第225話 青い果実の味。俺がぺちゃんこのハートを抱えてお布団に潜ること。

 スレーンへと発つ、前日の晩。

 リーザロットがあんまりに忙しそうなので、俺とヤガミはくるみ割り人形達に混じって、彼女の事務仕事を手伝っていた。


 書かれた書類を封筒に入れ、その封筒に封蝋と印を施す。溶けた蝋に綺麗にハンコがキマると結構快感なのだが、5回やったら飽きた。


 部屋の扉の向こうには、今日も今日とてツンとお澄ましモードなフレイアが控えていた。

 前だったら、こんな時にははにかみつつ一緒に手伝って、色々と話してくれただろうに。

 食事も控室で独りで食べちゃうし、本当にもう取り付く島がない。


 …………もしかして、俺のことマジで嫌いになったのかな?

 よく考えてみたらアイツ全然大した男じゃなかったわ、何であんなのを「運命の人」とか言ってたんだろう、マジで恥ずかしい、完璧に闇歴史だわー…………的な?

 …………ないよなぁ。ないと言ってくれ、お願いだから。


 少しチャンスがあるとすれば、遠征には彼女が付いてくるということだった。

 クラウスは調査のためにエズワースへ行っているし、ウィラックはグレン同様、あちこちを飛び回っていて忙しいし、グラーゼイはあーちゃんの護衛やら雑務やらでサン・ツイードから離れられない。もう一人いる隊員のデンザは、基本的には紅姫様付きの護衛であるという(何でか気に入られているようだ)。

 そうなると、必然的に彼女が行くほか無いのだった。


「地竜って、どんな生き物なんですか?」


 ふいに、ヤガミが顔を上げてリーザロットに尋ねた。

 ああ、そうだったと、つられて頭をもたげた俺はぼんやり思った。


 今回、遠征に飛竜は使えない。ヴェルグの監視を抜けるために、陸路で行く予定なのだ。

 フレイアのことで頭がいっぱいで、新しい竜のことになんて全く気が回っていなかった。

 リーザロットはヤガミの問いに、朗らかに答えた。


「可愛い竜ですよ。ちょっと眠たそうな目をしていて、睫毛がとても長いんです。平地ではウマ程には速く無いのですが、粗食に耐える体力があって、どんな岩場でも楽々と駆けのぼってくれます。今回の遠征にはピッタリですよ」

「見た目は、あのセイシュウみたいな感じですか?」

「いいえ。緋王竜みたいに色鮮やかなものは、実は竜にはそんなに多くありません。ですが、今回乗る武竜ぶりゅうも、とても良い鱗の色をしていますよ。例えるなら樹齢を経た大木のような…………コウ君の瞳の色と、よく似ていますね。そう言えば」


 2人の視線が同時にこちらを向く。

 何となく気恥ずかしくなって、俺は急いで会話を継いだ。


「やっぱり、その武竜も操竜は難しいの? 乗り手には、懐く?」


 リーザロットが「そうですね」と考える素振りを見せる。

 彼女はちょっとだけ首をかしげて、扉の方へ顔を向けた。


「そうした性質については、フレイアの方が詳しいと思うのですが」


 向き直った彼女の、さりげない光を帯びた蒼玉色がくすぐったい。

 これはもしや、俺達の最近の様子について水を向けている?


 ヤガミはいつの間にか、しれっと作業に戻っていた。

 もうすぐ終わるっていうのに、何となくさっきまでより手際が悪くなっているのは気のせいじゃない。


 俺はわざとらしい2人に、素っ気なく言った。


「…………そうかな」


 後は特に続けず、俺は最後の手紙に蝋を落とし、印をじっくり押し付けた。

 リーザロットとヤガミが内心で肩を竦め合っているのが、心の目で見える。

 扉の向こうのフレイアにも聞こえているのかな。


 けどさ…………どうしたらいいって言うんだよ、全く。



 それから仕事が一段落し、部屋で休憩していた時だった。

 突如部屋の戸がノックされて、俺は同じ失敗は繰り返すことのないよう、ちゃんと服を着て扉を開いた。


「はーい、どなた?」


 間抜けな声の響いた廊下に立っていたのは、フレイアだった。


「…………あ」


 気後れして、一瞬言葉に詰まる。

 その隙に、フレイアはスッと俺の前に籠を差し出した。


「今朝、宿舎に戻った時にココさんから頂きました。コウ様にもお渡しするよう、言付かっております」


 籠の中を覗くと、いつぞやにももらったことのあるチュンの実が包み紙の上に2つばかり転がっていた。鮮やかなトルコ石色が瑞々しくて美味しそうだと、今の俺はすっかりサンラインの食文化に慣らされている。


