第219話 リーザロットの想いは露と消えて。俺が雨降りの夜に全力疾走すること。

 すぐには返せなかった。


 「依代」。

 その言葉はこれまでに何度も聞いてきたけれど、俺が理解している限りでは、それはまさに、一国の行く末を大きく左右する歴史的決定であった。


 このサンラインを支える三寵姫達と、国の絶対守護者たる「裁きの主」を繋ぐ者。

 自らの身体に「裁きの主」を降ろし、主と姫が共力場を編む仲介となる。

 「依代」は姫に対して…………いや、サンラインに対して、巨大な影響力と責任を持つ。


 おいそれと引き受けられるものでは、決して無かった。


「…………すぐに返事のできることでないのはわかっています」


 リーザロットが静々と語る。

 彼女の口調は、考えていたことがようやく堰を切って溢れ出たというよりも、冬に積もりに積もった雪が、もうついに耐え切れなくなってやっと溶け始めたという感じだった。

 雪解け水はサラサラと俺の身体を伝い、浸み込んでいく。


「「依代」は主の仮の御身。主はこの世界を隈なく見つめておいでですが、「依代」となった者にはとりわけ強く、近しい眼差しを向けられます。

「裁きの主」の存在は、魔海に深く浸れば誰しも感じることができます。不信を抱く者にすら、裁きでもってその在り様を示されます。

 サンラインに恵みの雨を降らせ、この地に生きとし生ける者全てを永久に見守り続けている…………大いなる存在。

 今回の作戦のためには、私はどうしても主との謁見を叶えねばならないのです」


 リーザロットが紡ぐ言葉を、俺は頭の中で解いて、また編み直している。

 この地のあちこちで耳にした主への祈りが、自然と彼女の言葉に重なっていった。


 人々の信頼と畏れを一身に受け、君臨する。

 俺は一度、そんな「裁きの主」の目に見入られたことがある。

 紡ノ宮で、ヴェルグが呪われ竜を利用して「赦しの主」…………「母なるもの」を呼び寄せようとした時のことだ。


 俺は彼の扉に開き、危うく存在ごと飲まれかけた。

 幸いあの時はツーちゃんの助言もあって事無きを得たが、あれ程に恐ろしい目に遭ったことは、こっちへ来てからさえも他に無い。


 俺は一度暗い窓ガラスに映った自分へ目をやり、それからリーザロットに素直な気持ちを打ち明けた。


「ごめん…………。正直、自信が無い」


 リーザロットが悲しそうに俯く。

 彼女の今にも泣き崩れそうな表情はしかし、限界で留まっていた。


「ええ…………。そう…………ですよね。普通に考えたら、断られて当然と私も思います。第一…………コウ君には、フレイアがいるものね」


 狼狽することすらできず身を強張らせたのを、リーザロットは特段感情を露わにすることなく見つめていた。

 蒼くたゆたう瞳に映る俺から、俺自身が逃げたくなる。


 フレイアとのこと、いつ気が付いたのだろう?


 …………えぇと。


 今、話すべきは…………、

 …………何て言おう?


 口ごもる俺に、リーザロットは優しく微笑みかけた。


「お2人を見ていればわかりますよ。それに…………白状しますと、本当は最初から知っていたんです。貴方の心に誰が住んでいるのか。貴方の一生懸命な…………私の大好きな貴方の眼差しの先に、どんな色の瞳が灯っているのか」


 ごめん、と口をついて出る。

 項垂れかける俺に、リーザロットは柔らかく言い継いだ。


「謝らないでください。それはきっと、とても幸せなことです。貴方にとっても、あの子にとっても…………。

 私の想いはあの朝、露と一緒に消えました。…………すっかり消え去ったんです。ですから、どうか気に病まないでください。貴方とあの子が並んで笑っているのを見るのが、私は心から好きなんです」

「…………ありがとう」


 寂しさがチラチラと揺れる蒼玉色は、それがために一層美しく、奥ゆかしく見える。

 彼女の白い頬に、桜色の唇に、艶やかな黒い髪に、ほっそりとなだらかに落ちる肩に、誰かがとびきりの祝福を与えてくれたらと思う。


 彼女の満たされた顔が見たい。

 彼女に寄り添って、彼女をゆっくりと眠らせてあげられる誰かがいてほしい。


 裁きの主は、彼女を安らがせはしないのか。

 彼の寵愛は、あくまでも力でしかないのか。


 「蒼の主」へとひたすらに注がれる、強過ぎる眼差し。


 リーザロットは、どこで泣いたらいい?


「…………コウ君は優しいね。…………また、いけない期待をしてしまいそう」


 リーザロットが儚く笑う。

 言葉とは裏腹に、瞬き一つ、指先一つの所作に、さりげないよそよそしさを感じた。

 優しくたおやかに、さりげなく俺を対岸へ押しやる。


 前から薄々気付いてはいたが、やはり彼女には俺の心が読めるらしい。だけど俺には、彼女がわからない。俺はもう彼女の奥深くへは、入っていけない。行かないことを選んだ。

 わかってあげたいと願うことさえ、今となっては残酷だ。


 俺は笑い切れない微笑みを返し、黙った。

 リーザロットは遠い川岸から、俺に話しかけた。


「…………「依代」のことは忘れてください。貴方がもし受け入れてくれたらと…………ありうるべくもない夢に縋っていました。

 冷静なつもりではあるんです。会えば会う程に、西方区領主様が…………彼と共力場を編むのが、難しくなっていて、あのままではとても「依代」として添い遂げることはできないと考えていたんです。

 コウ君はいつも一緒に戦ってくれて、とても頼りになるから…………つい甘えてしまいました。…………」


 リーザロットは言い掛けた言葉を押さえるように、組んだ手を胸へ深く沈み込ませる。

 外では雨が降り始めていた。窓ガラスをポツポツと細かな雫が伝っていく。

 たちまち雨脚は強まり、庭の葉を打つ雨音が部屋に響き始めた。


 リーザロットは顔を上げると、さっぱりとした笑顔でこう呟いた。


「…………もう行きますね。貴方とフレイアに、恵みの雨の降らんことを」


 リーザロットがすっくと立ち上がる。

 揺れたスカートの裾から覗いたか細い素足が、今晩はやけに寒々しい。


「…………おやすみなさい」


 言いながらリーザロットが部屋の扉へ手をかける。


「あ…………おやすみ」


 立ち上がって見送ろうとした時だった。

 廊下で、小さな物音がした。


「…………誰?」


 声を掛けながら扉を開けると、走っていく細い背中が見えた。

 暗い中でも目立つ、白い銀髪。カモシカのような軽やかな走り方。凛と腰に差さったレイピア。


「フレイア?」


 呼びかけに彼女は答えず、風のように走り去っていった。

 後ろから覗き見ていたリーザロットが、俺の背をぐいと強く突き出した。


「いけません! 早く追いかけてあげてください! きっと中庭にでも向かっているはずです!

 いつから聞いていたのかしら…………?」


 全く気付かなかったと、リーザロットが蒼く揺れる瞳を大きく瞠らせる。

 俺はリーザロットを残して、ともかく全力で走った。


「待って、フレイア! どうしたんだよ!? 何で逃げるんだ!?」


 俺はどんどん小さくなっていく彼女の背中に、必死でくらいついた。

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