第169話 少女と修羅。俺が血飛沫の中でひた走ること。

 獲物を狩るライオンだって、彼女程には容赦無く獲物に牙を沈ませはしないだろう。


 フレイアの刃は火蛇を纏っていなかった。強化術も一切使っていない。

 それでも彼女の迅速かつ果断な斬撃は、魔術の如く鮮やかに、鋭く、瞬く間に、武装したジューダム兵の喉笛を斬り裂いた。

 兵士は自分の血飛沫を見るまで、何が起こったかすらわからなかったに違いない。


 突然の襲撃に慌てふためく魔術師を、グラーゼイが叩き斬った。

 暗殺者とは到底思えぬ泰然とした巨漢のオオカミ男の態度が、かえって魔術師を怖気づかせていた。

 何か口走りかけて崩れ落ちた魔術師の血が、ドクドクと魔法陣の上へ虚しく流れていく。

 グレンはそこへ膝をつき、平然とした様子で詠唱を始めた。


 フレイアが一連の動きの中で落としたキャスケット帽を拾い上げ、埃を掃ってまた頭に被せる。

 グラーゼイは無表情で刃の血を拭うと、また重々しいマントで全身を覆い隠した。

 グレンの小さな声だけが閑静な辻に響いている。


 事前の段取り通り、俺とシスイは竜達と共に物影に控えていたのだが、このあまりにも手際の良い始末にはさすがに驚かされた。


「一瞬だったな…………」


 シスイの呟きに、俺はどこか冷たい表情のままでいるフレイアを見つめながら答えた。


「魔術使ってないんですよね? あれ…………」

「もしかして、人が斬られたのを見たのは初めてか?」

「ああ、いえ、前にも紡ノ宮で見ました。タリスカが東方区領主を斬った時。…………でも、あの子が…………フレイアがただの人間を手に掛けるのを見たのは初めてです。あのヤガミの騎士とだって、戦ってはいたけれど…………今のあの子は、あの時と全然違う顔をしている」

「そうか…………」


 沈黙の後、シスイは静かに言い継いだ。


「その違和感を忘れずにいるんだ。…………それこそ、召喚された「勇者」にしかできない仕事だ」


 俺が振り返ると、すでにシスイは出る準備を始めていた。グレンの結界解除の術がもうすぐ済むらしい。

 俺達は兵士と魔術師の死体をそのままにして(後で味方の魔術師達が処理する手筈だった)、静かな足取りで次の楔へと向かった。



 その後も俺達は、淡々と仕事をこなしていった。

 グラーゼイのロングソードは着々とジューダムの魔術師の身を真っ二つに引き裂いていき、フレイアのレイピアは兵士の咽喉を躊躇いなく搔き切っていった。

 返り血を浴びることも無いし、余計に辺りを汚すことも無い。2人の仕事は至極洗練されていた。


 時に相手が複数いることがあっても、襲撃に掛かる時間は変わらなかった。

 サンラインが誇る精鋭二人の身のこなしは、当然のことながら並の兵士とは比べるべくも無く、ド素人の俺の目から見ても圧倒的…………あまりに一方的であった。


 グレンの結界解除もまた、順調に進められていった。

 何でも痕跡線を残さない解除には非常に高度な技術が要るそうで、彼以外には誰にも任せられないという。


 楔を順番に破壊していくうちに、常に平静を崩さないグレンの額にも薄っすらと汗が滲んできた。ヘイゼルの瞳がいつになく険しく、針の如く尖っており、見ているだけでこちらの胃が痛んだ。