 ココさんは、精鋭隊の宿舎の管理をしているおじさんだ。前にフレイアと一緒に精鋭隊の宿舎を訪れた時に紹介してもらった。

 フレイアを可愛がっている様子だったから、こうやってたまに差し入れをくれるのだろう。俺のことも覚えていてくれたようだ。


「あ、ありがとう」


 キョドりつつ受け取ると、事務的な声が返ってきた。


「ココさんに、そのようにお伝えしておきます」


 それでは、といって早々に背を向けようとする彼女を、俺は慌てて呼び止めた。


「あっ、待って!」


 少し躊躇ってから、ゆっくりとフレイアが振り返る。

 一歩半ほど俺から距離を取った彼女の表情は、相変わらずどこか頑なで、荒野の獣みたいだった。


「…………何でしょうか?」


 尋ねる彼女に一歩近づこうとすると、相手がそれより先に半歩後退る。

 俺はあえて追いかけずに、溜息を吐いて言った。


「わかっているだろう? どうして俺を避けるんだよ?」

「…………避けてはおりません。これが、本来の分際です」

「いい加減にしてくれ! この前も話した通り、俺は「依代」にはならない。勝手に君の中で話をまとめないでほしい。…………なぁ、下を向くなよ」

「まだ…………まだわからないではありませんか! 現に、今だって「依代」は決まっていらっしゃらない!」


 フレイアは床へ視線を突き刺したままだ。

 俺が無理矢理に覗き込もうとすると、今度は首を横に向けて逃げた。

 頬が赤くなっているのもあって、やたらに子供っぽく見える。

 俺は彼女に根気強く話した。


「他の人を探している暇は無かった。君だって知っているはずだ」

「それを仰るなら、これからだって時間はございません。明日にはスレーンへと出発いたします。帰ってくる頃には、間もなく決戦の期日です。一体いつ、「依代」となられる人と会われると言うのです?」


 声がいつになく上擦っている。人形の殻にはだいぶヒビが入りつつあった。霜焼けみたいな頬が可哀想だが、触ろうとしたらまた傷ついた野鳥の如く暴れるだろう。

 フレイアは小さな赤い唇を噛みしめ、言い継いだ。


「フレイアには分別がございます。…………「依代」はサンラインになくてはなりません。蒼姫様のお力が強くなられれば、交渉は必ず楽になります。本当は、スレーンとの交渉だって、すでに謁見が済んでいらっしゃれば…………フレイアがあの時、余計な邪魔などしていなければ、どれだけ説得力が増したでしょう?

 この国のために、私達は最善を尽くすべきです。…………コウ様も、そうは思われませんか?」

「…………それはそうだけど、だからって俺が「依代」をやるって話にはならない。君があの時いてもいなくても、俺は断っていた。俺には俺の都合がある」

「大勢の人が傷つかずに済むのです! そのために、どうしてフレイアなんかに構っていられましょう? 

 …………コウ様だって、蒼姫様と一緒にいらっしゃった方が遥かに幸せです」

「どうしてそんな風に決めつけるんだ? 俺は」

「私は邪の芽の宿主です! いつ蝕まれて己を失うか、わからないのです! たとえ貴方がそれで構わないと言ってくださっても…………それがどれだけ嬉しくても…………甘えてはならないのです! 私はサンラインの騎士です! 貴方は勇者様です!

 ですから、私は」


 ふいに口を噤み、潤んだ紅玉色の眼差しが伏せられる。地面よりも遥かに深い場所へと吸い込まれていく視線に、俺が言い知れぬ不安を覚えた時。

 フレイアが声を落として、呟いた。


「…………お断り、します」


 ドクン、と心臓が高鳴る。

 と同時に、全身の血が凍りついた。

 告白の返事だとすぐに悟るも、脳が言葉を受け付けない。

 大惨事を極める頭へ、さらなる一撃が加えられた。


「フレイアは、貴方とはいられません」


 次いで彼女は堰を切ったように、言葉を溢れさせた。


「無礼と未熟を承知で申し上げます! フレイアは貴方のお傍にいるのに、もうこれ以上は耐えられません!

