第188話 まつろわぬ魔族の対話。俺がアカシックレコードの一端に触れること。

「何のつもりだ?」


 俺が問い詰めると、邪の芽は心底憎たらしい笑顔で答えた。


「わからないか? 助けてやろうとしてるんだよ。お前だけじゃ、コイツには手も足も出ないだろう」

「今まで何してたんだ? どうして今頃になって…………」

「うるさいな。黙ってろ」


 言いながら邪の芽がスイと人差し指を横にスライドさせると、俺はたちまち口がきけなくなった。息はできるけど、声が出ない。パクパクと虚しく口を開閉させているうちに、邪の芽と赤紫色の雲…………書庫の王とやらが、話し始めた。


「貴様…………邪の芽か。なぜそのような姿でいる? 見苦しい」

「品性にも威厳にも欠けるのには違いないな。まぁ、喋りやすいから…………というところにしておこうか」

「…………何の用だ? よくもおめおめと私の前に姿を現したものだ。貴様のような下賤な寄生虫、本来ならば口を利くのも憚られる」

「ふん、声が震えてるぜ」


 邪の芽が喋ると、俺の声なのに全く俺らしく聞こえない。

 ヤツはおよそ俺からかけ離れた、涼やかな話しぶりで続けていった。


「ま、無理もないことだ。

 承知の通り、俺はお前が目障りだ。隙あらば我が炎で灰燼に帰してやろうと、常々考えてきた。俺の混沌に観測者は不要だ。お前が司書を気取る「永久の記憶」などというものは、俺の理想に全くもって馴染まないからな」


「永久の記憶」。どうも俺の傑作がそこに記録されてしまったという話らしいが、それにしたって、あのエルフの悪趣味な日記がそんなに大層なものなのだろうか。

 諦めて黙って腕組みしている俺へ、書庫の王がおぞましい複眼の視線を向けた…………かに見えた。(正直、どこを見ているのかよくわからない)

 彼女の声は、低かった。


「…………その男、リリシスの縁者か?」


 虫が耳元を掠めたような感覚に、俺は思わず身を固くする。

 対する邪の芽の軽妙な口調が、緊張をさらに高めた。


「さぁな。興味が無い。だが、この男がお前を救う唯一の希望となるだろう。早まらない方が身のためだ」


 赤紫色の雲が不穏にざわめく。

 よくよく見れば、それは無数の小さな羽虫の大群であった。羽音も聞こえない程だが、一度気付くと虫達の翅と脚の動きが、まるで肌で触れたかの如く生々しく伝わってきた。

 俺は鳥肌を立て、身を震わせた。


「…………蛆虫めが。私を脅す気か」


 怒りにわななく書庫の王を、邪の芽はさらに煽っていった。


「さすがに物分かりが良いじゃないか。…………そうだ。この男を解放しさえすれば、俺はお前を見逃してやろう。次も、というわけにはいかないがな」

「外道が」

「知れたことを。…………で、どうする? お前を殺せば、このエルフの本は束縛力を失う。「永久の記憶」との繋がりが断たれた書物は最早、ただの変態の観察日記に過ぎない。他の数多の書物と同じく、雑多な人間の深層意識を介してという迂遠な方法でもってしか永久と繋がれなくなるだろう。この男は多少俺の力で補えば、程無く外へ戻る。どちらにせよ、俺には何の損も無い」

「だが…………いずれその男はあのエルフの手にかかって死ぬだろう。それでも貴様はそやつの解放を望むのか?」


 その点は俺にも気掛かりだった。邪の芽は一体何がしたいんだ。

 俺が睨んでいるのを察してか、邪の芽が目線だけでこちらを振り向く。彼は邪悪な黒い炎を微かにその瞳に瞬かせ、それからまた書庫の王へ視線を戻した。


「構わんさ。俺はヤツの理想には干渉しない。ヤツが母と呼ぶ存在、あの「赦しの主」は、いわば俺の最終目標だ。俺とはそもそも相性が良いし、何よりあれを引きずり出して葬るために俺は蛇の娘を…………っと、いかんな。どうにもこの男の身体は口が滑りやすい。頭だけでなく、口まで軽いようだ。煩わしい。

 まぁともかくも、その男がエルフの昏い夢に飲まれるならば俺は構わない。この男は漆黒に溶けるが、失せるわけでは無い。だがこの本に…………お前に取り込まれるとなると、少々話は違ってくる。

 お前も身に染みて思い知ったように、この男には特異な才がある。「永久の記憶」から遊離したお前がその男と融合すれば、脅威とまでは言わないにせよ、面倒ではある。この男は書庫の時空を自在に歪ませる。コイツは記憶という領域において、新たな時空を無限に作り出せてしまう。それはつまり、お前にクソ強力な自己再生能力を吹き込むことに他ならない。何度でも殺せばいいという理屈もあるが、それはさすがに鬱陶しくてな。

