第205話 蒼き姫の切なる願い。俺がテッサロスタの血の雨に濡れること。
俺とあーちゃんは、リーザロットが普段使っている書斎へと通された。
あーちゃんは館を飾る豪奢な調度やシャンデリアに目を白黒させながらも、何とか平静を取り繕っていた。
誰にともなくこぼされた彼女の呟きは、聞きようによってはどこか嬉しそうにも聞こえた。
「…………夢の中みたい」
実のところ、それは何も間違ってはいない。
この館は、彼女がこれから嫌と言う程思い知ることになるであろう魔術の、その粋を集めたみたいな場所なのだ。
魔術師は夢と現の境をいともたやすく、鮮やかに乗り越えていく。
狂おしく魂を燃やして華麗に花咲き、いずれ灰よりも雪よりも儚く、あるいは嵐の如く壮絶に、散る。
俺は駆け出しと呼ぶのすら憚られる程の、広大な魔海にほんの爪先を突っ込んだばかりの魔術師だけれど、それでも全身を投げ出したくなる高揚はわかる。
気付けばすっかり夢中になって、どうしようもなく魂を剥き出しにしている。
グラーゼイが扉の前に立って、ノックと共に俺達の到着を告げた。
「蒼姫様。グラーゼイです。「勇者」殿とミナセ殿を連れて参りました」
「…………ありがとう。どうぞお入りください」
凛として軽やかな、懐かしい響きが耳を撫でる。
グラーゼイが扉を開けると、そこには大海原を照らす月夜の如く麗しいリーザロットが立っていた。
「お帰りなさい」
蒼く、深く、魔海の豊饒な輝きを哀しいぐらいにいっぱいに湛えた眼差しが俺を認める。
俺は微笑み、返した。
「…………ただいま」
リーザロットの隣には、グレンがいた。
疲労で若干頬がこけているが、ロマンスグレーのヘアスタイルは今日も綺麗に七三に分けられ、襟もローブも一片の瑕瑾もない。
彼は理知的に灯るヘイゼルの瞳を微かに細め、あーちゃんを見つめた。
「ああ…………本当に、そのようだな」
彼はサンライン語で噛み締めるようにそう言うと、畏まって頭を下げ、オースタンの言葉で話した。
「初めまして、「勇者」君。…………ようこそ、古き魔術の大都・サンラインへ。君がこの地に導かれたのは、大いなる因果の成せる業でもあろう。
全くもって恐縮だが、この国の存亡は…………いいや、それに留まらず、君の祖国・オースタン…………さらに言えば、数多の時空に渡って存在するこの「世界」そのものが、君の手に丸ごと委ねられている。これは、比喩ではない。
…………話をしよう、ともかくも」
あーちゃんは唖然として、眼前の魔導師を眺めていた。
それから彼女はぶるっと身を震わせ、弱々しく拳を握って俺を仰いだ。
俺は彼女の肩を支え、グレンに言った。
「あんまり脅さないであげてください。この子、俺の妹なんです」
「そうだろう、そうだろう。一目見てわかった。君達はよく似ている。その力の在り方、大地のような色濃い眼差し。…………誠にそうでありましょう、蒼姫様」
リーザロットが頷き、静々とこちらへ歩いてくる。
滑らかな藍一色のドレスを纏った彼女は裾をつまんで優雅に一礼すると、あーちゃんに向かって優しく、鈴を転がすように話した。
「こんにちは、とても愛らしい「勇者」様。私は三寵姫、「蒼の主」のリーザロットと申します。このような形でのお迎えとなってしまった非礼、深くお詫び申し上げます。
…………グレンの言う通り、こうしてお姿を拝見しておりますだけで貴女のお心のしなやかさ、純粋さが苦しいぐらいに伝わって参ります。本当に…………コウ君とおんなじね。温かで…………ホッとする…………」
蒼玉色の瞳に、しっとりと淡い霞がかかる。慎ましく編み込まれた髪の下のうなじの白さに、首筋に未だ微かに残る赤い傷跡が生々しくて、俺は息を詰まらせた。
あーちゃんは顔を上げて、リーザロットをじっと見つめ返していた。きっと見惚れているのだろう。彼女の蒼玉色の瞳に吸い込まれていく感覚は、俺も身に染みて知っている。彼女の海がみるみるうちに自分の中に満ちて、溢れて、魂が包まれていくんだ。
ふと俺は、テッサロスタへの遠征の朝の、彼女のキスを思い出した。
柔らかな唇。甘い共力場の感触。永遠にとろけてしまいたくなるような一瞬。彼女の想いに、俺は応えられなかった。
彼女の寂しそうな笑顔が音も無く滴って消える。
あの朝の透き通った冷たさだけが、胸に残る。
リーザロットはゆっくりと瞬きし、話を継いだ。
見開かれた眼差しは、涼やかな星空を湛えていた。
「…………このサンラインは今、大変な危機に陥っています。ジューダムという国との全面戦争が迫っているのです。
和平のために行った遠征も、結局のところ、正反対の結果に終わってしまいました。ジューダムに協力する「太母の護手」の力は削いだものの、テッサロスタで有力な捕虜を得て、ジューダムの力はますます強大なものとなりました」