 蒼姫様とお話なさる貴方のお傍にいると、嵐の前触れのように不穏な風が心に吹き荒れます! ヤガミ様と語らう貴方といても、朔の夜の森の中にいるような底知れない憂鬱に駆られます! ナタリー様を憂う貴方の気高い眼差しさえ…………痛くて…………。それがどれだけ汚らわしい感情と知っていても、止められないのです…………!」


 言いながら、フレイアが自分の片腕を強く掴む。細い腕がそのまま千切れてしまいそうで、胸が締め付けられる。

 近付こうとする俺を、暗い強い力が留めていた。

 今の彼女に触れれば、俺は二度と彼女の扉に触れられなくなる。


 フレイアは肩を微かに震わせながら、小さくこぼした。


「私は…………邪悪と共に生きております。まるで世界の裂け目のような闇黒が、私の内には横たわっています。

 いずれ世界に仇なすと…………鍛錬を怠れば、必ず飲まれると…………ずっと聞かされて参りました。

 …………自分でも予感がいたします。姿は見えずとも、囁きすら聞こえずとも、「それ」は常に私の傍らにおります。…………蔓草のように生い茂り、私の魂を静かに覆っていく…………」


 邪の芽が狼狽する俺に呼応して、何か嘲る。

 激しい怒りが込み上げてきたが、黙殺した。

 フレイアは心許なげに両肩を抱き、より深く俯いた。


「今だって、そうです。夜毎貴方のことを思うと…………私は、私でなくなるようです。…………怖いのです。弱く愚かな自分が…………。己がこんなにも厭わしいのは、初めてです。どうして、潔くこの刃で斬り付けられないのでしょう」


 フレイア、と呼びかける。


 彼女は耳を塞ぎ、首を振った。


「私は…………それでも、貴方の前でだけは醜くありたくないのです。私も、貴方や蒼姫様のように、美しくありたい。…………真似事でもいいから、偽りでもいいから、白く、ありたい。

 …………だから、お傍にはいられません」


 そっと歩みを進め、彼女の目の前に立つ。

「触らないで!」と悲鳴が聞こえた気がして、俺はただ立ち尽くしている。

 もう一度名前を呼ぶと、涙で真っ赤に腫れた目がチラとだけこちらを仰いだ。

 俺は一言、伝えた。


「待っているよ」


 大きく揺らいだ紅玉色から、小さな宝石みたいな涙が溢れる。


 さようなら、と赤い唇の形が動く。

 背を向け、走り出す彼女に向かって、俺はもう一度同じ言葉を繰り返した。


「ずっと待ってるから!」


 フレイアは振り返らなかった。

 俺の足は釘で打止められたように動かなかった。

 俺の大切な人は、風となって廊下の闇の奥へと消えて行った。



 部屋に戻ってから、俺は意気消沈してチュンの実を食べた。

 予想通りフレッシュで美味かったが、前に馬車の中でフレイアと一緒に食べたなと思い出したら、途端に何もかもが味気なくなった。


 包み紙の下に俺宛ての手紙…………たどたどしい日本語の手紙を見つけた時には、それでも滅茶苦茶驚いた。


 おっかなびっくり開いてみると、果たしてココさんからだった。

 どこで調べて書いたのかわからないが、インクの滲みや掠れから、相当苦労してしたためたことが窺えた。



「ミナセさま


 とつぜんのおてがみ しつれいします。

 はじめてで よみにくい もうしわけありません。


 このチュンのみ しんせんです。

 きっとよろこんでもらえる おもいます。

 ぜひ フレイアさまといっしょに あじわってください。


 フレイアさまのこと どうか よろしくおねがいいたします。


 どうか ずっとなかよく いてあげてください。



 あなたに めぐみを


 ココ」



 俺は手紙の文字をしみじみと追い、それから溜息を吐いて、丁寧に畳んで机の引き出しにしまった。


 暗い窓の外から、陰鬱な目をしたタカシが何か訴えかけてくる。

 未練がましいその顔色は、何となく霊ノ宮の宮司に似ている。


 俺はうんざりして明かりを消し、いじいじと布団に潜り込んだ。

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