第300話 戦へと続く坂道。俺達が宿命に臨むこと。
今宵、ついにジューダムとの戦の幕が切って落とされる。
決戦の地、エズワースから首都サン・ツイードに及んで、防衛のために特別な障壁が張り巡らされた。
この魔法陣は計算上、ジューダムの主力たる魔人5体からの攻撃にも耐えうる仕様となっている。基本的な「相殺障壁」に俺の扉の力を応用し、グレンが編み出したものだ。
広大な戦場の気脈を綿密に調査し、最も効率の良い循環系を構築する。
本来であれば何年もかかるはずのその作業を、彼は俺の力を最大限に生かし、一週間という信じがたい程の短期間で成し遂げた。
俺自身にはまるで読み解けない力場の景色も、サンラインの有能な魔術師達の手に掛かれば、あたかもあやとりでも遊ぶかのようにスルスルと編み上げられてしまうのだから面白い。
俺はサンラインの魔術師達の手腕を文字通り肌で感じながら、改めて魔術大国サンラインの層の厚さを思い知った。
ジューダム王が一旦身を引いたのは、俺達にとって幸いだった。
彼らが態勢を整える間に、こちらの用意もまたかなり万全なものとなった。
最新の相殺障壁に、スレーン人の竜、さらにはサンライン各地から招集されてきた優秀な魔術師達。戦慣れない新兵や学生魔術師達の訓練さえどうにか行えた。
もちろん、「謁見」を経た蒼の主も相当な戦力となるはず。
リーザロットは、以前にも増して充実した魔力を纏うようになった。
もし今の彼女をツーちゃんが見たなら、もう決して「弱い娘だ」なんて言いやしないだろう。
彼女は本当に強くなった。寂しさも悲しみも吹き飛ばされるくらい、爽やかに、鮮やかに、蒼玉色は輝いている。
騎士団と自警団が総力を挙げて取り掛かった市民の避難も、大方は済んだ。
少なくとも、その余力がある家族は皆、最小限の荷物だけを持って地方へと移動した。
異邦人が中心の、行く当てのないエズワースの民を説得するのは困難を極めたが、他でもないリーザロット本人が昔の伝手や今の権力を大いに使って、多くの人々を動かした。
その他、補償やら権利やらの関係で絶対に立ち退こうとしない面倒な貴族や商人達は、タリスカと霊ノ宮の宮司がどうにかした。
「どうにかした」とは言うものの、別に二人が特別何かしたというわけではない。ただ、どんな警備もあっさりすり抜ける、黒い影が夜毎枕元に立っている「気がする」というだけで、彼らは自ずから尻尾を巻いて逃げ出していった。
そんなに死にたいなら勝手に死なせればよかったんだという見方もあるにはあるのだが、作戦行動に当たって結構邪魔なのと、何より付き合わされる使用人達が哀れだということで、仕方なく手を打ったのだった。
一方、紅の主の陣営…………戦の総指揮を執るヴェルグとその配下達は、主に海岸線から港にかけてを取り仕切っていた。
「相殺障壁」の敷設には表面上、一定の理解を示していたが、腹の底では何を考えているのかわかったものではない。
俺には、どうにも彼女が何か別の目的のために動いているのではないかと思えてならなかった。
ヴェルグは、人を人と思わない。
己の目的のためなら、まるで虫でも踏み潰すみたいに(というより、マジでそこに違いなんて無いのだろう)あっさりと、殺す。
一人も大勢もお構いなしに、少しの良心の呵責もなくだ。
当人が人間ではないのだから、ある意味当然なのかもだが、不気味なのはそんなヴェルグの目的が、未だに不明だということだ。
権力のため?
…………いや、そんなちっぽけなことに、あそこまでの力の持ち主がこだわるわけがない。
真の「勇者」こと、あーちゃんにまつわる動きが見られないのも相当不審である。
常に護衛役のグラーゼイが目を光らせているとはいえ、猫の足跡の一つも見つからないのはかえって恐ろしかった。
…………一つ考えられるのは、奉告祭の時、紡ノ宮で呪われ竜に襲撃された時のこと。
あの時ヴェルグは、呪術の力場の中で「母なるもの」に執着していた。
そしてジューダムと手を組んでいる「太母の護手」達もまた、同じ存在を崇拝している。
この繋がりが、彼女の狙いに絡んでいるのかもしれない。
「母なるもの」…………またの名を、「赦しの主」。
「裁きの主」と対比される古い神様だと言うが…………ヴェルグやツーちゃんは、一体それの何を知っているのだろう?
