第257話 遠い記憶と「白竜」探し。俺が神罰を食らうこと。

 ――――――――…………。


 アオイの声は長い階段を転がっていく鞠のように、柔らかく、軽やかに弾んで響いた。


 鞠の中で小さな鈴が2つ、コロン、コロンと跳ねている。


 段々と鈴の音が遠退いていく…………。


 俺は誘われるままに、鈴の音を追った――――――――…………。




 ――――…………気付けば俺は、実家の裏手のあの神社に立っていた。


 古びた石階段には青葉の影がたっぷりと掛かっており、吹き抜ける風には土と緑の湿っぽい匂いが染み込んでいた。

 蝉の声が騒がしい。

 おぼろげだった身体の感覚が、いつの間にかすっかり戻ってきていた。


 俺は自分のか細い手足を見下ろし、懐かしさに胸を打たれた。

 すっかり黒く日に焼けた肌。プールの塩素の匂いが残っている。

 治りかけのかさぶたと、真新しい擦り傷が同居する膝小僧。

 薄汚れた短パン。

 小さな緑色のスニーカー。

 世界の何もかもがザァザァと騒いでいるような、目まぐるしい感覚。



「――――コウ!」



 呼ばれて俺は階段の上を仰いだ。

 見上げた先の懐かしいサメ柄のTシャツに、思わず笑いがこみ上げてくる。

 日に当たるとすぐ赤くなる肌。プールのせいで余計に色素の抜けた栗色の髪。

 俺と同じ、絆創膏だらけの手足。

 使いこまれて元の色がわからなくなった小豆色のサンダル。

 もうすっかり忘れたと思っていた。どこかにしまったきりだった記憶が、どうしてこんな風に戻ってくるんだろう?

 偉そうに腰に手を当てて立っているヤガミが、言葉を継いだ。


「おい、何ニヤニヤ笑ってんだよ? さっさと行くぞ! …………ったく、変なシャツ着やがって」


 あれは…………俺の記憶の中のアイツだろうか?

 それとも、今、俺の背中に乗っているヤガミか?

 見つめてみても、当たり前ながら全く見分けがつかない。


 ともかくも、なんのこっちゃと自分のTシャツを見下ろしてみると、キモいおっさんの顔をした馬のイラストがでかでかと描かれていた。

 え? 何これ?


「お前、そのTシャツやけに好きだったよな。俺、未だに軽くトラウマなんだが」


 ヤガミが大人びた所作で肩を竦める。

 どうやら肉体のヤガミの方らしい。

 俺は口を尖らせ、階段を昇っていった。


「いやこれは何かの間違いだろう! 俺、絶対こんな変なTシャツ持ってなかった! こんなのさすがに忘れないって」

「いいや着てた! 間違いない。今でもたまに夢に見るんだ」

「しっかりトラウマじゃねぇか。…………でも、そんなにお前が覚えているんだとしたら、もしかしたらこれも、あーちゃんが作った世界との誤差の一つかもな。元の世界の俺は、こんなの絶対着てなかった!」

「どうだかな」

「言うけど、お前のも結構なインパクトだぞ。B級サメ映画」

「これはイケてる」


 言い合いながら、ようやく一番上まで昇りきる。

 俺達は揃って神社の前に立った。


「それで…………どうする?」


 ヤガミがこちらを振り返る。

 俺はキュッと眉間を絞って返した。


「そりゃあもちろん、白竜を呼ぶんだ」

「どうやって?」

「わからん。そもそもこの状況、どうなってるんだ?」

「俺に聞くのか?」

「他に誰が?」


 淀みなく言うと、ヤガミが溜息まじりに頭を捻った。

 なんと俺の無茶振りに答えてくれるつもりらしい。


「…………昨晩、蒼姫様から聞いた話なんだが」


 ヤガミは辺りを探るように見回し、続けた。


「アオイの召喚魔術は、いくつかの媒介を通して行われるものらしい。今回もいくつかのフィルターを通すことによって、お前が白竜を召喚しやすいよう形を整えてくれているそうだ」

「フィルター?」


 繰り返しつつ、ヤガミの後について歩き出す。

 何を探しているのだろうか。

 ヤガミは子供の手足で易々と藪へ分け入りながら、話していった。濃い土と緑の匂いにむせ返る。蚊がふらふらと首筋に寄ってきたのでピシャリと叩いた。真っ赤な血が手のひらに残る。

 ヤガミはずんずんと進んでいった。


「最初のフィルターはアオイ自身。彼女がスレーンの力場を抽出して、俺達へ伝える。次のフィルターが蒼姫様。彼女がアオイの汲んだ力場から、俺達に馴染みのあるオースタン風の力場を織り上げる」

