発でヒットした。そして彼が手慰みで書いた小説を読んでいくと、同僚の名前が不用意に用いられていた。これで彼に違いないと確信したのだ。そして、リンクを辿って彼のブログへ。間違いなく社家地君だった。
小説投稿サイトの彼のアカウントの画面を見る。小説の更新日は古い日付のままである。こちらは面倒になったのか、放置されたままである。
――忘年会に出席。来年は東京オリンピックの年。HDDレコーダーを新しいのに替えようか。今のはディスク容量がかつかつなので――
流石に会社の肝心な話題はここには書き込まないか。しかし、相変わらずマイペースだ。マウスをクリックして画面遷移する。内容のほとんどは他愛のない日常。画面の端っこにこっそり設けられたアクセスカウンターの数字は低迷。ウォッチしてるのは私くらいか。
今度はSNSサイトに遷移して画面をスクロールさせる。こちらにも特に何も書いていなかった。自動車に興味があるのか、ローカル局の自動車情報番組の感想がいくつか散見される。普段は社用車で移動しているけれど、彼自身はどんな車が好みなのだろう。
※ ※ ※
しばらく後、私は普段通りオフィスの島で伝票を処理していた。電話のコール音が交差する。
彼が伝票を持って私の所へやって来た。
「
私は無言で伝票を受け取るをざっと目を通した。交通費の申請だ。
「これ、先月の。早く出せばよかったのに」
「いやあ、先月はバタバタ忙しくて、まとまった時間をとれなくて」
彼は苦笑いした。眼鏡のレンズの奥にある眼尻がわずかに下がる。不思議なことに彼の口の端は片方は上がるのだけど、反対側は動かないのだ。どこかの国の副総理に似ている。本心では笑っていないのだ。
「来月からキャンペーンでしょう?」
「はい。まあ頑張るだけっすよ」
やっぱマイペースだよなあ。伝票は締めちゃう間際だったけれど、通すことにしよう。
すると、唐音が背後から声をかけてきた。
「社家地さん、鎌手所長がお呼びですよ」
はい? 予期していなかったのか、彼は苦笑いを浮かべたまま振り返った。
彼は無言で会議室に入っていった。伝票を握りしめたままその後姿を見やる。
「
「何が?」
「何か雰囲気が少し違うというか、そんな気がするんです」
私は小首を傾げた。
「……あ、人事異動があるかもって話ね」
「異動ですか? 社家地さん」
「さあ?」
ウォッチャーとしては迂闊であった。
※
ドアが開く音がして、社家地君が出てきた。
「あ、出てきました」
「表情は?」
「特に変わらないですけど」
社家地君は仏頂面であった。そのまま自分の島の席に戻る。電話のコール音がして社家地君は受話器を取った。
「毎度ありがとうございます――」
唐音が社家地君を見やった。
「社家地さんのあれ、どうでした?」
「所長にそれとなく訊いてみたけど、やっぱ異動みたい」
唐音は何とも言えない微妙な表情となった。彼女の柳眉がかすかに歪む。
「そうなんだ……」
「唐音ちゃん、動揺してない?」
「
会社が引けた後で、とりあえず私と唐音は近くの喫茶店に入った。室内楽の流れる落ち着いた雰囲気の店内で唐音は白磁のカップを手にした。
※ ※ ※
風呂上がりの私はドアを開け、無言で自室に入った。髪に巻いたタオルをほどくと、壁の鏡を見る。そこには行き遅れというにはまだまだ若い一人の女が写っていた。そのままベッドに腰を下ろす。
「ふう」とため息をつく。思わず遠くを見る眼差しとなる。
のろのろと立ち上がると椅子に腰かけ、パソコンを起動させる。キーボードを打鍵してパスワードを入力する。
「唐音の恋バナに付き合わされるとは……」
思わず声が口をついて出た。喫茶店で彼女が告白したところによると、唐音は密かに社家地君に想いを寄せていたらしい。その彼が急に異動という話となったのだ。
マウスをクリックして、社家地君のブログを呼び出す。
「……いい加減、気づけよって話だよね」
私は無言で社家地君のブログに目を通す。
「……仕事のことは書いてない、か」
無造作に椅子の背もたれに体重を預けると、重みで椅子がきしんだ。そのままぼうっと何とはなしに天井を見上げる。世界でただ一人のウォッチャーと思ってたけど、どうやら違ってたようだ。
※ ※ ※
ある日、オフィスの片隅にある給茶機でお茶を飲んでいて何気なく振り返ると、後ろに社家地君がいた。
「!」
気配に気づかず、ぎょっと驚いた私だった。靴のかかとがよじれて思わずよろける。おっとっととふらつく私を彼が後ろから支える。カップの中身が床にこぼれた。
「大丈夫ですか?」
彼の体臭がかすかに鼻腔をくすぐる。
「後ろに人がいると思わなかったから……」
「あはは、時々言われるんですよ。お前は気配を消してるのかって。別に武道とかたしなんでる訳じゃないんですけどね」