ツーちゃんは、本当の自分は魔海の奥底にある「塔」に閉じ込められていると話していた。
ヴェルグとツーちゃんの特別な共力場だとかいう「塔」。俺がいつも会っていた彼女はそこに捕らえられている本体のほんの一欠片に過ぎず、本来の彼女の力はもっとずっと強いものだそうだが…………。
ともかくも、テッサロスタへの遠征の途中、襲ってきたジューダムの魔人の最後の足搔きを止めるために、ツーちゃんはその一欠片を犠牲にした。
「塔」に行かねば、恐らくもう二度と彼女には会えないだろう。
ヴェルグとはいずれ対決しなければならない。
ツーちゃんを解放するためには、それしかない。
そしてそれは同時に、ヴェルグの野望を…………どうせロクでもない夢を…………止めるためでもある。
ヴェルグが最後まで味方でいるとは思えない。
フレイアと俺に宿る「邪の芽」と同じように、一歩扱いを間違えれば、こちらが飲み込まれてしまう危険な相手だ。
この戦の最中も、警戒は解けない。
軽食を取った後に(最後になるかもしれない昼食はローストマヌーのサンドイッチだったが、あまり味は覚えていない)、俺達はエズワースへと向かう馬車に乗り込んだ。
まだ日は高かったけれど、館でじっとしてはいられない。
同じ馬車の中にはフレイアとリーザロット、あーちゃん、グラーゼイ、それにヤガミが乗っていた。
食欲と同様に、口数は少なかった。
豊かな日差しと柔らかな風の中、異様に静まり返った街がまるで蜃気楼のようにぼうっと立ち尽くしている。
洗濯物の影は、当然ながら今日はどこにも見られなかった。
閉じられたたくさんの窓と、俺達の乗る馬車だけが、寂しく日を浴びている。
街中に描き込まれた魔法陣は、どれも「相殺障壁」の支柱の役割を担っていた。
パステルカラーの壁や屋根に不躾に塗りたくられたそれらは、緻密で美しくありながらも、どこかガード下の落書きじみた素っ気ない空しさを漂わせていた。
あーちゃんが目をぱっちりと見開いて、街を物珍しげに眺めている。
窓際は危険だからとグラーゼイに席を変えられた彼女は、仕方なくグラーゼイ越しに覗き込むようにして流れていく景色を見ていた。
グラーゼイは大きな身体をぎこちなく縮込めて、なるべく広くスペースを空けている。
何だか、遠足に行く子供と引率の先生みたいだった。
フレイアもまた、グラーゼイと同じ理由で俺の隣のドア側の席に座っていた。
先日の「謁見」で負った傷を手当てしてもらった時に、久しぶりに二人でゆっくり過ごせたのだが、もう大分彼女の気持ちは落ち着いてきたようだった。
約束通り俺が「依代」とならなかったことで、ようやく安心してくれたらしい。
それとなく俺を見守っている彼女に目を向け、どんな反応が返ってくるか見てみる。
フレイアはわずかに首を傾げ、俺をじっと注視した。
「何でしょう?」
とは聞かないつもりのようだ。
察してみせるという気概なのか、彼女もまた緊張しているのか。
俺はちょっとだけ微笑んで、また目を逸らした。
…………どうか彼女に恵みがありますように。
斜向かいには、リーザロットが座っていた。
街と同じように静かにしているが、その横顔には凛とした固い覚悟が宿っている。
彼女の心が厳かに魔海に浸っていくのを、誰も邪魔しなかった。
これから行おうとしている非道な作戦に、彼女は間違いなく胸を痛めていることだろう。
けれど、迷っていればいるだけ、犠牲は増える。
住民の避難は想定を遥かに上回ってうまくいったが、それでも全ての住民が街を出られたわけではない。
病人や怪我人がいたりして、長旅には耐えられない人々がまだまだ残っている。
彼女の故郷エズワースでは、それよりもっと大勢の人が留まっている。
言葉が通じなかったり、路銀を全く持っていなかったり…………彼らはサン・ツイードの人々程自由ではない。
…………残酷な作戦。
俺達は、これからナタリーを攻撃する。
ジューダム王をおびき出すために、彼女と彼女の魂獣であるレヴィを、俺達の手で危機に陥れるのだ。
ジューダム王はナタリー達の力を利用したがっている。加えて、何か複雑な感情を抱いてもいるらしい。
その彼女達が危険に晒されれば、彼は黙ってはいられない。
ジューダム王の肉体であるヤガミの力場を通して、俺がレヴィとナタリーへ続く道を開き、彼女達を先に始末してしまうかに見せかける。
そうして王個人の魔力…………あの
ナタリーのことを思えば、最低以外の何物でもない作戦だ。
実の所、発案したヤガミ自身が誰よりも嫌悪しているに違いない。
フレイアとは逆側の俺の隣、頬杖をついて窓の外を眺め続ける冷たい横顔に、俺は声をかけた。
「…………ヤガミ、平気か?」
ヤガミは無表情で「ああ」と答える。
結局どうやったかはあえて聞くまいが、彼もクラウスも、もうすっかり身体の傷は癒えていた。
だから、俺が尋ねているのは、軟膏じゃどうしようもない気分の方。
栗色の髪の下、灰青色の瞳は霧のように淡く広がっていた。
「…………ヤガミ」
「…………何だ?」
「この戦が終わったら、一緒に何か食いに行こうぜ。オースタンで」
「…………。…………死ぬつもりか?」
「馬鹿言え。…………ラーメンとかどうだ?」
「…………。…………豚骨がいい」
馬車は緩やかに海沿いへと繋がるカーブを下っていく。
差し込んできた眩しい日差しに、ヤガミが目を細める。
フレイアがウズウズした様子で、それでもまだ何も尋ねずに頑張っていた。
きっと、「ラーメン」が何か気になるのだろう。
何もかもが無事に済んだら、彼女も一緒に連れていってあげよう。
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