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 奥崎は言い終えると、笑みを消した。彼の顔には今、車椅子の上でシャワーの降り注ぐ時を待つより他にはなかった少女を傘で庇った、あの時の表情が確かに貼り付いていた。

 貼り付いていたが、四恩はもう、その顔を求めてはいなかった。もう、求めることはないだろう、という気持ちが肺の中いっぱいに拡がった。絶対的な何かに降伏するような感情とともに。ゆっくりと息を吐く。彼女の身体が小さくなっていくにつれ、奥崎を観察するために捨象していた、ありとあらゆる現実が押し寄せてきた。空白を埋めよ。

 まずは音。光よりも速い音の到来。認知の歪みの証明。

 どんどんどんどんどーんどんどんどんどーんどーんどーんどーん――。

 ぶあぁぁぁぁぁぁあああああああああぶぁぁぁぁぁああああああ――。

 奥崎の慈愛に満ちた表情の向こうで、自動小銃が火を吹いている、車が爆発して空を飛んでいる、人間が火の塊と化して彷徨う。

 それから金切り声の数々。その中には、はっきりと、日本語の発話として聞こえるものもある。

 お母さああああああああああああああああああああああああああ――。

 男か女か子供か老人かは、四恩の拡張されているはずの聴覚でもわからなかった。わかりたくなかったのかも、知れなかった。

「君には帰る場所なんか、ないんだよ。僕も、そうだ。僕たちには帰る場所なんかなかったはずだよ。君はいつから、大人たちに期待するようになってしまったの? 君に何一つ真実を教えない者たちの、何に期待しているの? 彼等の気紛れな愛に、一縷の望みを託しているの? 僕は君を、伽藍を捨ててバザールに向かおうと誘った。そうしたら、これだ――。世界について君は、あまりにも知らなすぎる」

 四恩は「おくざ――」と言いかけて、「あなた」に変えた。

「あなた、は、知ってるの――?」

「僕は知っている。僕は見てきた。――、そうだ、そういう話をするべきだったんだ。工程を間違えたな……。女の子をデートに誘う方法なんて、教えてもらったことがなかったから……」

 臭いが、音と光に遅れて、ようやく四恩の鼻を刺激した。彼女は奥歯を噛み合わせて、その刺激に表情を変えてしまうことを堪えた。それは必ずしも、大勢の人々の沢山の体毛が燃え上がり、二酸化硫黄が生成されたことだけに由来してはいなかった。もっと多くの様々なものが燃焼という猛烈な酸化によって、異臭を放っていた。

 遠景で断末魔と臭いが混ざり合う。

 いやだあああああああぁああああああああああああああああああ――。

 遠い声、遠い死。

臭いくさいよね……」

 奥崎が四恩の手を取る。彼女の拳を大きな手で包み込む。その時初めて、彼女は拳を握りしめたまま彼と話していたことに気づく。丸めた人差し指を親指が押さえている、その隙間に、彼は自分の指を挿入する。彼女の拳をこじ開けようとしている。彼女は革手袋と彼の長い人差し指との僅かの擦過音を聴く。

「本当に臭いんだよ……」奥崎が四恩の耳元で囁く。

 拳を開く。奥崎の人差し指を掴む。

「人間てさ……」

 折り曲げる。指の折れる音が鳴る。

「それに壊れやすい……」

 とはいえ、彼は指を折られたことについて何も思う所がない様子。言いながら、奥崎は片手で四恩の手首を掴む。その顔は穏やかな、安らぎにさえ満ちている。

「『真に根こぎにされた存在にはふたつの行動様式しかない』

 手を返す。手首を掴み返す。

「『ローマ帝国期の奴隷の大半がそうであったように魂の無気力状態に落ち込むか』」

 彼の上腕にもう片方の手を添える。軽く押す。彼の腕は捻り上げられながら、背中側へ。

「『あるいは、まだ根こぎの害を被っていない人々を、往々にして暴力的な手段に訴えて根こぎにする行動に身を投じるか』」

 大きく踏み込む。腰を落とす。四恩がそうしたならば、奥崎は地面に腹臥位になる。ならざるをえない。極単純な護身術。とはいえ、高度身体拡張者が実行すれば、その護身は敵の死をすら導くことができる。膝で彼の背中を刺し、地面に押さえ込む。

「もう、一つ――ある」と今度は四恩が囁く。

「教えて」と奥崎が地面に小さな土埃を作りながら言う。

「奥崎くんを、大人たちの所へ、連れて行く――」

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