第229話 赤く猛るスレーンの守護鬼。俺が目の当たりにする、竜の大地の壮絶のこと。

 鬼だ。

 鬼がいる。


 俺は目を丸くして、鳥居そっくりの門の前に立つその男を見た。


 額にそびえ立つ捩じれた2本の角は山羊に似ており、その肌は、まさしく割れた柘榴の如く真っ赤であった。

 今しがた血飛沫を浴びたばかり…………なのかと一瞬怖気立ったが、よく見れば地の色が赤いのだ。憤怒に燃える岩石みたいな顔貌には、古い刀傷が幾筋も幾筋も走っていた。


 玉虫色に艶めく彼の甲冑は、サンラインの西洋的なものとは全く似ていない。むしろ、日本の戦国武将を思わせるような厳めしさである。手にしている巨大な薙刀のような武器は何だろう? 薙刀よりもずっと分厚く凶悪な、大仰な刃がついている。

 その刃が雲間から差す日に照らされて、鈍く光っていた。


 彼の目の前までやって来た時、先導していたフレイアが竜を下りて頭を下げた。


「ご無沙汰しております、アードベグ様。ご頭領様にお目通り願いたく、参じました」


 タリスカにも劣らぬ堂々たる体躯を誇るアードベグはフレイアを見下ろし、それから竜上のヤガミ、後ろに控えるリーザロット、最後に俺を見て言った。


「ええ、存じております。…………が、私は竜王様の防人さきもり。百代前の頭領の御世より、このスレーンの地の守護を仰せつかっております身。

 …………この私を倒さぬ限りは、何人たりともお通しはできませぬ」


 ゆらり、と大薙刀の刃が大きな弧を描いて地へ滑る。

 大地から闘志が溢れ出す、見事な下段構え。

 相対する者に容赦無く注がれる苛烈な純銀の眼差し――――灼熱に燃える恒星のような、激しい光を帯びていた――――が、知らず知らずのうちに俺の息までも乱れさせる。

 止めどなく垂れてくる冷や汗と際限無く上がり続ける心拍に、俺は今にもテンテンから転がり落ちそうだった。


 リーザロットは眉一つ動かさず、蒼く澄みきった瞳でアードベグを見つめている。

 やがて彼女は桜色の唇を開き、平然と言ってのけた。


「フレイア、戦闘を」

「承知いたしました」


 金属の擦れる涼やかな音を響かせ、フレイアが抜刀する。

 紅玉色の瞳に鮮やかな火の粉が舞い上がる。たちまち彼女の火蛇が勢いよく燃え盛り、彼女を囲って輪状に走った。

 二重の炎の輪は、片方は橙色に火を噴き、片方は白く白熱している。微妙に軌道をずらして揺れながら、時に重なり、また分かれる。


 ふ、と空気が微かに揺れる。

 興奮する俺の脳タカシが、何か未知の獣の咆哮を脳裏にけたたましく轟かせた。

 長く鋭い、空をつんざくような鳴き声――――…………。


 ハッと我に返ったその刹那、地面を深く斬り上げるように振り抜かれたアードベグの大薙刀と、螺旋状に半弧を描いて突き出されたフレイアのレイピアが眩い火花を散らした。


 フレイアは火焔と化した火蛇を素早く切っ先へ滑らせ、相手の巨体に臆することなくさらに間合いを詰めた。

 火蛇とレイピアの刃が同時に赤い喉元へと迫る。

 純銀と深紅の眼差しが壮絶にぶつかり、弾ける。


 鬼の獰猛な雄叫びが大地を、天を震わした。

 火蛇の炎が痺れ、束の間、火蛇の尾の絡んでいたレイピアが無防備になる。

 瞬間、大薙刀がダイナミックな円を描いて翻り、フレイアの手からレイピアを高く弾き飛ばした。


「――――…………ッ!!!」


 蒼褪めて息を飲むも、当のフレイアは動じない。

 間髪入れず振り下ろされてきた大薙刀の一撃を、フレイアを囲っていた白熱の火蛇が盾となって防いだ。


「…………ホッ!」


