第246話 湯けむりセクハラ事件。俺が貞操を守らんと足掻くこと。

 アオイに引き摺られてやってきたのは、紛れもなく湯殿だった。

 小綺麗に整えられた小さな小屋の中に、たっぷりと湯の入った木製の浴槽がある。すっきりとシンプルな調度が、かえってこの場所の只事ではない上等さを強調していた。

 キラキラと光る青と白の敷石は左右対称に美しく並べられ、例によって何かの魔法陣を刻んでいるようである。

 周囲を巡らす織物の氷のような白さも、俺を怯えさせるのに十分な威容を発揮していた。


 白く柔らかに踊る湯気が冷えた頬と素足をじんわりと温める。

 アオイに腕を掴まれてさえいなければ、それは本来、どこまでもホッとするはずの感覚であった。


 アオイは中へ入るなり、早速こう命じた。


「脱げ、ミナセ」

「い、嫌です」

「なぜじゃ? オースタンでは服を着たまま身を清めるとでも言うのか?」

「…………。…………そ、そうだよ。だから、恥ずかしいんだ! 無理だ!」

「ふむ。恥じらう顔も、げにかわゆいがのう…………。嘘を吐くならばもっとマシな嘘を考えよ。サンラインで一度も湯浴みをしなかったとは言わせぬぞ。スレーンでも作法は変わらぬ。…………はよう脱げ」


 でも、だってと抵抗する俺の周りにどこからともなくアオイの侍女達が現れ、アオイの指示通りに俺をひん剥いていく。

 苦しみの叫びはこもった小屋の中に痛ましくこだまする。

 魔法にかけられたシンデレラはドレスを着せてもらえるが、26歳ニートは全てを取り去られ素っ裸になる。

 下着までひん剥がれ、かろうじて薄っぺらな浴衣だけを羽織らされた俺は、寒さやら恐怖やらで震えながら訴えた。


「何すんだよ!? これって立派なセクハラだぞ!! 虐待だ!!」


 アオイは仕事を終えた侍女達に下がるよう言いつけ、俺の姿を上から下までじっくりと眺め渡して言った。


「ふむ…………思うたより傷が多いが、まぁよかろう。傷一つ無い竜では、様にならんじゃろう」

「り、竜…………? …………一体、何をする気なんだ…………!?」

「そうさのう…………」


 アオイは聞いているのかいないのか、俺の身体にゆっくりと自分の身体を添わせてくる。

 彼女が近づくと、何かは知らないがとても心地の良い、甘い匂いがふんわりと漂ってくる。ほのかなおしろいの香と混じって、やたらに頭がぼんやりとする。

 俺が慌ててのけぞるのを、アオイは逃しはしなかった。


「わっ! うわぁぁ…………っ」

「ふふっ…………安心するが良い。わらわが手ずから、一から丁寧に導いてやるからのう」


 いつになく優しく円らな目をしたアオイが、雪原のような頬に桃色の花を咲かせる。

 片手を軽く掴まれているだけなのに、俺はどうしても動けなかった。

 そうこうするうちに、アオイが俺の耳にふぅと微かな息を吹きかけた。

 ゾクリとして、俺はさらにのけぞった。


「いっ!? ちょっ…………な、何してるんだ!? こ、こここ困るよ! おっ、俺…………」

初心ウブじゃのう。…………まこと、かわゆいヤツめ」


 アオイが笑いながら、慣れた手つきで自分の帯を解き始める。スルスルととぐろを巻いて落ちた長い帯の上に、肩から落ちた優美な着物がふわりと降りかかる。

 半透明の薄衣だけを纏ったアオイの身体は、華奢ではあるが思いのほか女性らしく、真珠のような楚々とした輝きに包まれていた。


「…………こ、こら! すっ、すすぐに服を着なさい! いっ、いいい今すぐに!」


 叱りつける声のどこにも威厳などは無い。

 当然アオイは怯むことなく、ひんやりと冷えた手を俺の頬に当てて、唇を間近に寄せた。


「お、おい!? アオイちゃん!?」

「ミナセ…………。初めてで不安なのじゃな?」

「!? そ、それより、きっ、君っ、ふっ、服! 服を! はやく!」


 緩んだ襟元からのぞく清楚な盛り上がりから、俺は全力で目を背ける。着物って下着はつけないものなの? 目が回りそう。

 とにかく俺は、必死で訴え続けた。


「アオイちゃん! 俺は…………俺には、心に決めた人がいるんだよ! だから君とは、こんなことはできないし、君もすべきじゃない!

 早まるな! よく考えて! 君には必ず、もっとふさわしい相手がいるはずで…………っ!? ぐむっ!!」


 アオイが俺の唇を指でジグザグになぞると、細い蜘蛛の糸のようなものが口に縫い付けられた。

 痛くはない。痺れもしないが、開かない!


