第249話 これが竜の見る世界。俺が初めての翼で舞い上がること。
タリスカに連れられて、俺達は大きく開けた岩場に出た。
見渡す限り何もない、いかにも訓練に適した平原である。目を凝らすと、地面にはたくさんの足跡や抉れた痕が付いていた。
どうやら最近、誰かが派手に暴れたらしい。
「スレーンの兵士の教練場だ。操竜の訓練にも適している」
タリスカが腕を組んで言う。
ヤガミはどことなく憂鬱そうに目を細め、教練場を眺めていた。
「…………どうせここだと思いましたけどね」
俺は首を下へ伸ばし、ヤガミに尋ねた。
「知っているのか?」
「うわっ、ビックリした。その顔で急に喋るな、心臓に悪い」
「ごめんな。とっとと慣れろ。…………前にも来たことあるのか?」
「あるさ、そりゃあ…………」
腰に手を当てて小さく溜息を吐くヤガミに、フレイアが話しかけた。
「ヤガミ様、今晩の剣のお稽古は操竜の練習の後にいたしましょう。…………コウ様は、ここは初めてでしたよね」
フレイアが俺を見上げる。いつもより声が柔らかいのは、恐らく俺の身を憐れんでのことに違いない。まるで幼い子供に語りかけているみたいだ。
俺は「グゥ」と鳴いて頷き、まだ知性が残っていることを証明すべく言葉を続けた。
「いつもここで修業してたんだね。じゃあ、この辺りの岩の砕けているのとかは…………」
「俺が転げ回った跡だ。竜から叩き落された跡が、これから加わる」
ヤガミがまた息を吐く。
俺は竜なりに肩を竦め、一応慰めた。
「なるべく落とさないようにするよ」
「ありがとよ。だがコウがそのつもりでも、タリスカさんは…………」
ヤガミがジトッと骸の騎士を見やる。
俺の知らない間に随分と仲良くなったみたいで、もうすっかり疑念と不信(あと、塩一つまみぶんの尊敬)の目つきが板についてきている。
タリスカは早速、俺達に命じた。
「勇者に乗れ、一片。…………フレイア、命綱の装着を手伝いなさい」
「はい」
鞍とハーネスは、ここへ来る途中ですでに括りつけられていた。
何だかゴソゴソとして動きづらくはあるのだが、傍から見る程窮屈な感じはしなかった。人だった時にはやたら重そうに見えた鞍も、竜になってみると軽いものだ。
今の俺は、力に満ちていた。心臓から血が巡るように、喉の奥…………逆鱗の位置から、滾々と力が漲ってくる。
見えるもの。聴こえるもの。香ってくるもの。
人であった時とは比べ物にならないぐらい色彩豊かな世界が、俺を取り巻いてうねっていた。
果てなく限りない彩りに、心が眩んでしまう。
最早言葉を忘れるのなんて些細なことなのではと怖くなる。
ヤガミが俺に呼びかけつつ、背に跨った。
「じゃあ…………乗るぜ、コウ」
「ガゥ」
無意識にこぼれ出る竜語に、改めて緊張感を走らせる。
マズい。これは油断すると、本当に人間を卒業してしまいそう。
成人男性が乗ると、さすがに少し重量を感じたが、まだまだ動けなくなるには程遠い。力は有り余っていた。鞍のおかげで、ヤガミの身動きが気にならない。
俺はなるべく人の意識を保つために、会話のネタを探した。
「ねぇ、タリスカ」
「何だ?」
「いきなり人を乗せて飛んで大丈夫かな? まずは俺だけで飛べるかどうか、確かめてみた方がいいんじゃない?」
俺の問いを、タリスカはバッサリと切り捨てた。
「不要だ。竜は本能にて飛ぶ」
「えぇ? でも俺、実際には竜じゃないし…………」
「食事や睡眠に訓練の必要があるか?」
「いや、ない、けど…………」
「同様だ。竜の仔には、飛び方は自明だ」
「だから俺は人間だってば!」…………と、言ってやりたいが、言葉が詰まって出てこない。そもそもこれ以上駄々をこねたところで、彼は絶対に聞く耳を持たないだろう。それこそ自明であった。
ヤガミにハーネスを取り付け終えたフレイアが向き直って言った。
「お師匠様、終わりました」
「抜かりはないか?」
「縄が擦れてコウ様のお身体に傷がつきませぬよう、いつもより念入りに締め上げました」
「…………一片、問題は無いか?」
「何が問題かすらわかりませんが、とりあえずきついです」
「身体を動かしてみよ」
「こうですか?」
ヤガミがぐいぐいと身体を捻り、腕を振り回す。バランスを取るために足を細かに動かすのが、どうにもくすぐったい。
堪らず少し身動きすると、ヤガミは驚いて手綱を強く引いた。
「…………グェッ」
「コウ様!」
「悪い! 大丈夫か?」