「え!? リズも協力してんの!? それってさすがにバレたら…………」

「だから、おくびにも出さなかったろう。アオイはあくまで単独でやりたがったらしいが、やはり術の安定化のためにはもう一人魔術師が必要だった。

 まぁ、ロクに里から出たこともない箱入りお嬢様に、異世界オースタンのことなんかわかるわけないもんな」

「でも、それはリズも同じじゃ…………」


 三寵姫はサンラインを離れることができない。

 時折霊体の欠片を異世界へ送ることはあっても、彼女が直接にオースタンを見たことはないはずだ。


 ヤガミは藪を抜け、街を見渡せる崖の上まで出た。今は崩れて、立ち入り禁止になっている場所だ。

 見下ろす街は今よりもずっとだだっ広くて何も無く、閑散としていた。遥々広がる山景色はスレーン程壮大でなくとも、長閑で美しい。

 線路沿いに建築中のショッピングモールが見えた。今はまた別の巨大モールに取って代わられているけれど、あれも懐かしい。開店当日、母さんと赤ちゃんだったあーちゃんと一緒に車で行った。


 ヤガミはしみじみと景色を眺め、話し継いだ。


「そして、最後が俺」

「…………お前?」

「オースタンの力場をもっと具現化するために、俺が加わった」

「つまりこれは、お前の記憶の中の景色なのか?」

「一概にそうとは言えない。コウと共力場を編む過程で、互いの記憶が混じっている」

「つまり俺のTシャツはお前の妄想か」

「それは絶対に着てた」

「いや、わかんないだろう。そこは」


 ヤガミは再び溜息を吐き(「着てた」とボヤいた気がしたが)、こちらを振り返って言った。


「まぁ、そんなことはクソどうでもいい。今お前がやるべきことは、この世界から白竜の痕跡を探し出し、呼び出すことだ。もちろん俺も手伝えることは手伝うが、結局はお前が見出さなくちゃどうにもならない」


 頼むぜ、とヤガミが真面目な顔で言い加える。

 俺は項垂れ、「ああ」と呟いた。


「わかったよ。けど、どうしたらいいのか全然わかんねぇよ…………。俺達、何でこんな姿なんだ? どうしてこの神社なんだ?」

「それは俺にもわからない。俺は蒼姫様が導くのに従って、故郷の姿を思い浮かべただけだ。後はお前がやるからと、それだけ聞こえたよ」

「出た。サンライン名物、丸投げ」


 俺は肩を落とし、ヤガミに倣って街を眺めた。

 つまらなくも愛しき、我が故郷。

 魔術の「ま」の字も見つかる気がしない。

 動いているものは高速道路上の車の他には空を旋回する鳶しかいない。

 ヤガミが俺の隣で、目を凝らしていた。


「そんなわけで、とりあえず見晴らしの良い場所まで出てみたんだが…………どうだ? ピンとこないか?」

「…………うん」

「じゃあ、やっぱり神社の方に戻るか。中に何か隠されているってのも、いかにもありそうな話だ」

「ああ。むしろ、最初にそっちを調べるべきだったんじゃ?」

「うるせぇなぁ。魔術師はお前だろう」

「だって、お前が先にずんずん行くから」


 ヤガミについて、来た道をカサコソと戻る。

 俺は目の前に寄ってきた蚊を追い払い、愚痴った。


「っつーか、蚊、多過ぎない? 蒸し暑いし」

「何か意味あると思うか?」

「さぁなぁ。…………あっ、クソッ!」


 俺は足首についた蚊を叩こうとし、仕損じて悪態づいた。



 神社は、見た限りでは何の変哲もなかった。


「しっかり鍵掛かってるしな。壊すか?」


 ヤガミが行儀悪く縁側にあがり、お社の中を覗き込む。

 こうしていると、いつ神主の爺さんが飛んできて怒鳴られやしないかと不安になるのだが、不思議なくらい辺りに人の気配は無かった。


「いけそうか?」


 下から尋ねると、ヤガミが芳しくない面持ちで振り返った。


「その辺の石か何か使えばガラスを叩き割ることはできる。ただ、やっぱり鍵がネックだな。内側に馬鹿でかい南京錠が見える。侵入は難しそうだ」


 身のこなし軽く、ヤガミが縁側から飛び降りてくる。

 自分で尋ねといてあれだが、コイツには罰当たりという感覚はないのだろうか。


「…………どうする?」


 ヤガミが肩を竦める。

 俺は腕を組み、唸った。


 さて、どうしたものか。

 このままじゃ一向に埒が明かない予感はある。

 誰かを探しに行くべきか?

