2-2-8-6

 奥崎の口元、土埃が舞う。彼は笑っている。四恩はさらに力を込める。彼はまだ笑っている。

「なにも、おかしく――ない」

 彼女は宣言する。彼を立たせる。足を折ろうと、彼女は考える。拘束具を持っていなかったことを思い出す。

「おかしいから笑うんじゃあない。笑うからおかしいんだ」

 言って、膝を付く。自発的に。その思いがけない動作に、四恩もまた膝を付く。

「立って――」

 拘束具がなくとも、今や主導権は四恩が握っていた。高度身体拡張者同士の戦闘はちょうど、衛星破壊兵器と小型核爆弾が一般化した現代の戦争に似ている。相互確証破壊で互いに牽制しつつ、白兵戦主体の低強度紛争を繰り返す。彼女は既に〈バーストゾーン〉に片足を踏み入れていた。奥崎がその能力を使おうとするなら、彼女もまた、それを使うだけだ。その先にあるのは、互いの破滅。いや――戦闘の結果に関わらず、奥崎はここから逃げなければならないという条件があるからには、もし彼女と同程度の負傷でも、それは致命的でありえる。

 四恩は自分の優位を改めて確認した。冷静さを取り戻すために。汗が止まらない。心臓の高鳴りが止まらない。舌をどれだけ動かしても口の中の乾燥が止まらない。〈バーストゾーン〉への部分的移行による高揚感がゆっくりと消えていく。

「立って――!」

 命令を出す。自分に、この場の支配者であることを思い出させるために。

「『立って』ではなく『立て』じゃないかな」

 間違いを指摘される。四恩は自分の頬が熱くなるのを感じた。それからようやく、彼女は周囲から雑音の一切が消えていることに気づいた。恐怖の、これが正体だった。彼の声が、彼の声だけが、彼女の鼓膜を震わせていた。数少ない例外は、ますます強く速くなる心臓の鼓動だ。

 周囲を見回す。やはりまだ、殺戮の桃源郷が彼女と彼を包んでいた。しかも、その領域は時の経過とともに大きくなっている。彼女は一本の糸のようにまで細くなった煙の柱を見た。

 視覚と聴覚が互いに裏切り合う。四恩は息と唾液を飲む。同時に、土の味を味わう。

 この今、四恩こそが奥崎の足元に倒れ伏していた。身体が全く動かない。動かせない。それでも、彼の革靴の爪先だけは見ることができた。

 饒舌な、爪先だった。

「他人を操作していると思っている者ほど、操作しやすい者はいない」

 何がどうなってこんなことになっているか、四恩にはわからなかった。高度身体拡張者としての能力の差――?

「君は最も大事な物を捨ててきた。だから力を失った。だから君は敗北する。僕は最も大事な物をちゃんと持っている。だから僕は力を得た。だから僕は勝利する」

「もっとも、大事な、モノ――?」

「幾つかある。友情と、努力と……」

「勝利――?」

「うん。いや、でも、それだと勝利を持っているから勝利することになるな……」

 動かすことのできない四恩の身体が、動かされる。彼女の足は、もう地面に触れてはいない。彼女と奥崎の身長差を埋めるだけの高さへと、彼女の身体は浮き上がっていた。彼の顔を真っ直ぐに見ることになる。

 彼は大きく口を開き、歯の前面の全面を誇示しながら、四恩を見ている。彼女は目を閉じようと思うが、瞼の上げ下げさえ自分の意志でコントロールできなくなっているということがわかっただけだった。

 今一度、身体を動かそうと試みる。平手打ちの1つでもしたい――と四恩は思う。だが、それは大きな身じろぎとなっただけだった。手首と足首に熱感を覚える。その感覚は直ちに痛みにまで高まっていく。彼女と違って奥崎は拘束具を持っていた。

 痛みを伴うほどの力が、彼女の両腕を水平に上げる。彼女の足首を交差させ、両足を束ねる。ちょうど自分が十字架を描いていることに、彼女は気づく。

「君にかけられた呪いを解いてあげよう」

 四恩の両脇と足元で閃光が炸裂した。この世の始まりを思わせる白色の後、ほとんど無限に近い時間が経ってから、彼女の両頬を、いや――彼女の全身を紅が染め上げた。それは細切れになった肉と骨と、そして血液。

 彼女の肘から先と、膝から先が爆発して弾け飛んでいた。

「『還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を度せんがためなり』――曇鸞『浄土論註』より。聞こえているかな、四宮さん。君がそんなに大きな声を出せるなんて知らなかったな」

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