 で、俺はわざわざこの醜い姿を晒してまで出張ってきたというわけさ」


 黙って聞いていれば、散々人のことを馬鹿にしてくれやがって。相変わらずフレイアに執着しているし、本当に油断できない。

 書庫の王は一層声を低くして話した。


「ふん、貴様如きにむざむざやられる私ではないわ。そのリリシスもどきの阿呆面もろとも、太母の胎内に即刻、還してやる」


 書庫の王は俺達を睨めつけながらも、ふいに緊張を解いて羽虫の雲を柔らかく霧散させた。

 俺そっくりに邪の芽が目を瞬かせる。

 書庫の王はそんな邪の芽と俺とを見下ろしつつ、幾分和らいだ言葉を継いだ。


「…………と、言いたいところだが、止めておこう。

 おい、そこのリリシスもどき。貴様が今考えていることを当ててやろうか」

「へっ?」


 急に言葉が出て驚いたのは俺一人であった。

 邪の芽は冷めた眼差しを俺へ向けている。俺はどこか納得がいかないと内心で首を傾げ、書庫の王に答えた。


「えっと…………瞬きについて、かな?」

「馬鹿めが。もう一つあるはずだ。貴様のその気配こそが、世に並ぶ者無きこの私を怯えさす、唯一のものだ」

「…………」


 悩んで眉を顰めていると、書庫の王は痺れを切らして怒鳴った。


「恍けるな!! 貴様、あのおぞましい物語の続きを書こうとしているだろう!! ああ、ああ、みなまで言うな!! 貴様の考えることなぞ、私には一切合切お見通しなのだ!! 貴様は私に、あの耐え難い拷問的な搔痒感を幾度となく与えるつもりだ!!」

「…………え? いや、それはまぁ…………良い所だったし。コンクールはまだ予選さえ始まってないし…………」


 俺が答え終わるより先に、この世のものとは思えない唸り声が闇を震わせた。

 赤紫色の雲が乾いた血のようなドス黒い染みの集合に変わり、彼女の複眼はギラギラと内に秘めた光を明滅させた。羽虫達の興奮と恐慌が、俺の鼓膜をブツブツと豪雨の如く打つ。

 相手のあまりの取り乱しようにすっかり竦んで黙っていると、邪の芽が俺に囁きかけてきた。


「余程だな。お前の話にアレルギー発作を起こしている。世にはもっとおぞましい書物が溢れているだろうに、なんでそんなに嫌われたものかね、文豪殿?」

「…………っていうか、物凄く失礼じゃない…………?」

「何であれ戦わずして済むのは好都合だ。このまま押せ」

「命令するなよ」

「お願いするか?」

「気色悪い」


 俺は邪の芽が肩に置いた手を振り払い、書庫の王を追い打つべく声を上げた。

 言うことを聞くのは癪だが、確かに今は行動すべき瞬間だった。


「書庫の王! 俺からも頼みたい。俺を解放してくれないか?」


 書庫の王の無数の眼差しが俺を一斉に貫く。射竦められた俺の頭は一度真っ白になったが、それでも何とか気を取り直し、続けた。


「その…………自分で望んできたわけだし、もうちょっとは頑張らなきゃ意味がないってのも、わかる。けど、俺にはアンタのやり方はどうも合わない。っていうか、アンタに俺のやり方は合わない。一旦出直して考えてみるってのは、アリなんじゃないか?」


 圧倒的無言と、微かで単調な羽音が闇に響く。

 俺は胸が押し潰されるような圧迫感に、息を飲んだ。

 冷静に考えれば、まず通るはずの無い話だ。そもそも書庫の王とあのエルフとの関係はどうなっているのだろう? 普通ならば、俺が完全に洗脳されるまでは出られないようになっているはずだが…………。


 心配になって邪の芽を振り返ろうとしたが、思い留まった。ヤツの視線もまた、長く尖った針と化していた。


 やがて短くも長い沈黙を破り、書庫の王が口を開いた。


「…………正直に答えろ。貴様、なぜここへ来た?」


 俺は激しい心拍の乱れを表へ出さぬよう、慎重に返した。

 勇気か狂気か、もう自分でもよくわからない。


「俺の考えていること…………全部わかるんじゃないのか? わかった上であえて聞いているのなら、野暮だね」


 不器用な微笑みを継ぎ足すも虚しく、書庫の王は淡々とした口調で俺を斬って捨てた。


「下らん。そんな物言いで格好がつくと本当に思うのか? その小さな卑怯を抱く限り、貴様は真の「勇者」には永遠になれまい」


 ううん、ツーちゃんが懐かしくなる、この毒舌。

 俺は喋りかけ、結局は押し黙った。

 書庫の王は失望も落胆も見せずに、同じ具合で続けた。


「ハ、この程度で襤褸を出しよって。

 …………身の程を知るがいい。矮小な人間に成せる業ではないのだ、告白は。それを成すためには、元より狂っているのでもない限り、大層な時間が掛かる。この本の所有者であるあのエルフも、その弟子であったサンラインの貴族も、貴族の教師であったジューダムの魔術師も、皆、それを乗り越えてきたのだ。道のりはそれぞれ違えど、誰もが貴様とは決定的に違う段階の覚悟に達していた。