俺は口を挟みたい衝動を堪えた。
リーザロットもそれがよくわかっているらしく、俺とあーちゃん、そしてグラーゼイに椅子に座るよう勧め、こう続けた。
「…………グラーゼイ。よければ、あの時の戦いの様子を語ってはいただけませんか? グレンに任せると、専門的になり過ぎるきらいがありますから」
グレンが不服そうに眉を寄せる。グラーゼイは軽く咳払いすると、「承知いたしました」と堅苦しく返事し、三角の耳をピンと行儀良く立てて語り始めた。
「ジューダム王はミナセ殿を取り逃した後、自軍の兵士を動員し、テッサロスタ全域にわたる広大な魔法陣を編成しました。この際に魔力の糧となり戦闘不能に陥った敵軍の兵士は凡そ100名。対し、我々に協力していた錬金組合の魔術師189名、及び独立派の武装市民166名が死亡。一般市民への犠牲はグレン殿の相殺障壁により、その時はごく軽微に留まりましたが、高位魔導具鋳造所、及び東方区領主館を含む重要施設が市街全域において破壊されました。
この第一の大規模攻波の間、ジューダム王の獣型魔力「
その後、ジューダム王が意識不明状態のナタリー殿を捕獲。現在、彼女は敵の捕虜となっているものと考えられます」
「…………おい、嘘だろう!?」
思わず立ち上がった俺に、グラーゼイが重々しい眼差しを向ける。
彼は感情を滲ませることなく、言葉を重ねた。
「誠です。…………この目で、確と拝見いたしました」
「顎門の牙って…………!? 俺、こんな所にいる場合じゃ…………っ」
「ミナセ君、落ち着きたまえ」
グレンの張りのある声が俺をたしなめる。
彼は険しいが、落ち着いた調子で言い加えた。
「彼女はジューダム王の手元にある。水先人の彼女の力は、王にとっても価値あるものだ。恐らく丁重には扱われるであろうが、救出は容易ではない。それがわからぬ君ではないだろう。
…………深呼吸をしたまえ。焦っては、何一つ上手くいくまい」
俺は言い返そうとして、寸でで言葉を飲み込んだ。
逸る気持ちを抑えて、胸に大きく空気を入れ、丁寧に吐く。
こんな風に頭に血が昇ったり、気分が暴れ出すのをいちいち許していたら、扉の力だってまともに使えなくなってしまう。馬鹿な癖をつけている場合でこそ、無い。
俺は目を瞑り、改めて席についた。
「…………ごめんなさい。続けてください」
グラーゼイは瞼も耳もピクリとも動かすことなく、端然としてその通りにした。強い怒り…………自責の念からくる己への憤怒が、彼の黄金色の瞳にギラギラと凝結していることに、その時俺はようやく気付いた。
「…………それからまもなく、第二波として2体の高位魔人が召喚されました。ジューダム王の近衛兵・ローゼス、及び魔人2体を相手に、タリスカ殿が交戦。戦の間、市街上空にて濁竜の群れと戦闘状態にあったシスイ殿の言によれば、タリスカ殿は…………この時、禁術である古代の魔術を使用したといいます。理由は不明です。私が直接見たのは、騎竜もろとも深手を負わされ撤退するローゼスと、黒き肉泥の雨と化した魔人共の姿だけでした。タリスカ殿は禁術の反動で…………」
俺が「まさか」と肝を冷やした途端に、リーザロットの声が遮った。
「心配はいりません。彼は今、開かずの間に引籠ってとても元気に修行中です。禁術の反動など、彼にはさして問題ではありません。…………あの人の問題は、そんなことではないの」
彼女の見せた表情に、俺は驚きを隠せなかった。
しとやかで、いつだって何だって受け入れ許してくれる女神のようなリーザロットが、こんなにあからさまに怒っているのは初めてだ。
長い睫毛の下の蒼玉色の瞳が、大雨に打たれた水面みたいに激しく揺れている。感情を露わにした彼女の頬は、若干紅潮していた。
あくまでも上品な面持ちだが、それでもどうしても抑え切れない情熱が眉間を強張らせ、纏う気をほのかに湯立たせている。
グラーゼイも微かに耳を伏せてたじろいでいた風ではあったが、すぐに気を取り直して話を再開した。
「…………続けます。
魔人の消滅とローゼスの退却を機に、第三波が放たれました。これによって、正確な数は定かではありませんが、敵軍の濁竜数十頭、及び敵軍に同行していた「太母の護手」らが生贄となり、未知の魔獣…………恐らくは裂け目の魔物の
我々の陣営は「顎門」と交戦中のタリスカ殿を除き、総勢で相殺障壁の編成へと回らざるを得ませんでした。…………力及ばず、テッサロスタ市民に多くの犠牲者が出ました。いずれの遺体も損傷が激しく、身元の確認は依然、継続中です」
グラーゼイが一旦言葉を切る。淀みの無い口調の中にも、暗い響きは拭えなかった。
テッサロスタの街を襲った血の暴風雨が、俺にも吹き荒れる。
