【番外編】喧嘩上等

喧嘩上等

 殴って、取っ組み合って、締め上げて、蹴り上げられて、

 揉み合って、引っ掴んで、ぶっ飛ばされて、

 這いつくばって、しがみついて、齧りついて、

 また拳を固めて、振り被る。


 どれだけ不利でも、コイツと決めた一人だけは、何としてでも捻じ伏せてきた。



 喧嘩っていう行為には、妙な中毒性があった。

 加減を知らない馬鹿にマジで殺されるんじゃないかっていう目に遭わされたこともあったけれど、それでも俺はあの頃を懐かしいと思う。


 少なくとも、俺の「喧嘩」に嘘は無かった。

 俺は自分と同じ、どうしようもないガキしか殴らなかったし、あえて首を突っ込んでくるのでもなければ、外野にもそう迷惑はかけなかった。


 「暴力」ではなく、あくまでも「喧嘩」だと、俺は言いたい。

 そもそも喧嘩でなくては、殴る意味が無かった。


 …………ちょっとだけ、子供っぽい話をさせてくれ。

 大人ぶるのは、今は気分じゃない。

 人生は短くて速くて、急流みたいに忙しない。

 だから時々、しょうもない荒海の景色が恋しくて堪らなくなるんだ。




 俺にとって喧嘩は、必要なものだった。

 退屈っていうのは致死的で、ともすると息の仕方すら忘れてしまいそうになるから、俺はいつだって焦って苛立っていた。


 絶えず何かに戦いを挑まねばと、心がまず急き立ててきた。

 融通の利かない脳がそれに従って、どこまでも感覚を鋭く冴えさせ、殴る理由をこじつけた。


 一度喧嘩が始まれば、後はもう何も考えなくて良い。爪の先から頭のてっぺんまですっかり空っぽになった身体が、勝手によろしくやってくれる。

 最初の喧嘩が済めば、後は将棋倒しだ。

 皆、殴るのは一向に構わないが、殴られるととにかく腹が立つ。

 だから鬱憤を晴らすために、見境無く次の相手へと殴り掛かっていく。


 俺は今でもたまに、カッとなって死ぬ程殴り返してきそうなヤツを見ると、いっそこちらから殴ってやろうかという衝動に駆られる。(もちろん、やらないが)


 どんなに不味くとも、噛み締める血の味は本物なのだ。

 拳に拳以上の意味を込めさえしなければ、そんなに後味も悪くない。

 本物にどれだけの価値があるのか?

 偽物にウンザリし過ぎると、かけがえのないものに思えてしょうがない…………それだけの話だ。


 ところで、今更言うのも恐縮なんだが、俺のこんな話は、実の所さっぱり意味不明だという人もこの世には結構いる。


 俺としては、子供の頃は誰しもが、だだっ広い外洋じみた世界を当て所なくさまよい泳いでいたのだから、まさかそんなことはあるまいと思い込んでいたのだが、それは大いなる考え違いであったとある時、気付かされた。


 しがない喧嘩の後に、遠巻きに見ていた一人がヘラヘラと笑いながら、こう尋ねてきたのだ。


「よくやるなぁ、お前。…………一体、何がそんなに憎いんだ?」

「…………憎い?」

「っつーかさ、何の得があるんだよ? こんなことして、何も利益ねーじゃん」


 あからさまな嘲りの表情に、ソイツの面もついでに殴り飛ばしたくなったが、その時俺はなんとなく思い留まった。


 …………何だろう?

 今まで考えたこともなかった。


 俺は何がそんなに憎い?

 何をこんなにも欲している?


 喧嘩相手の名前はそりゃあ出てくる。けれど、それが相手の本質でないことはあまりにも明らかだった。脳がでっち上げた喧嘩の理由も、真実からはかけ離れている。

 「誰」や「なぜ」は全く問題にならない。

 俺は何にぶん殴られ、何を殴っているのだろう?


