蒼天の決闘
第245話 アオイの葛藤。正しさの籠の中。俺があの子の逆鱗に触れること。
代替わりの奉告を終えて白露の宮へ帰ってきた時には、俺達はもう全員ぐったりとしていた。
今やれっきとした頭領となったシスイの一大決心は、最早覆ることはないだろう。
認めなくてはならない。
サンラインの命運を賭けた旅は、失敗に終わったのだ。
リーザロットは落胆を隠し切れない沈痛な面持ちで、口数少なにこう指示した。
「…………こうなってしまっては、最早仕方ありません。一刻も早くサン・ツイードに戻らなくてはなりません。各々、旅の準備を始めてください。整い次第、出発します」
準備と言っても、俺は滞在中ずっとアオイに捕まっていたので荷物など全く広げていない。せいぜい貰った高そうな着物から元々着ていた旅装束へと着替える程度なのだが、問題はその服が、アオイの侍女達に持っていかれたまま行方不明という点だった。
「ちょっとアオイちゃんにどこへやったか聞いてくる」
言うと、フレイアがぎゅっと眉をひそめて止めてきた。
「お待ちください、コウ様。危険です。フレイアも共に参ります」
「大丈夫だよ。もう争いなんてないし。君は待っていて」
「違います! 私が申し上げたいのは…………」
不満そうなフレイアをどうにか制して出掛けようとした矢先、ふいに部屋の御簾の向こうから荒々しい足音が聞こえてきた。
この威圧感たっぷりの歩き方は…………。
丁度良い。手間が省けた。
案の定、勢いよく御簾が跳ね上げられ、長く美しい黒髪を般若の如く振り乱したアオイが姿を現した。
「待て、サンラインの者共! わらわの話を聞くのじゃ!」
フレイアの表情が一瞬、あからさまに強張った。
なぜか2人は犬猿の仲だ。
リーザロットが大きな蒼い瞳を静かに瞬かせ、尋ねた。
「どうかされましたか?」
アオイはふん、と偉そうに息を吐き、リーザロットの前まで歩んで優雅に腰を下ろした。
「帰るつもりか?」
アオイの問いに、リーザロットが困惑を微かに眉に示す。
アオイは彼女を一睨みし、続けた。
「とっとと帰れと、少し前まではわらわもそう思うとった。だが今は、帰らせとうないと思うておる」
一体何を話しに来たのか。
俺がリーザロットの隣に座るのに合わせて、フレイアとヤガミも集まってくる。タリスカは相変わらず姿が見えない。(いつものことながら、どこへ行ったんだ? あの人)
アオイは俺達をジロリと見渡し、小さく溜息を吐いた。
普段よりも大人びた陰影に縁どられた彼女は、普通に分別がありそうに見える。
話し始めた彼女の口調は、渋いものだった。
「兄上はおぬしらとの同盟を拒否した。それは里の総意であり、わらわの意思でもあった。そちら人型ワンダにもこの決断の重さが理解できればこそ、腑抜けた顔でそそくさと帰り支度を始めておるのであろう」
リーザロットは黙って聞いている。これしきの些細な煽りを気に留める子ではない。
アオイは話しづらいのか、また溜息を吐いて続けた。
「…………兄上は至極真っ当な判断を下した。それは疑いようもない。
古来よりスレーンは数多の戦に対し、中立を守り抜いてきた。広大な魔海の上にポツンと浮かぶ、この小さな里にそれを可能たらしめてきたのは他でもない、裂け目の存在じゃ」
本題まで長そうだ。服のことを聞くタイミングなど見つかりそうにない。
俺は一旦諦めて、おとなしく耳を傾けた。
「裂け目の魔物は我らを常に脅かしてきた。裂け目より湧き出づる豊潤な気脈は恵みであり、災いでもあった。此度の黒矢蜂の襲来も、そのような事象の一つと言えよう。里の危機でありながら、それはまた国を守る力ともなる」
どういうことかなと、さりげなく目を瞬かせて尋ねてみる。
アオイはしょうがないヤツめとばかりに目を細め、俺の意図を汲んでくれた。
「黒矢蜂共は見境が無い。彼奴らは我らのみならず、この地にある全ての命を餌食とする。例えばジューダムの阿呆共がこちらへ攻め込んできたとしても、奴らは真っ先に黒矢蜂に苦戦するじゃろう。如何に強力な大軍といえど、知らぬ土地の、知らぬ魔物が相手じゃ。サンラインと敵対しながら、そのようなものに兵を割く愚行をあの王が冒すとも思えぬ」
リーザロットがそこで初めて、口を開いた。
「…………熟練のスレーンの魔術師ならば、黒矢蜂をある程度操作できるのではありませんか? 裂け目の傍らで育まれた貴方達には、黒矢蜂に限らず、裂け目の魔物を故意に呼び出すことさえ可能かと思うのですが」
アオイがリーザロットへ冷たい視線を送る。
それから彼女は小さく首を縦に振った。
「ああ…………そちはつくづくわらわと同じじゃな。どうしようもなく魔女じゃ。
蒼の主、おぬしの言う通りじゃ。我らは代々、そのようにして国家存亡の危機を凌いできた。だがそれは裂け目を制御しているなどという状態とは程遠い。我らには相手よりも地の利がある。その点のみを頼りに、辛うじて生き延びてきたに過ぎぬ」
「なるほど。諸刃の剣ってわけか」
ヤガミが呟く。
アオイは先と同じ冷ややかな眼差しを彼へ向け、言葉を続けた。
「知った風な口を利くでない、素人めが。…………裂け目への干渉は、諸刃どころの危うさではない。己共が持つありとあらゆるものが根こそぎ奪われ、敵は灰の一片すら残さずに滅んでいく。己の腹を割いて作った血溜まりで相手を溺れさすようなものよ」
ごくりと唾を飲む。
何となく、アオイの言いたいことがわかってきた気がする。
要するに彼女は迷っているのだ。筆頭となって同盟反対を推し進めてきたはいいが、今になって気持ちが揺らいでいる。
でも、どうして急に?