私が体勢を取り戻すと、そのまま彼は去っていった。私の後ろでお茶を待っていたはずなのだけど、それは止めにしたのだろう。ホーッとため息をついた私だった。
※ ※ ※
夕方になった。オフィスの一角にテーブルを並べる。そして飲料水や菓子を並べる。年末最終日。今日は早めに仕事を切り上げ社内でささやかなパーティーを催す。
年内の仕事に区切りをつけた社員たちがなごやかに談笑する。その姿を何とはなしに見やる。
片隅に社家地君がいた。彼はテーブルのビールに手を出した。
「社家地君――」
「はい?」
「栄転じゃない」
社家地君はまた苦笑いした。片方だけ口の端が上がる。
「いやあ、傍からだとそう見えます?」
「だって本社だもの」
予想より一足早い異動だった。
社家地君はコップを片手にひょいと肩をすくめた。
「販売推進なんで、営業センスないってことかも」
確かに営業マンとしてのシャケッチは危なかしいところもあった。まあ、そこが可愛かったんだけど。でも、私は首を横に振った。
「ううん、見てる人はちゃんといて、努力してるのが認められたんだよ」
「でしょうか?」
「ここ三年、それなりに成長したと思うよ」
「だといいんですけど」
「あ、やっぱ私だけじゃないんだ……」思わず声が口をついて出てきた。見る人は見ていたのだ。
「何ですか?」
「いえ、何でも――」
ウォッチ対象には決して干渉しないのがウォッチャーのたしなみ。でも、なごやかなパーティーで気分が緩んでいたのかもしれない。この際だ、言っちゃえという気分になっていた。
私は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「社家地君ウォッチ」
社家地君は思わず笑った。
「何です? それ」
「君を密かにウォッチしてたんだ」
「よく分からないです」
社家地君は真顔でそう答える。この鈍感さが彼らしい。
唐音がテーブルに追加の飲料を持ってきた。
「ね、唐音ちゃんもそうだったんだよね」
「え? え?」
「社家地君ウォッチ」
突然核心に触れられて唐音は戸惑っている。
「唐音ちゃんも?」
「はあ……社家地さん、来月から本社なんですよね」
「うん」
唐音は何ともいえない表情となった。
「じゃあ、せっかくだしメルアド交換しない?」
とりあえずその場をとりなす。
私たちはスマートホンを出すと、互いのメールアドレスを交換した。
「はい、これが私の」
社家地君はスマホに目を通した。
「……静女さんってインフォヤーグルなんだ」
「ああ、そうだけど――」
「ブログのアクセス解析で常連さんがいて、横浜のインフォヤーグルなんですよ」
「……バレたか」
私は思わず苦笑した。
「社家地さん、ブログやってるんですか?」
「あ、唐音ちゃん、後でアドレス教えてあげる」
「静女さん、どうやって知ったんです?」
「小説投稿サイトの君のアカウントを辿って」
不意に急所を突かれた社家地君はうっと言葉に詰まった。
「シャケッチでググればヒットするよ」
「結構プライベートなことも書いてたんですけど……そっか。見られてたのか」
唐音は興味津々だ。
「どんなの?」
「いや、身の回りのこととか。薄ーいの」
酔いもいい加減回っていたのか、社家地君はしどろもどろだ。
※ ※ ※
翌朝、私は独り横浜駅の構内にいた。年末の休日を迎え、大勢の人たちがせわしなく行き交っている。
「あら?」
ふと振り返ると、後ろにコートを着た社家地君がいた。どこを目指しているのか、彼は私の存在には気づかず行ってしまった。
「気づいてない?」
休日出勤だろうか、コートとスーツ姿の彼はそのまま別のホームに向かった。階段を上げっていく彼の後姿を無言で見上げる。
私と彼は別々のホームに、それも同じような位置に立っていた。私は東海道線、社家地君は京浜東北線、離れた位置だけど互いに向かい合う。
「これが最後のウォッチかな」
私は社家地君に向け、軽く手を振った。うつむいていた社家地君はかすかに顔を上げた。が、それ以上反応しない。
「気づいてない?」
私の存在に気づいたのか気づいていないのか、分からないままに彼のいるホームに電車が入線した。視界が不意に遮られる。
電車はしばらく後に発進した。人気のないホームを独り見つめる。
「社家地君らしい」私は思わず嘆息した。
東海道線のホームにも電車が入線して来た。電車の扉が自動で開く。
「これからは彼と唐音のウォッチかな」
私は足を踏み出すと、そのまま電車に乗った。プシュッという空気音がして扉が閉まる。すぐに電車は動き出した。カタンコトンとしたレールの音にじっと耳を澄ます。私は作り笑いして、そのまま流れていく車窓の風景を見やった。
せいぜい楽しませてもらおう。ウォッチャーだもの、世界でただ一人の。
(了)
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