 尋ねた男へ視線を向けると、彼は口元を歪めながら、後退って口走った。


「…………ハハ。やっぱりお前、イカれてるわ」

「喧嘩売ってんのか?」

「…………一生ひとりでやってろ、変態野郎!」


 追いかけて叩きのめさなかったのは、一重に彼が弱過ぎたからだった。

 一方的にいたぶるのは、喧嘩じゃない。


 それから散々思い悩んだ挙句、結局俺は彼の問いに対する答えを見つけ出せなかった。


 というか、その正体がわかっていたら、そもそも喧嘩なんざしなかったように思う。

 「恋愛」とか「友情」とかを、健全に満喫していただろう。


 俺のこの、無性に何かをぶん殴りたいという衝動は、腹の奥底から滾々と湧き出してきていた。

 「俺」の始まりであるその場所は、泥っぽく湿って、混沌としていて、暗い。

 この世でただ痛みと空虚さだけが、それに似ている。


 見たこともない、決して触れることのできない幻の故郷。

 美しくも愛おしくもないそこに、俺は気付けばいつも思いを馳せていた。


 そんなだから、争いの理由なんてのは、至極どうでもよかった。

 侍なら命を賭してこだわる所の大義名分も、俺にとってはむしろ、死んだっていいから踏みにじりたい対象だった。

 そんな煩わしさが、余計に故郷を俺から遠ざける。

 嘘と退屈を連れて来る。


 正しいとか間違っているとか、法律や規則に則っているだとかいないだとかとは、くだらなくて、全く上等と思えなかった。

 俺はそういう殻をとにかく無下にしたくて、熱に浮かされたように暴れまくっていた。


 狂暴さに色はいらない。

 あれる限り、水のように。


 ひたすらに拳を振るう。振るわれる。

 それ以上でもそれ以下でもない。


 畜生と呼びたければ呼べ。

 もっと偉いつもりなら、止めてみろ。


 殴り方は殴られるうちに覚えた。

 効率的な脅しつけ方も、何度も耳にしているうちに自然と心得た。

 獣が獣から学ぶように。


 喧嘩は、始めた以上は戻れない。

 殴ったんだから殴られる。もしやられたなら、倍で返さなくては取り戻せない。

 地球が回っている限り、サイクルはいつまでも続いていく。


 俺は痛みで自分の輪郭を知った。形作ってきたと言うべきか。

 そうして描いた自分の像をさらに緻密にするために、重ねて喧嘩を繰り返す。

 己に守る程の価値があるのかと胸に問う賢さと勇気は、持ち合わせていなかった。


 世間という名の大海の水は、間違いなくしょっぱかった。

 真水のようでありたいと願っていながら、覚えているのはひりつく痛みばかりだから皮肉だ。


 とりわけ惨敗した時の、あの惨めさと言ったらない。

 家族や友人の手前、何のことは無いと余裕ぶって見せていたけれど、正直、打ちのめされてボロ切れ同然だった。


 今更足を洗おうにも、「強くなれ」と己で撒き散らした言葉が四方から追いかけてきて、執拗にはらわたへ牙を沈める。

 理解不能な俺を前にして、「気持ち悪い」とハッキリ拒絶を示した人も一人や二人じゃない。

 「甘えんな」と、怒鳴り散らす人は同じ水のサメだ。お互いを憐れむ甲斐性があったなら、少しはマシだったのかどうか。

「自業自得」だなんて言われるまでもないことだ。


 本気で助けてくれそうな人には、頼れなかった。

 求めていたのは外海からの完全脱出ではなく、その場しのぎの岩礁地帯に過ぎなかったから。


 人は理不尽だ。

 卑怯で、弱い。

 でもまぁ、殴ってしまえばうやむやになる。


 どんなに悔しくったって、悲しくったって、深い傷を負ったって、むしろだからこそ、喧嘩したがった。

 空しくとも、吠えたかった。


 精一杯の正直と反抗が「俺」を傷つけながら、支えていた。




 …………しかし、だ。

 当然のことながら、そんな日々はいずれ終わりを迎える。


 因果応報。身から出た錆。己で蒔いた種。

 強い衝動は同じだけ強い衝動を招き寄せる。

 俺が好き勝手に振りかざした拳の数々は、やがて全部まとめて、きっちり熨斗のしを付けて俺へ返ってきた。


 俺はある時、同級生に腹をカッターで刺されて病院へ運ばれた。


 喧嘩じゃなかった。

 刺したのは俺の親友で、幼馴染だった。


 俺は完全に忘れていた…………否、目を背けていた。

 拳を振らずとも、人は傷つくということに。


 半ばは事故…………ものの弾みでもあったと思う。だけどそれ以上に、俺は刺された時、アイツから強い衝動を感じた。

 真水なんてキレイゴトとは真反対の、色濃く、どろりとした、まるで血そのもののような「彼」がそこにいた。