「ん――――――――っ!!! ん――――――――っ!!!」

「あまり興奮するでない。最初からそれでは、これから先がもたんぞ」


 言いながらアオイがおもむろに俺の浴衣をはだけさせる。俺は全力で前を隠す。

 露わになった胸板へツツと指を送るアオイに、俺は抵抗できなかった。

 くすぐったい。

 ぞくぞくする。

 妖艶な香りと湯気に当てられて、変な高揚感が制御不能な速度で全身を駆け巡る。


 もう一度、今度は反対の耳にアオイの息がかかる。

 震える俺にできるのはただ、縫い付けられた口でなおも叫ばんとすることのみだった。


「んん――――――――っ!!! んんん――――――――っ!!! ん――――――――っ!!!」


 アオイはしげしげと俺を眺め、頬を赤らめて肩を竦めた。


「そのように必死な目で見つめられては…………わらわもちょっと恥ずかしうなってしまうのう。

 …………慌てずとも、わらわはどこへも行かぬ。さぁ…………湯へ参ろう」


 アオイが薄衣を止めていた色鮮やかな紐を解き、前を開く。

 俺は固く目を瞑って念仏を唱えた。

 身体がアオイに支えられてゆらりと立ち上がり、ふらふらと足が浴槽の方へと向かっていく。見えない糸で躍らされているようですらある。

 浴槽に近付くにつれて、真っ白な湯気の熱が肌に染み込んで、俺の心拍数がみるみる上がっていった。


 助けて! 神様仏様竜王様!

 このままでは26年間大切に守り続けてきた俺の貞操が…………!


「お入り」


 アオイが囁くと、俺の身体はひとりでに湯の中へと沈んでいった。

 思い切りよく湯が溢れる音と共に、アードベグの秘蔵酒を飲んだ時にも感じた透明な快感が身体の隅々にまで行き渡る。


 何?

 何が起こっている?


 アオイが浴槽の端から頬杖をついて俺を覗き込み、穏やかな声で話した。


「うむ、良き哉、良き哉。…………ミナセ、浴衣が纏わりついて不快であろうが、決して脱いではならぬぞ。…………今のおぬしは、わらわとの共力場を介してこの地の気脈に非常に深く馴染んでおる。この湯の水は乙女の泉から汲まれてきた、極めて上質な霊水じゃ。気を抜けば、おぬしはたちまち「飲まれて」しまうじゃろう」


 …………。

「飲まれる」?

 声は出ないが、アオイには伝わったようだった。


「溶けてしまうということじゃ。その浴衣が、かろうじておぬしの形を守っておる。おぬしの霊体は今、文字通り骨抜きなのじゃ。里の娘らが丹精込めて織り上げ、縫い上げたその衣がなければ、唯一のよすがである肉体をも散逸してしまうところじゃ」


 何、その世にも恐ろしい入浴。極楽気分は大歓迎だが、マジで極楽直結はちょっと困る。

 すっかり縮み上がっている俺に、アオイはさらに語った。


「人は、容易には人の姿を忘れられぬもの。我らは我らという根深い呪術の中にある。例えおぬしのような特殊極まる力の持ち主であったとしても、それなりの段階を経なくては変化へんげは敵わぬ」


 水の滴る音が部屋に響く。

 アオイの立てる衣擦れの音が、やけに生々しく耳に残った。

 湯気で視界が霞んでいる。

 間近にあるはずのアオイの表情は、なぜかあまりよく窺えなかった。ただ、長く艶やかな髪を丁寧にまとめ上げる彼女の仕草が、とても色っぽかった。


「そう、変化じゃ…………。蛹が蝶となるのとは違う。それは水面を覗くおぬしと、水面に映るおぬしとを入れ替える、転身とも言うべき行為じゃ。

 力場の中での変化はおぬしにも経験があろう。魂の、気脈の、あるいはおぬしであれば、扉の導きにより、それは成されてきたであろう。

 此度の変化も本質的にはそれと変わらぬ。この地という、より広い力場の中において成されるだけじゃ」


 まるで酒に酔ったような心地だった。

 アオイの語りかけが竪琴みたいに聞こえてくる。

 ふつふつと湧いてくる不思議な幸福感、忍び寄る優しい眠気、温かな血の巡りに、いよいよ本当に蕩けてしまいそうだ。


 アオイは浴槽の縁に腰をかけ、白く傷一つない陶器のような足を静かに湯に浸した。湯気で湿った衣が彼女の肌にぴったりと張り付いている。透けて見える肢体の隆起がこの世ならず美しい。

 何となくわかってきたぞ。

 これこそが、かのサモワールが目指す境地。


「…………のう、ミナセ?」

「…………」

「ふふ。もう聞こえておらぬか。…………よかろう。清めの儀式は無垢へと還るためのもの。存分に浸り、癒されるが良い。わらわがついておる」

「…………」


 アオイの全身が湯に浸かる。

 溢れ流れていく水の音が、俺の意識に満ちていく。

 水面に浮いたアオイの薄衣には一面、白一色の花模様の刺繍がしてあった。

 甘い、誘うような彼女の香りはこの衣から立ち昇っていたらしい。

 湯気に揉まれて、急速に香りが花開く。


「おやすみ…………かわゆい、わらわの…………」


 アオイに子供みたいに抱き締められて、俺はまた目を瞑った。

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