 否、この世界に人はいない。何となく、わかる。

 この世界の時間は限りなく止まっている。車や風や動物は動いているが、どこか録画された映像の中をさまよっているみたいな空しさが拭えなかった。


 ヤガミがあれは? これは? と色々気を回してくれるが、どれも引っかからなくて申し訳ない。

 虫刺されの痒みや滲んでくる汗のリアリティとは裏腹に、時が経てば経つほど辺りの景色に虚無感が募っていく。


 ここは間違いなく、切り抜かれた世界だ。きっと境界無く世界はどこまでも続いているのだろうが、いくら歩いてもビデオの中からは抜け出せまい。

 俺は途方に暮れていた。


 ヤガミはまるで本当の子供に戻ったみたいに、森の中をウロチョロしていた。

 何となく楽しそうだから見守っているが、俺自身はあんまり動き回る気になれなかった。

 畜生、こんなことしている場合じゃないのに。


 石段に腰掛け、何とはなしに空へと視線を伸ばしてみる。

 山から溢れたみたいに、白い入道雲がこんもりと湧き上がっていた。

 ちょっと見なら巨大な竜に見えなくもないが、やはりピンとはこない。


 …………白竜。

 白子の神様。


 カラスか鳶か、鳥が雲を横切っていく。

 そう言えば昔、ここらで白いカラスを見掛けたって噂があったけれど。


「アルビノか…………」


 ダメ元で探してみようぜとヤガミは言っていたが、そう簡単に見つかるとは思えなかった。

 それでも、何もしないよりかはマシなのか…………。

 重い腰を上げようとしたその時、またもや足首に気配を感じた。


「ああもう、鬱陶しい!」


 叩き付けようと手を振り被って、俺は目を見張った。

 …………蚊じゃない。


 蛇だ。


 真っ白い蛇が、スルスルと俺の足を這い上ってきていた。


「うっ、うわぁぁぁっ!!!」


 のけぞった拍子にバランスを崩し、危うく階段から転げ落ちそうになる。

 どうにか階段の上へしがみついたが、その時にはもう蛇は俺の腹ぐらいまで進んできていた。


「やっ、ヤガミ!! へっ、蛇! へへへ蛇が出た!!!」


 叫ぶと、ヤガミが駆け寄ってきた。


 蛇はチロチロと舌を揺らしながら、俺を品定めするかの如く鎌首をもたげる。

 ヤガミは「おー」と呑気に目を瞬かせた。


「いーじゃん。いかにも当たりっぽいじゃん! ご神体だっけ?」

「ど、どかしてくれ! か、噛まれる!」

「アオダイショウだな。可愛いぜ」

「馬鹿! 言ってる場合か!」


 怒鳴りつけられたヤガミが渋々、近くから拾ってきた枝に白蛇を絡ませる。俺は立ち上がり、樹上に戻された蛇を睨んだ。


「何なんだコイツ!?」

「アオダイショウ」

「ちがっ…………いや、そうだけど、そういうことじゃない! いきなり足下にいたんだ!」

「そういうもんだろうが。何をそんなにビビッてんだよ? 師匠の火蛇だって似たようなものだ」

「いや、あれはフレイアの分身みたいなもんでさ…………」


 蛇は臆する様子もなく、じっと俺達を見下ろしていた。

 奇妙なことに、一切目を逸らさない。

 俺はしばらくそのままでいて、ようやく腑に落ちた。


「本当に…………これが「白竜」?」


 ヤガミはしげしげと蛇を見つめたまま、腕を組んで黙っている。そうに決まっていると、彼の中ではもう決定しているらしい。

 意を決して俺が手を伸ばすと、白蛇はスルリと枝を離れて俺の腕へ降りてきた。


 蛇は真っ直ぐに俺へと向かってくる。

 辺りの景色が俄かに陰って、湿った風が強く吹き始めた。

 ちんまりと丸い、真っ赤な目が迫ってくる。


 こんなに簡単でいいのだろうか?

 むしろ、向こうから寄ってきた勢いだ。


 一際強い風が森を揺らす。

 森は不気味に騒ぎ、 空はいつの間にかすっかり灰色に覆われていた。

 稲妻が一条、空を走る。

 程無くして、凄まじい雷鳴が轟いた。


 たちまち激しい雨が降り始める。

 ヤガミが何か叫んだが、その時には俺はもう完全に「白竜」の瞳に飲み込まれていた。


 ああ、意識が赤く染まる。

 今になって気付く。

 蛇は雨を浴び、小鹿をも簡単に丸飲みできそうな程に大きく、太く、様変わりしていた。



「コウ!!!」



 雨に濡れた白蛇の鱗がぬめっている。

 腕が、首が、背骨が、固くきつく締め付けられる。

 真っ赤になって遠退いていく意識の中、あんぐりと大きく開かれた蛇の口の中を埋める、果てしない黒い肉の襞だけが目に映った。

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