 アイツも皆みたいに、理解できないとさっさと立ち去っていってくれていたなら、ああはならなかったのに。

 ずっと眺めてなんかいたから、ああなった。

 俺のことなんか、アイツの知ったことじゃなかったのに。


 俺の無軌道でアイツが傷つく理由なんて、どこにもなかった。

 あるわけないと、無視し続けていた。


 知らない。見えない。言えない。わからない。

 そうやって長らく誤魔化してきたものが、雪崩となって押し寄せてきた。


 偶然だったが、俺は同じ時期に、母親と弟も亡くした。

 弟は病気だった。昔から病弱で、手のかかる子供だった。

 遊んでくれとせがむくせに、するとすぐに熱を出して寝込んでしまう。

 母親も同じように、身体が弱かった。

 働きづめで、いつも蒼褪めた笑みを浮かべていた。


 知っていた。2人が俺を待っていると。

 家を出ていく俺を見守る、どこまでも深く沁み込んでくる無邪気な眼差しに、何よりも怯えていた。

 いつか呆れて愛想を尽かし、勝手に生きてくれたらと、とっとと俺を見放してくれたらと、恐れながら望んでいた。


 俺は当てつけのように生きた。

 あれが暴力以外の何だったっていうのだろう?


 俺のしでかした全ては、積み重ねた分だけ重く、重く、重く、祟った。




 とにかく誰かを殴りつけたかった。

 拳が腫れるまで、脳が空っぽになるまで、底が見えるぐらい、心が擦り切れるまで。


 誰か、誰でもいいから、殴り返してきてほしかった。

 訳なんて何でもいい。

 俺を殺してほしい。


 全部くだらないと、叩きのめされたい。

 力任せに死にたい。

 この独りよがりが終わったら、地獄に落としてくれ。

 記憶の一片すら残さずに、魂まで燃やし尽くしてくれ。


 誰がどれだけ本気で生きてきたかも知らずに、拳を振るった。

 どんなに大切に積み重ねてきたかも知らずに、蹴り飛ばした。

 その眼差しを無惨に引き裂いた。


 生きている実感が欲しくて、暴れていた。


 空っぽの身体を震えさすために、声が枯れても叫んでいた。


 眠りに就くその瞬間まで、戦い続けていたかった。


 「俺」が醒めてしまわぬように。




 …………退院してから、俺は叔母夫婦の養子となった。

 最早それまで同じように振る舞うことは、己を含む何もかもが許さなかった。

 故郷は遠い思い出の中へと霞んでいった。

 遥かな残響だけが、時々風に乗って届く。




 地獄に堕ちたいと祈った。

 だが、10年後に巡ってきたのは意外な運命だった。


 青春のラプソディが夢にも見なかった形で再び鳴り響き始めたのは、一体どういう因果なのだろう。


 とある秋の晩、俺を殺した幼馴染がひょっこりとまた俺の前に姿を現して、あろうことか俺以上に無軌道になって帰ってきた。


 アイツは俺がどこかへ捨ててきた衝動を、がっしりと胸に抱いて。

 俺が忘れた叫びを、けたたましく轟かせて。

 殴って、取っ組み合って、締め上げて、蹴り上げられて、

 揉み合って、引っ掴んで、ぶっ飛ばされて、

 這いつくばって、しがみついて、齧りついて、やって来た。


 彼の喧嘩は、恋のために、友情のために、平和のために、だと言う。


 それを聞いた時、空っぽの身体が確かに疼いた。

 理由のある喧嘩なんて大嫌いだったはずなのに、俺は彼が真っ向からぶつけてくる眼差しに、否応無しに飲み込まれた。


 遠くで波が砕けて、もう一度、「俺」が息を吹き返した。

 旅立ちの日がきたのだと、俺は即座に理解した。


 友と行くと決めるのに、一切躊躇いは無かった。

 失ったものは取り戻せない。しかし、その道の続きを行くことはできる。

 あの日々の意味を、これから見つけよう。



 …………もうちょっとだけ、子供っぽい話をさせてくれ。

 人生は短くて速くて、急流みたいに忙しない。

 だから、あとほんの少しだけ。


 そんなわけで、俺は新たな喧嘩のやり方を見つけなければならなくなったわけなのだが、これが困ったことに、さっぱり見当がつかない。


 伝えるために、ぶん殴る?


 はたして何を言っているやら。

 新天地は遥々水平線の向こうだ。


 それでも一つ、これだけは絶対に譲らないと決めていることがある。


 いざ喧嘩となったら、やはりまっさらな拳をぶつけよう。

 そしてこれと決めたヤツ1人。

 そいつだけは、何としてでも捻じ伏せてみせる。


 例えそれがどんなに頑なで狂暴なヤツだったとしても、最高の一発をお見舞いしてやる!

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