アオイは語り続けていった。
「この地にはおぬしらが想像するよりも遥かに膨大な数の命が眠っておる。…………皮肉なことに、その命もまた気脈を潤す一雫じゃ」
何かリーザロットが言いたそうにしていたが、結局口は挟まなかった。
アオイは言い淀むでもなく、しかしどこか息の詰まるような緊張を声に潜ませ、話した。
「…………スレーンの男衆は竜を駆る。女衆は機を織る」
最近は娘っ子も竜に乗るがなと、アオイが素っ気なく付け足す。
彼女はリーザロットと、珍しいことにフレイアを見やって話を継いだ。
「サンラインの子らは男女の別無しに魔術を編むであろう。が、そちらでも女の方が適性が高いのは変わらんじゃろう」
そうなの? とリーザロットを覗き込む。
リーザロットが答えてくれるより先に、アオイが俺に話した。
「何じゃ、知らんかったのかミナセ? …………サンラインの兵共は皆、珍妙な獣の顔をしておるであろう。あれは少しでも魔海との親和性を高めるために、より魂の根源に近い姿を取ろうとして、ああしておるのじゃ。女は元より獣じゃ。ああでもせぬと、釣り合わぬのよ」
「えっと…………つまり、普通は女の子の方が強いってこと?」
「それはそうとも限らぬ。親和性の高さと、それを制御する才能は別物じゃ。どれ程感度が良くとも、心が拙過ぎて到底使い物にならぬという娘はよく見掛ける」
「はぁ…………。あの、でも、それが一体、今の状況と何の関係が…………?」
堪えきれず聞いてしまった。
話があちこちに飛ぶのは俺も人のことを言えないが、とにかく今は急いでいるのだ。黙っているにも限界があった。
アオイは幾度目とも知れず溜息を吐き、リーザロットとフレイアを見つめて続けた。
「…………スレーンではな、長らく男女の仕事を分けてきた。それが何より里のためになるが故にな。女達は代々、広大な一枚の布を織り上げるように里の力場を編んできた。竜王様の恵みを謳う日々の中でも、災いの渦中にあっても、我らは命をこの地に織り交ぜ織り交ぜ、竜の地と空を育んできた…………」
アオイはあくまで淡々としていた。
だが彼女の戸惑いは一言一言ごとに、確実に降り積もっていっている。
彼女はリーザロット達に、やや強い口調で迫った。
「わかるか。それゆえスレーンの女は、この地を離れられぬのじゃ。この地を離れては戦う力はおろか、生きる力をも持たぬと言うても構わぬ。今や我らはこの地、そのものなのじゃ。
此度の危機、乗り越えるには恐らく裂け目の力を呼び起こすより他に無いであろう。まだ幼き者も、幼き者を連れた者をも術に加えることになろう。
…………わかるか、サンラインの娘共。それでも我らはこの地を守らねばならぬ。ジューダムからも、魔物からも、サンラインからも」
そんなことはよくわかっている…………つもりなのだが。
シスイも十分に納得しているから苦渋の決断を下したのだと、思うのだが。
アオイの表情は、猫に手酷く弄ばれた毛糸玉みたいにこんがらがっていた。
「…………わらわは結界師長じゃ。女衆を束ねる役目がある。死地へ赴かせる役目がある。…………誰も殺しとうない。だが里を守らねば、我らは我らを紡げぬ」
リーザロットの蒼玉色の眼差しはしっとりと悲しげで、優しい。
傍らのフレイアの紅玉色は暗く沈んで、よく色が窺えない。
アオイは目を伏せて弱々しく首を振り、肺に押し込めていた息を無理に吐き出すように話した。
「今のスレーンに人助けをする余裕は無い。兄上は正しい。…………なれど、正し過ぎる」
アオイはキッと眼差しを尖らせて俺らを見渡し、言った。
「何事も、過ぎるというのは良くない。向こう見ずに抗うものがあって初めて、我らも我らを押し通せようというものじゃ。
だって…………間違っておるのじゃ。仕来りも、伝統も、理屈も、完全に正しいものなどあり得ぬ。
檻なぞ叩き壊してしまえ。どこででも、どのようにしても生きられる。我らは過去によってではなく、未来によって紡がれるのじゃと、誰かが戦ってくれねばおかしくなる。
そうじゃ。だからわらわは…………きっと父上も、アードベグも…………兄上を見捨てられなかったのじゃ」
アオイがなぜか俺を睨む。
彼女は俺へ詰め寄り(フレイアの紅玉色に一瞬、火花が散った)、いつもの居丈高な調子を俄かに復活させて怒鳴りつけた。
「…………だから、聞くのじゃ! ミナセ!」
「えっ? お、俺?」
「そちもじゃ、不細工王!」
「っ?」
ヤガミが眉を困惑で歪ませる。
アオイは俺達2人を、ほとんど叱り飛ばしていた。
「おぬしら、「決闘」のことは知っておろうな!? 否とは言わせぬぞ! あの飲んだくれの赤角鬼が吹き込んだことは、お見通しじゃ!
