第10話 明朝は万暦に滅ぶ

 第二号作戦、舞台は中国に移された。

 明王朝の弱体化を早めることが作戦の目的だ。


 戸部典子は、急速に興味を失っていた。

 ここでは彼女が大好きな戦国武将が一人もでてこないからだ。

 それに明朝末期は確かにつまらない。ただ退廃していくばかりの世の中なのだ。

 戸部典子が手持無沙汰に研究室内をうろうろしている。邪魔だ!

 挙句の果て。中国人の研究者や人民解放軍の諸君に、自分が描いた戦国武将のイラストを見せてはうっとおしがられている。ざまーみろ、だ。

 戦国武将教の布教はうまくいっていないようだ。そう、布教活動は過酷なものなのだ。ザビエルを見習え、ザビエルを。


 中国人の研究者たちは忙しくしていた。

 なにしろ第二号作戦は彼らの地元中国なのだし、中国史に関しては私たちよりも遥かに詳しい。しかし、第一号作戦で戸部典子が提案した作戦は彼らにも大きな影響を与えた。つまり中国大陸でもピンポイント攻撃を敢行するらしい。


 彼らが暗殺対象者として選んだのは、明王朝末期において財政再建と綱紀粛正を行うはずだった宰相、張居正ちょうきょせいだった。一五七二年、万暦帝が十歳で即位すると、幼帝を補佐して独裁的な手腕を振るう。

 実は、張居正は本能寺の変の年に死去することになっていた。つまり信長と同じ年に死ぬはずだったのを、十年遡って暗殺したのだ。つまり万暦帝の即位直後に毒をもられて死んでしまった。

 これだけでよかった。まさにピンポイントである。その直後から、予想どおり幼帝をめぐって官吏、宦官たちの勢力争いが激しさを増していった。


 政治が不安定になると官吏の不正や汚職が常態化し、その反動は各地での反乱となって現れた。特に南方の反乱勢力は海賊集団である倭寇と結びつき強勢であった。この当時の倭寇のほとんどは、日本人ではなく福建や広東の中国人である。


 戸部典子はおとなしく研究室の隅でお絵描きしている。実に平和だ。李博士がお絵描きを覗き込んで顔を赤らめている。何を描いとんのじゃ。


 北方では歴史介入により、満州族の若き族長、ヌルハチの台頭が加速されていた。改変前の歴史で、満州族をコントロールしてその勢力を抑えた遼東総兵・李成梁りせいりょうを買収してしまうと、ことは簡単だった。彼は蓄財に没頭し、満州族のコントロールが疎かになっていった。ヌルハチは周辺の部族を次々に従え王となった。

 満州族を統一したヌルハチは幾度も国境を脅かし、明王朝は満州族との激しい戦いを強いられていった。

 明王朝滅亡の要因のひとつが豊臣秀吉の朝鮮半島への出兵である。明は宗主国として援軍を出し、そのことが軍政の腐敗を招き、国力を失う一因となったのだ。満州族が清王朝を建て中華を制圧できたのは、明の国力が地に落ちていたことが原因である。要するに、この逆をやるのだ。満州族によって明の弱体化を図り、弱り切ったところを織田信長に攻めさせるわけだ。

 ちなみに、満州族という言い方は十七世紀なって清朝が建てられた後からの呼び名で、この頃は女真族と呼ばれていた。


 女真は遊牧民族である。馬を駆り、草原を駆け抜ける。

 「戸部典子君、どうだい、戦国武将もいいが、精悍な女真族もなかなか素敵だろう」

 私はついうっかりと戸部典子に話しかけてしまった。

 「でも、ヌルハチでしょ・・・」

 「そうだ、見たまえ、彼の雄姿を。」

 「でも、ヌルハチ、変な名前・・・」

 私が馬鹿だった。

 ヌルハチの台頭とともに戸部典子の布教活動は実を結びつつあった。人民解放軍の女性兵士たちが彼女のまわりに集まりつつあった。彼女がお絵描きしたイラストを囲んでは「ハオハオ」などと言ってやがる。

 こいつ、人民解放軍を洗脳しやがった。

 オタク属性が豊富な陳博士も興味を示している。戸部典子と人民解放軍の女性兵士たちの集まりを覗いては、カタコトの日本語で何か言っている。

 よく聞いてみると、

 「クサッテル、クサッテル。」

 と、言っている。

 なんのこっちゃ。その時の私はそう思っただけだった。


 反乱の鎮圧と北方の防衛のために国庫は底を尽き、民衆には重税がのしかかった。困窮した民衆は大量の流民となって反乱勢力に吸収されていく。果てしの無い悪循環が生まれ、明王朝は疲弊し、その統治能力を失っていった。

 明王朝の危機にもかかわらず、万暦帝ばんれきていは後宮に閉じこもり、朝政の場にさえ姿を現さなくなっていた。明王朝の滅亡はもはや日を見るよりも明らかであった。もともと「明史」に「明朝は万暦に滅ぶ」と書かれているくらいなのだ。万暦帝の後、三人の皇帝が即位したほうが奇跡と言っていい。

 衰え行くものの滅亡を加速することも比較的容易なのだ。西欧人のように滅び行くローマ帝国を蘇生しようとすれば、歴史の復元力に真っ向から対抗しなければならない。


 ただ、このとき私たちも予測していなかった。北方に勢力を拡大しつつあったヌルハチの勢力が、後に碧海作戦の前に、最大の障壁となって立ちはだかることを。

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