 鬼が大きく息を吐き、次いで猛攻を仕掛ける。一撃一撃が大砲の雨となって地面を砕き、抉る。タリスカに劣らぬ、旋風の如き連撃。


 無手のフレイアは紙一重で乱撃を見極めつつ、飛ばされたレイピアのもとへと戻るべく歩を進めようとする。

 しかし、アードベグの大薙刀は的確にフレイアの足場を遮り、彼女をなかなか動かさなかった。


 執拗な攻撃はあたかもフレイアを踊らせるが如く、絶え間無く、無慈悲に続く。

 時にフレイアはステップを乱れさせるも、危ういところでどうにか立て直す。

 大薙刀は火蛇よりもなお狂暴な大蛇のようだった。


「…………どォしたァッ!? 死神のッ!! 秘蔵っ子はッ!! これしきかッ!?」


 雷鳴もかくやと轟くアードベグの野次に、フレイアはただきつく眉を寄せる。

 それでも少しずつ、少しずつ…………フレイアはじりじりとレイピアとの距離を詰めていく。

 受け流しの合間を縫って辛抱強く繰り出される火蛇の牽制が、鬼の薙刀捌きに微妙な隙を作っているらしい。


 だが、あと少し、あとほんの一歩が、どうしても届かない。


「そらッ!! そらッ!! どォしたァッ!? このままッ!! 死ぬまでッ!! 踊るかッ!?」


 鬼の攻撃はいよいよ激しく、暴風雨となって振り注ぐ。

 その最中、ふいに足下へ向かって真一文字に切っ先が薙がれた。

 咄嗟に飛び上がって躱した彼女を追って、彼女を守る火蛇が一際大きく輪を広げた。

 中空で、フレイアがアードベグの眼前へ身を晒している。


「…………終わりだッッッ!! 小娘ッッッ!!」


 アードベグの純銀の瞳が大きく見開かれ、閃光を放った。


 全く同時に、フレイアが紅玉色を閃かせる。


 大薙刀が流れるように回転し、刺突を放つ。

 機を重ねて赤く細い輪が2人の周りを素早く走り、勢いで地面に転がっていたフレイアのレイピアを跳ね上げた。


 …………目の前の時間がぐんと、引き伸ばされる。


 薙刀の刃が届くわずか先に、フレイアの手にレイピアが渡った。

 掠れた、決然とした叫びが辺りに響き渡った。



「――――シグルズ!!!!!」



 瞬く間に、赤く輝く輪の内に火焔が迸った。

 爆風じみた熱気が俺達にまで吹きつけてくる。

 業火は大空へまでも湧き上がり、獰猛な獣となって空の群青を炙った。


 揺らぐ炎の間に、人影が見えてくる。

 フレイアは白熱する火蛇の輪に身を包み、レイピアを持った腕をいっぱいに伸ばして硬直していた。

 刃に血が…………ワインに墨を溶かしたような、赤黒い血が…………伝っている。


 彼女の目の前には、アードベグが立っていた。

 こめかみに真新しい刀傷ができているが、きっとこの傷は長くは残らないだろう。

 火焔に飲まれたはずの彼の身体は、何故かより一層艶やかに、赤く、目も覚めるような鮮やかさを放っていた。

 彼の大薙刀は下方へ構えられている。分厚い刃は、フレイアの脇腹ギリギリの所でピタリと止められていた。


 フレイアが乱れた呼吸を整え、目をつぶって一度長く息を吐く。

 そのまま彼女が小さく頭を振ると、彼女達を囲っていた炎がみるみる鎮まっていった。


 彼女を守っていた火蛇(こっちはジークかな?)が、面目無さそうにフレイアの首の周りを一周して、肩を伝って滑り降りていく。

 フレイアはゆっくりと剣を下ろし、言った。


「…………参りました」


 アードベグは薙刀をくるりと回して己の横に立てると、大口を開けて豪快に笑った。


「ハーッハッハッハッ!!! いやいやいや、さすがは蒼の剣鬼が手塩にかけただけある!! いやァー、危なかった、危なかった!!!」