 貴様は頑なに己のやり方を通そうとする。だが、真にそれで良いのかと省みたことはあるか? 私が貴様を厭うのは、概ねはその稀にみる毒々しい俗にまみれた創作性によってだが、その強大な力に伴わぬ脆弱な精神性においてでもある。

 あえて宣言しよう。これは老婆心であり、打算でもある。私は貴様を解放することに異存はない。あのエルフは傲慢にも、私を器物か何かと思いなしている。これまではさして害も無い故、痴れ者の戯言と見過ごしてきたが、そろそろ報いるべき時がきたと私は決断する。

 そして、何よりも」


 書庫の王の大量の眼球がギラつき、その全てが邪の芽を捉える。邪でかつ不敵な笑みを微動だにせず見つめる複眼は、いっそ芸術的な迫力さえ帯びていた。


「邪の芽…………そやつは時が満ちたその時、貴様を喰らうだろう。だが、私はそこにこそ勝機を見る。

 …………人間よ、強くあれ。私と貴様が馴染まぬは、最早運命であろう。貴様はあのリリシスと同じく、永遠を旅する定めにあると見える。

 覚悟せよ、人間。仕える主は問わん。いかに卑俗でも構わん。だが、鋼の如く己を叩き上げろ。腹に巣食う毒虫を殺すは、自らの熱と刃のみだ」


 邪の芽が笑って何か茶々を入れる。

 俺はそれを遮り、書庫の王に言葉を投げた。


「ありがとう…………と言っていいのか、わかんないけど。とにかく、感謝するよ。

 …………最後に一つ、聞いても?」


 複眼は何も言わずに俺を見据えている。

 俺は若干の緊張と恐怖を握り拳に押し込め、尋ねた。


「「永久の記憶」って、なんかこう…………色んな時空の、あらゆる記憶が記録されているところって感じだろう? アカシックレコード的なさ。

 それなら、良ければ外へ出る前に、ついでに教えてほしいことがあるんだ。そこに地球…………いいや、オースタンって世界の記録は、残っているか?」


 邪の芽の囃し立てを無視し、書庫の王が言った。


「ああ、あるぞ」

「オースタンは一度崩壊したことがあるって…………本当のことなのか?」

「…………」


 書庫の王の溜息が、その姿をゆっくりと四散させていく。巨大な複眼が、まるで瞼に包まれた一つの眼球のように閉じられていった。

 慌てて問いを次ごうとする俺に、彼女は短く答えを放って消え去った。


「…………10年前だ。貴様の時間ならな」


 言葉の後には、余韻すらも残らなかった。

 あんなに集っていた羽虫達は幻の如く闇に溶け、墨で綴ったト書きも、今はどこにも見えなかった。

 あるのはただ、俺と邪の芽だけであった。


 邪の芽はつまらなそうに頭の後ろに腕を組み、振り返った俺に白い歯を見せた。


「さ、帰ろうぜ。…………何、礼は要らねぇよ」


 次いで彼が一言、俺の声で俺の全く知らない言葉を吐く。

 それが何らかの呪文であったのか、意味の無い戯れに過ぎなかったのかは定かでない。


 だがその次の瞬間、俺は業火猛るエルフの地下宮殿の中へと見事に引き戻されていた。




「――――――――…………ッ!!!」




 我に返ったのと同時に、足下にドサリと革表紙の本が落ちてくる。

 熱風で開かれたページを覗いてみると、そこには見渡す限り、真っ白な空白が広がっていた。

 邪の芽はすでに俺の内に帰ったのだと、右掌の傷が熱を噴いて告げている。


 そうこうするうちに、俺の目の前が陰った。


「…………っ!」


 慌てて見上げてみると、そこにはこの上なく凶悪な面をしたエルフの男が、目を血走らせて立っていた。


「裏切り…………またしても裏切り…………。

 裏切り、裏切り、裏切り、裏切り、この裏切り者がぁぁぁッッッ!!!!!


 怒りを露わにする彼の奥には、ナタリーがいた。

 ぐったりと辛そうに横たわって、腹部をあられもなく剥き出しにされている。お臍の周りに、じっとりとぬめった白いナメクジが集っていた。


「ミ…………ナセ…………さん…………、逃、げて……………………!!!」


 彼女の叫びが聞こえた時には、すでにエルフの手に尖った氷柱の耳飾りが握られていた。

 彼は見るからに、我を失っていた。


「貴方は…………貴様は、最早この世のものではない!!! あの書庫の魔精と変わらぬ…………まつろわぬ魔だ!!! 邪の眷属だ!!!」


 振り被られた氷柱が、俺の額めがけて一直線に振り下ろされる――――――――…………。

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