第284話 いくつもの眼差しの下で。彼女が過ごす路地裏のこと。

 自警団の話で、客の正体がわかった。

 彼らは「太母の護手」の信徒であった。


「あぁ嫌だ嫌だ! あの根暗軍団、やっぱり他所の国からわざわざ集まってきてたのかい! しかも人なんか殺して! 全くおっぞましいヤツらだねえ!」


 店に帰るなり、女将のニッカが大きな体を大袈裟に震わせて毒づいた。


 少女も彼らの噂は聞き及んでいた。

 「裁きの主」ではなく、「赦しの主」(信徒は「太母」と呼んでいる)を信仰する異邦人を中心とした集団。花姫亭のある地域には、もともと異邦人が多く信徒が集まってきやすい。

 度々問題になることはあったが、殺人にまで及んだのは初めてのことだった。


「でも、なんでまたあんなことを? こうやってすぐに問題になることはわかりきっていたでしょうに」


 アカシの問いに、女将は小声で答えた。


「だから異邦人ってのは怖いのさ! 連中に私らが何に見えてるか、わかったもんじゃないんだからね! アイツからしたら、通りがけにうっかり虫でも潰しちゃったってだけの話なのかもしれない」

「でも、そしたら虫の店に来たいと思いますか? ちゃんとお代まで払って」

「変態なんだよ! 変態ってのは底が知れないんだ、どこの世界のヤツだって!」


 納得がいかない様子のアカシに、少女は話しかけた。


「自警団の方々、いつもよりとても真剣な様子でしたね。お客様は他にも何かなさったのでしょうか?」


 アカシは痩せた白い腕を組み、薄茶けた瞳を少女へ向けた。


「何よりお酒の匂いがしませんでしたからね。彼らがしらふなのなんて、年に一度、ツイード家の視察団が来る時ぐらいですのに」

「やっぱり、誰かに言われて調べに来たということなんでしょうか?」

「そうね。それも恐らく、騎士団よりももっと上の人に…………」

「もっと上の?」


 首を傾げる少女に、アカシは肩をすくめて見せる。

 彼女は答えぬまま、女将に話を振った。


「…………ニッカ。「蒼の主」の噂、ご存じですよね?」


 「蒼の主」。

 少女はその言葉を耳にすると、何か胸がゾッとする。

 少女を見守る「主」の眼差しが、スーッと冷たく滑り広がって世界の全てを蒼く覆う。怖くなるのだ。訳もなく、不気味な緊張が心をざわつかせる。

 無視しよう、気のせいだと常に自分に言い聞かせてはいるのだが、それでも好んで話題にしたくはない。


 女将はアカシに、また一段と声を潜めて言った。


「聞いてるよ。「太母」の連中が騒いでいることも、お貴族様方がコソコソ囁き合ってることもね」

「もしかしたら、あのお客様達も白羽の矢のことをどこかで聞いて…………それで、ここに…………」

「アカシ、そこまでだ。冗談になってない。関わらないためには、口にしないのが一番さ」


 白羽の矢?

 三寵姫を選ぶという、「主」の意思を宿した矢の名だ。

 それがどうして話に出てくるのだろう?


 女将が少女に目配せし、口をへの字に思い切りよく曲げる。「教えない」。そういう合図。

 アカシは組んでいた腕を解き、息を吐いた。


「そうですね。あんまり余計な事を言って、万が一裁きなぞ下されても面白くありません。

 もう考えるのはよしましょう。…………これだけの騒ぎになった以上、あのお客様方ももう戻っては来ないでしょうし」

「だね」


 女将とアカシが話を切り上げ、慣れた様子で夕の仕事の支度へと話題を切り替える。

 少女は口を挟む隙も無く、戻って妹役の娘達と仕事をするよう言いつけられた。

 大人というのはどうしてこうも器用なものなのか。



 夕の客は、馴染みの客ばかりであった。

 何に変化するでもない、ごくごく普通の人々。獣変化した顔さえ、人間味に溢れて見えた。


 平凡な力場に緩やかに波立つ魔術。

 そこそこに食べて飲み、気に入った娘達をほどほどに相手して、フラフラと風に吹かれながら、白っぽい月明かりの下をゆっくり帰っていく。

 普段であればやや迷惑な大声も身体へのいたずらも、今日はつくづくのどかなものだと少女には思えた。


 人目を忍んでやってくる貴族の手の込んだ魔術さえ、子供のじゃれつきとしか思えなかった。

 羽目の外れた欲望も、そこにぶちまけられるコップ一杯分の悪意も、邪悪には程遠い。

 呆れ果てた手癖の悪さすら、せいぜい鍋の中で煮え滾るシチュー程度の狂暴さしか持ちえなかった。


 汚れた床も、シーツも、ドレスも、まっさらにとまではいかないまでも、洗えば十分に落とせる。

 路地裏の平和な夜は、静かに更けていった。



 少女は仕事の後始末を終えて、二階の寝室へと戻ってきた。

 先に帰ってきていた妹役の娘達が、会話しながら身だしなみを整えている。輪の中へ入ってしばらく話し、やがて皆で床に就いた。

 疲れ切った娘達は、恋に落ちるようにスルリと眠りに溶けていく。


 暗い部屋の中、未だ眠らぬ少女は鏡から寄せられる焦げ茶色の眼差しに微笑みかけ、黙って枕に頭を横たえていた。


 優しい思いを抱かれている。

 嬉しくてこそばゆい。

 眠ってしまうのが勿体無かった。


 頭上の小さな窓から宝石のような月明かりが差している。

 「主」が近くにいると、確かに感じた。


「…………どうか、明日も恵みの雨のしとやかに降りますよう…………」


 祈りを捧げて、鏡に近寄っていく。

 少女は声無き者に向かって、心中で語りかけた。


 …………貴方に会いたい――――――――…………。




 ――――――――…………リーザロットの声がする。


 鏡を通して見つめてくる蒼玉色の瞳の美しさを、俺はもう何に例えていいかわからない。

 彼女は優しく、星が瞬くみたいにさりげなく、話した。




 ――――――――…………以前に会ったことが、きっとあるのでしょうね。

 私の小さな心は覚えていないけれど、ご主人様の眼差しはそうだよと、頷いてくださっています。


 ねえ、茶色い瞳の、お兄様。

 聞こえていますでしょうか?


 どうか今少し、一緒にこの夜を過ごさせてください――――――――…………。




 ――――――――…………鏡面に当てられた少女の手のひらに、そっと手のひらを重ねる。


 君が望むなら、いつだって会える。

 俺はここにいる。


 俺も、君が知りたいよ。

 君の世界を開く、扉になりたい。




 ――――――――…………誰とどれだけ触れ合っても、こんな気持ちにはならないのに。

 鈴を転がしたみたいに胸が震えている。


 …………ありがとう、お兄様。


 あぁ、何だか貴方のことをちょっとだけ思い出せそう…………。

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