寄ってきたフレイアが俺の顔を覗き込み、はみの様子を確認する。俺は「平気だよ」と彼女に告げ、ヤガミを仰いだ。
「大丈夫。なんかビックリしただけ。結構敏感に伝わってくるんだ」
「わかった。そしたらもう余計には弄らない。お前に任せる」
こういう時、乗っているのがコイツで良かったと思う。
要領のいいヤツだから、きっと余計に苦労させられることはないはずだ。恐らくタリスカも彼の人並外れた飲み込みの良さを見込めばこそ、修行を引き受けたのだろう。
ただ一人、フレイアだけが気難しい表情でヤガミを仰いでいた。
「…………ヤガミ様、竜はとても繊細な生き物です。くれぐれもお気をつけください」
「OK、了解です。…………でもまぁ、コウでしょう? コウは柔いが、タフですよ。貴女がそれ程心配しなくても、必ずどうにかしますよ」
「ブッフゥ」
心外な気持ちと誇らしい気持ちを共に込めて、鼻息を吹く。
フレイアは真一文字に口を結び、タリスカを振り返った。
「お師匠様、本当に…………大丈夫なのでしょうか?」
「問題無い。修行に集中しなさい」
「…………はい」
しょんぼりとフレイアが首を垂れる。
ごめんね、心配してくれてありがとうと伝えたかったが、タリスカはその暇すら与えず、すぐに命じた。
「勇者、ここからあの山まで飛べ。無事に帰還したならば、次の段階に入る」
…………無事に?
多分、俺とヤガミは全く同じ目をしていただろう。
タリスカは微動だにせず、ただ
「行け」
と彼方の地平線を指差した。
――――…………飛び立つ感覚を、どう説いたらいいのか。
眠りに落ちるとはどういう所作か、説明できないのと似ていた。
助走を始めたら、自ずと翼が大きく広がった。
翼に風を受けた途端に、喉の奥から物凄い勢いで力が溢れ出してきて、それまで自分の身体の内にあった感覚が、吸い込まれるように世界へ放散していった。
――――…………溶ける。
そう言うのが、一番だ。
世界がまるごと一陣の透明な風になって踊っていた。
その中で翼を打つと…………風を思いきり切ると、痺れるように快感が走った。
俺は夢中で羽ばたき、高く高く昇った。走り方を覚えたばかりの子供、そのものとなって。
初めて直接魂でぶつかる空に、俺は堪らず叫んでいた。
「グゥオォォォォォ――――――――――――ッッッ!!!」
ビリビリと震える風が、さらに彩り豊かに舞い踊る。
聞こえる。
見える。
感じる。
何もかもが、鮮やかであることをすら超えて美しく、澄み渡って流れていく。
気持ちが良い。
俺は風の渦へ飛び込むようにして、ぐんぐん速度を上げていった。
今なら月までだって届く――――…………!
さらに翼を広げようとした、その時。
ヤガミの大きな声が、膨れ上がっていく世界の風船をぶち割った。
「――――――――――――………コウ、速過ぎる!!! 殺す気か!!!」
怒鳴られて、俺は思わず身体を強張らせた。
乗り過ぎたスピードに今更ビビッて翼を大きくのけぞらせたその刹那、風がたちまち身体から剥がれ落ちた。
「ッ! 馬鹿!!! いきなりそんなことしたら!!!」
急に速度を失った身体が、真っ逆さまに引っ繰り返って落ちていく。さっきまでが嘘のように身体が重たい。激しいスピンの中、俺はすっかり人間の意識に飲み込まれていた。
「うわあぁぁぁぁぁぁ――――――――――――っっっ!!!!!」
2人分の絶叫が暗い渓谷にこだまする。
みるみる地面が近付いてくる。
どうすればいいのかわからない…………!!
わからない…………わからない!!!
ぶつかる…………っ!
と、急にヤガミの手が強引に俺の頭を真下へ押し下げた。
地面がさらなる速度で近付いてくる。
真っ黒な山肌の圧力に、恐怖が爆発した。
「ぅあああぁぁぁぁぁあぁぁ――――――――――――っっっ!!!!!」
あまりの恐怖に暴れかけたその拍子に、ヤガミが素早く体重を片側へ移し、捩じれていた翼をスゥと平らに伸ばした。
「…………こうですか、師匠!?」
誰に話している!?
言いながらもヤガミは、徐々に、丁寧に器用に手綱と己の重心を操り、俺の姿勢を着実に水平へと正していった。
その合間にもぐんぐん地面は迫ってくる。
だがヤガミの冷静さは、寸でのところで俺に竜の感覚を取り戻させた。
…………翼に風が戻ってくる。
ああ、ああ…………そうだ。
そうだった。
思い出した。
この風に、飛び込んで行く…………!