…………本来、決闘は里の者が行うものじゃ。じゃが、此度はこのわらわが認める! 要は竜の証さえ示せればよいのじゃ! わらわの手に掛かれば、それぐらい造作もない…………!」
不穏な流れになってきたぞと、ヤガミと顔を見合わせる。
アオイはそんな俺の頬を両手で挟んで強引に己の顔の真ん前へ向き直し(フレイアが腰を浮かし、俺の名を呼んだ)、絹のようなサラサラとした髪を俺へふりかけて告げた。
「ミナセ。おぬしの主として命ずる。
頭領と「決闘」せよ。そして勝て。兄上にもう一度…………翼の何たるかを叩き込んでやるのじゃ!」
俺は攻寄られながら、開いた口が塞がらなかった。
そもそもシスイを追い詰めたのは誰だっていうんだ?
いくら何でも、無茶苦茶だ。
わがままが度を越している。
狂っていると言ってもいい。
アオイはパッと俺から手を離すと、今度はヤガミを振り返って言った。
「不細工王。名を何といったか?」
「ヤガミ」
「ヤガミ。そちはミナセの幼馴染と聞く。手を貸してもらうぞ」
「…………何をすればいい?」
「ただわらわに従えばいい。…………蒼の主、そちも協力せよ」
「喜んで」
リーザロットがいかにも興が乗ってきたとばかりに奥ゆかしく微笑む一方で、ヤガミが諦め顔で肩を竦める。俺も災難だが、お前も大概だよな。
続いてアオイはフレイアに目を留め、眉間を険しくした。
「遺憾じゃが、おぬしにはミナセの補佐を頼もう。そちの如きにミナセの力場を汚させたくはないのじゃが、仕方あるまい」
フレイアは答えず、ただ冷たい面持ちでアオイを睨み返している。
邪の芽のせいで彼女とは共力場が編めないのだが、アオイはそれを知らない。
アオイはふん、と息を吐くと、すっかりいつものトーンで言葉を続けた。
「それとな、勘違いせぬように言うておくが、ミナセはわらわのものじゃ。何、さりげなく持ち帰ろうとしておる? この不届き者めらが」
「貴女のものではありませんと、以前にも申し上げました」
「かといって、おぬしのものでもなかろうが」
「…………コウ様は蒼姫様に仕えておられます!」
「それなら、何故おぬしが憤慨する?」
ニヤリと不敵に笑って、アオイが俺へ腕を絡めて寄りかかる。
彼女に戸惑うより先に、目の前から直ちに飛んできた紅玉色の視線に心臓を一突きされた。
「っ! フ、フレイア…………こっ、これは俺の意思じゃなくて…………っ!!」
「…………」
フレイアは一度深呼吸し、もう一度顔を上げた時には前よりも一層、爬虫類じみた冷たい仮面で愛らしい顔を覆っていた。
彼女は静かに、本当に何の音も立てずに立ち上がると、
「お師匠様を呼びに行って参ります」
とだけ言い残して、物陰へ溶けるように部屋から去っていった。
リーザロットが、
「困りましたね」
と、さほどでもなさそうに呟く。
俺の後ろではヤガミが、何とも小憎たらしい視線を俺へ注いでいる。
アオイは俺の胸へすり寄ると、さっきまでの深刻さが嘘のような、にこやかな笑みを浮かべて、禍々しいことを口にした。
「というわけじゃ、ミナセ。さっそく準備をしようぞ。まずはわらわと共に泉で清めの儀式を行おう。竜となるには、穢れた身体のままではいかんからな。
さぁ、参ろうぞ!」
助けてと叫ぶも、特に誰にも聞き入れられることなく、俺はまたアオイの怪力によって引き摺られ始めた。
…………ああ、どうしていつもこうなる?
というか、フレイアさん。どうして俺に怒るのですか?
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