グラーゼイは姿勢も表情も、鋭く光る眼差しも揺らがせぬまま、また話し出した。
「同時に、レヤンソン郷からジューダムの援軍が到着。きたる第四波に備えるべく、止む無く障壁を一部解除した所で、我が軍の総指揮官であるヴェルグ様が到着なさいました」
「…………見計らっていたような具合であったな」
ボソリとグレンが呟く。
リーザロットは何も言わず、真っ直ぐにグラーゼイを見つめている。
グラーゼイはグレンの言葉を拾うでも拾わないでもなく、話を続けていった。
「…………ともあれヴェルグ様と配下の魔術師達によって、多くの市民が救われました。
ヴェルグ様と相対したジューダム王はしばらく応戦した後、さすがに分が悪いと判断したのか、攻撃の手を止め、交渉を持ち掛けてきました」
あのヤガミの灰青色の瞳が俺を睨み据える。アイツは一体、どんな気持ちでこんな虐殺の場に立っていたのだろう。
あーちゃんを見ると、彼女は不安も困惑も悲しみも寂しさも全部ごちゃ混ぜにしたような目つきをして、全力で平静を装っていた。
誰の真似をしているんだか、誰の目を気にしているんだか知らないけれど、俺はそんな彼女が一層可哀想でならなかった。こんな話を聞かせないで済むなら、どれだけ良かったろう。
グラーゼイの話は、なおも続いた。
「卑劣にも、ジューダム王はナタリー殿を人質に取っておりました。王はテッサロスタからの自軍の一時撤退を条件に、決戦の延期を提案しました。ヴェルグ殿はテッサロスタにこれ以上の損害が出ること、そして前線での戦況を案じ、それを受け入れられました。
…………ジューダム王が提示した決戦の地は、エズワース。期日は次の満月の夜…………今宵より、20日後の晩です」
グラーゼイが黙り込む。
俺は長く溜息を吐き、俯いた。
元より甘い予想はしていなかったが、こうして現実に聞くとやはりショックだ。
リーザロットは小さく頷き、話を引き取った。
「ありがとうございます、グラーゼイ。
…………2人とも、何か聞きたいことはありますか?」
尋ねられて、俺は黙って首を横に振った。今は何も言えることが無い。ついにここまで来てしまったという絶望が、じりじりと肺から咽喉へせり上がってくる。
あーちゃんは躊躇いがちに、ポツリと零した。
「私…………何をしたらいいんですか…………?」
リーザロットは途方に暮れているあーちゃんへ、穏やかな眼差しを向けた。
「これから貴女は伝承に謳われる力について、このグレンから聞くでしょう。その力の大きさに…………途方も無さに、きっとひどく驚かれるかと思います。私も三寵姫として選ばれた時に似た経験をいたしましたが、「勇者」様がお受けになる衝撃は、あるいはそれ以上のものでしょう…………。
ですが、まずはぜひ申し上げたいことがあります。
どうか、私達を信じてください。私はこの世界が…………私の未だ知らない、もっともっと広い世界も含めて…………大好きです。例えどんなに向こうから厭われたとしても、です。
ですから、もし貴女がグレンの話を聞いた上で、何をすべきかわからないのであれば、ただ私と…………一緒にいてくださいませんか? 私は貴女が貴女自身で決めない限り、決して伝承の役割を求めたりはいたしません。貴女が貴女の心と共に世界を選んでくれることを、私は願っております」
あーちゃんは納得がいかない、というより、どう受けとめていいのかわからないという面持ちで、歯切れ悪く返した。
「でも…………やらなきゃ、リーザロットさんのこの国は…………戦争に負けちゃうかもしれないんでしょう…………? 街の人達だって、酷い目に遭う。そしたら、そんなの、私の勝手には…………」
「いいんですよ。私はずっと和平を願って、主にこの身を捧げてきました。国も、世界も、時空も越えて、ただそこにある命が無惨に踏みにじられること無く、愛されてあることを私は願っています。
本当は、争いも悲劇も避けられないものであるのは、わかっています。それは世界の一つのあるべき形とさえ、呼べるものだということも。
それでも私は、どこかに愛のあることを願いたい。…………この手で守れるものを、守りたい。
…………だからこそ、「勇者」様の心も、尊重したいのです」
あーちゃんは、今度は何も言わなかった。
リーザロットの言葉の意味を、何度も頭の中で辿って考え直している。そんな風に見えた。
俺はその隣で、あーちゃんがリーザロットの願いを詭弁だと見做さないでいてくれることを、誰へともなく――――俺達を見つめている存在は、あまりにたくさんいたから――――祈っていた。
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