「ウォオォォォ――――――――――――!!!!!」
雄叫びを上げ、強く翼を打つ。
ヤガミの手綱を握る力が勢い強くなったが、動じない。
俺はもう一度叫んで翼を打ち、再び空へと身体を引き摺り上げた。
世界が澄んだ彩りを帯びて輝き始める。
山間を深く包み込んで風が踊り巡る。
快い世界の揺動に、俺は大きく翼を広げて飛び乗り、目の前の山を遥かに飛び越した。
「グオォォォォォ――――――――――――!!!!!」
夜空に咆哮を轟かす。
あぁ、何とか生き残った…………!
ヤガミは長く重たい溜息を吐き、がっくしと俺の首に頭をもたれた。
「ハァ、死ぬかと思った…………」
本音の呟きは、ほとんど吐息のようだった。竜の耳でもなければ聞き取れなかったことだろう。
そう言えば、今になって思い出す。
自分が飛ぶのに掛かりきりで、ヤガミとの共力場を全然編めていなかった。
白状しよう。
俺、コイツのこと、完っ璧に忘れていた。
「コウ、テメェ…………!」
ヤガミが普段は決して見せない本性を曝け出し、耳元で唸る。
「俺のこと忘れてやがっただろう!」と、怒鳴られる前に、俺は素知らぬふりをかました。
「あー! あー! それにしても、さっきはすごい機転の利かせようだったな、お前! 凄い手綱捌きだったぞ! とても竜乗りが初めてとは思えないぜ! さすがだな!」
ヤガミの呆れ声が返ってくるかと思いきや、聞こえたのは全く別の、冷ややか極まる声だった。
「…………当然です。私は、初めてではございませんので」
ギクッとして背後を振り返ると、いつの間にいたのだろう…………!
見知らぬ竜に跨ったフレイアが、すぐ後ろから追いかけてきていた。
「えっ!? えっ!? フレイア!? 何で!? いつから!?」
フレイアは俺の隣へスゥと自分の竜を滑り込ませると(彼女の竜の黄色い瞳と、ちょっとだけ目が合った)、淡々とした中にも凄みのある調子で答えた。
「あまりに心配でしたので、コウ様達が飛び立つと同時に取り急ぎ竜を拝借して、全速力で追いかけて参りました。
たまたま間に合いましたから良かったようなものの…………いくら何でも、いい加減過ぎます! コウ様も! ヤガミ様も! …………お師匠様も!!」
フレイアは矢継ぎ早に捲し立てた。
「ですから私は再三申し上げたのです! お師匠様はいくら何でも楽観が過ぎます! あの人にとっての「無茶」や「無謀」は、「少し難易度の高い興味深い課題」という意味でしかないと、どうして皆様、おわかりにならないのです!?
コウ様達も…………なぜそんなにも、ご自分の頭でお考えにならないのですか!? 御身をお守りするのは、何よりもまず、ご自身なのです! いつだってコウ様のことは、このフレイアが命を賭してお守りする所存ではございますが、それでもいくら何でも、こんなこと…………!!! こんなことは…………!!!」
「わ、わかった! ごめん、ごめんフレイア!」
「悪かったよ、師匠」
「謝ってお済みになるなら、フレイアは要りません!!!」
大声で怒鳴りつけられて、俺達は揃って項垂れた。
仰る通り、返す言葉もございません。
フレイアはひとしきり思いの丈をぶちまけて多少は落ち着いたのか、フゥと一息ついてから、こう続けた。
「…………おわかり頂けたのなら結構です。お師匠様にも、後できちんとお話をしておきます。
ひとまずは戻りませんか? 勿論お気付きのことかとは存じますが、もうお師匠様の示された地点よりも、遥か遠くに来ております。あの人でも、さすがに心配なさっているでしょう」
言われてみれば、確かに全くあらぬ方向へ飛んできてしまっていたようだ。
ヤガミは俺に、疲れ気味に話した。
「っていうかな、あのままだったらお前、確実に山に激突していたぞ。もしかしたら急上昇だか急旋回だかで回避するつもりだったのかもしれないが、お前、完っっっ全に俺の存在忘れてただろ? …………この次は勘弁してくれよ、マジで」
「ごめん…………」
「謝って済むなら、師匠は要らねぇんだぞ」
「それはお前…………お前もだろうが!」
「だな。…………とにかく、次は必ず、先に共力場を編んでから飛ぶぞ。まさか離陸してあんなにすぐ話が通じなくなるとは思わなかった。油断した」
「俺も」
話している俺達を、紅玉色の眼差しがじっと、微かばかり光る六等星のように静かに見守っていた。
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