 彼は傷だらけの顔をくしゃくしゃに歪めて気風良くこめかみの血を拭い払い、続けた。


「惜しかったですなァ、フレイア嬢!! もう一呼吸…………あともうほんの一我慢して刃をいなしさえできれば、いいのが入りましたぞッ!!」


 対するフレイアは眉を八の字に下げ、肩を竦めた。


「ですが…………魔術の選択を大きく間違えてしまいました。アードベグ様は、どうしてそんなにも魔術にお強いのですか? まるで効かぬとなりますと、どのようにお褒め頂いても自信がなくなってしまいます」

「何、我慢強いだけですわ。…………いやいや、それにしても、よもやあの一撃を躱された挙句、反撃まで食らうとは…………。いやァー、本当に、よくぞ成長なされた。あの小っちゃい娘さんが、仔ワンダみたいに向こう見ずで泥だらけだったチビっ子が、なァ…………。いやァー、時の流れが髄に染み入りますわ」


 懐かしそうに、満面の笑みを浮かべて空を仰ぐ赤鬼を、俺は呆然として見つめていた。

 何? 知り合い? 知り合い同士で殺し合ってたのか? 挨拶代わりに?


「バトル漫画かよ…………」


 ヤガミの呟きが耳に入る。


 開いた口の塞がらない俺達に、アードベグがチラと視線を向けた。面白がるような、何か期待するような眼差し。

 それから彼は一転して至極真面目な顔になり、竜上のリーザロットに恭しく礼をした。


「誠に失礼をば致しました。サンライン最上の戦士の剣、確と賜りました。…………頭領が上でお待ちです。蒼姫様御一行を、スレーンの民は心より歓迎致します」


 ホッと胸を撫で下ろしたところで、鳥居の後ろからぬっと黒い影が姿を現した。

「あ」と俺が言うより先に、リーザロットが彼を咎めた。


「タリスカ。正式なご挨拶の前に中へお邪魔しては、失礼ですよ」


 柱の傍らに立つ死神は、何一つ悪びれる様子無く言葉を発した。


「慣習の戦は茶番になろうと、予め伝えたに過ぎぬ」


 アードベグはタリスカを振り返り、また哄笑した。


「ハッハッハッ! かえって我が戦魂を煽るだけであったがな! 相変わらず弟子自慢のうるさい男よ!」


 溜息を吐くリーザロットに、俺は心底同情した。

 そう言えばいないなと、今になってやっと考えが及んだ自分にげんなりする。気圧されてないで、さっさと気付くべきだった。ああいう人だと、よくよく知っていただろうに。


 これまでずっとタリスカがスレーンへ送られていたという話にも、同時に得心がいった。

 来るものを頑なに拒み続ける堅牢な里って、まさか物理的な意味だったとは。

 これから先が思いやられるにも程がある。


 様々に乱れささくれる思いを一挙に押し流すように、アードベグの笑い声が地響きとなって響き渡った。


「ハーッハッハッ!!! それでは、私に付いてきてくだされ!!! スレーンの茶は贔屓目無しに見ても、どれだけ贔屓して見ても極上です!! ごゆるりと、お楽しみあれ!!」


 フレイアがヒョイと自分の竜、トントンに飛び乗り、後ろのヤガミに何か短く声をかける。ヤガミは若干(というか、彼基準なら最早あからさまに)引いていたが、まぁ無理もない。あんな戦いを見せられた後で、彼女と修行を続けたがるヤツなんてまずいない。


 リーザロットはタリスカと並んで歩くアードベグの後ろへテンテンを進めつつ、俺を振り返って微笑んだ。


「…………楽しくなりそうでしょう?」


 俺はじっとりと肩にのしかかる疲労感と不安感に、乾いた笑みを漏らした。

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