 俺とシスイはじっと物影に身を潜めて彼らを見守りながら、青空の下、すでに結界破壊後の段階へと思いを馳せていた。


 この後はフレイアと俺、そしてグレンで東方区領主の館へと突入する予定だ。一方のシスイとグラーゼイは竜に乗り、街の魔術師達と協力してジューダム兵達の陽動を行う。


 …………ほんの少しだけ、俺は油断していた。

 あるいは皆、そうだったのかもしれない。極度に押し殺された街の気配が、かえって警戒心を鈍らせた。

 最後の楔の解除がもうすぐ終わるという段になって、俺の後ろで誰かが砂利を踏んだ。


「…………!?」


 ギョッとして俺がそちらを見ると、そこには見覚えのある少女の姿があった。

 あの花売りの女性が連れていた、幼い少女である。

 彼女は小さな腕に抱いていた花籠をドサリと地に落とし、震え声で言った。


「な…………何、してるだ…………兄ちゃん達…………? へ、兵隊さん、死んじゃったんか…………!?」


 彼女が叫び声を上げるより先に、俺は彼女を抱いて口を塞いだ。

 恐怖で引き攣った少女の顔が間近に見える。涙を流し、苦しそうに身を悶えさせている。俺は罪悪感やら後悔やらで吐き気を覚えたが、それでも彼女を離さなかった。


「…………どうする?」


 振り返って俺が尋ねると、すぐに傍にやってきたフレイアが抜き身の剣を手にしたまま、間髪入れずに言った。


「――――やりましょう。それが最も安全です」

「やっ…………!? ばっ、馬鹿言うなよ! 子供だぞ!? それにこの子は、好きでここにいたわけじゃない!」

「シッ! コウさん、声が大きい」


 シスイにたしなめられて、俺はひとまず口を噤んだ。

 フレイアの剣先から血が一雫、滴り落ちる。

 彼女は唇を噛み、絞り出すように答えた。


「承知しております。…………ですが、これは戦です。コウ様のお優しい人格は身に染みて存じておりますが、今は少しの容赦が命取りとなります。

 …………極度の興奮状態にある彼女をすぐに落ち着かせることは困難でしょう。鎮静の魔術を使うとしても、跡が残ります。他に手段はありません」

「誰か眠り薬とか持ってないのか? よくツーちゃんが俺に刺すようなヤツ。っていうか、グレンさんを呼んできてよ! あの人なら何か手があるはずだ」

「誰もそのようなものを携えてはおりません。グレン様は結界の解除に尽力しております。手が離せません」

「けど」


 俺が何か言いかけた矢先、路地の奥から大きな声が聞こえてきた。


「おーい、チェルぅ――――――――!!! どーこさ行っちゃったんだぁ――――――――!?」


 その瞬間、少女ががぶりと俺の手に噛み付いた。

 鮫にでも齧られたかのような強烈な痛みに、俺は反射的に腕を引っ込めた。


「――――ッ! …………しまった!!」


 脱兎の如く逃げ出す少女めがけて、すかさずフレイアが剣を振り被る。

 俺は少女と彼女の間に立ちはだかり、血まみれの腕でフレイアを制した。


「!! コウ様、おどきください!!」


 フレイアの声に被せて、少女の叫びが通りに響き渡った。


「お姉ちゃ――――――――ん!!! 助けてぇ――――――――!!!」


 少女の姉がこちらに気付き、惨状に目を大きくする。振り返りざまに彼女と目が合った瞬間、俺は頭が真っ白になった。手から滴った血が、踏まれてグチャグチャになった花籠の上に止め処なく垂れ落ちる。

 もうどんな言い訳もきかないと、瞬時に理解できた。


 女性が凄まじい悲鳴を上げ、チェルという少女と共に駆け出す。

 騒ぎを聞きつけた兵士の足音が続々と辺りから集まってくる。

 俺はフレイアに強引に腕を掴まれ、路地の反対側へと突き飛ばされた。


「フレイア!?」

「シスイさん、コウ様を連れて先にお逃げください! グレン様が解除を終えられるまで、私とグラーゼイ様でこの場を凌ぎます! それまで、何とか持ちこたえてください!」

「了解した!」


 フレイアの鋭い声を受けて、今度はシスイが俺を引っ張って走り始めた。竜達のいななきが岩の壁に挟まれた路地にこだまする。


 フレイアが剣を構えるのが見えた。凛々しく健気な背中なのに、今はそれがやけに心を逆撫でする。

 俺は何でもいいから彼女に叫びたかった。彼女を止めたかった。残酷な彼女が心優しい彼女を手の届かない場所へ追いやってしまう前に、何としてでも声を届けたかった。


 しかし、想いは擦れ違ったグラーゼイの視線によってあえなく封殺された。

 グラーゼイは何も言わずに黄金色の瞳できつく俺を睨み据えると、ただ静かに敵陣へ剣を向けた。

 稲妻よりも強烈な思念が、俺を打ち据える。

 彼がフレイアへと向ける眼差しを垣間見て、俺は大きな衝撃を受けた。


 …………彼は獣になりきれていなかった。

 躊躇いとか戸惑いとか、怒りとか哀しみとか、俺の内にある感情は悉く彼の瞳の中にも存在した。フレイアに吠えたいと、彼は魂から願っていた。

 彼の内には俺よりももっと長い時間をかけて降り積もった澱が、重く、深く沈殿していた。


「…………あれがフレイアです。英雄の血に流れる修羅、その結実。…………やはり貴方は何も見ておられない」


 冷たい一言が俺へ刺さる。

 何か言い返そうとする俺を、シスイが低く怒鳴りつけた。


「行くぞ、コウさん!! 時間が無い!!」


 俺は彼と竜とに挟まれて、走り出した。

 行き違ったグレンは額に玉の汗を浮かべ、複雑な詠唱を続けていた。あと本当に少しなのだが、待ってはいられない事態が迫りつつあった。

 フレイア達が向かっていったのとは別方向からも、兵士達が集ってきていた。


「こりゃあマズイな! もう集まってきた!」


 竜達を急がせながら、シスイが俺の知らない言葉で悪態をつく。

 ジューダムの兵士達は常に巨大な共力場を編んでいるために、1人にでも情報が洩れたら厄介だとは聞いていたが、確かにこんなに火の回りが速いとは予想外だった。

 このままでは、グレンの身さえ危うい。


「急げ! アジトまで一息で駆けるぞ!」


 とはいえ、今の俺には何もできない。

 俺達は事前に定めていた潜伏場所を目指し、裏路地へと飛び込んだ。


 表通りはいよいよ騒がしくなってきていた。フレイア達の様子はここからでは窺えないが、金属の激しくぶつかり合う音は嫌でも耳に入ってくる。時々、悲鳴や野太い掛け声が重なって響いてくるものの、正確な状況はとても把握できなかった。

 ただ、次から次へと集まってくる兵士達の顔色を見るに、すでに相当な人数をフレイア達が屠っているのは想像に難くない。


 竜達がギリギリ通れる隙間を、俺達は速やかに抜けていった。飛べたら早いのに、なんて考えているのが俺だけでないのは、シスイの横顔から十分に察せた。

 俺達は息を上がらせつつ、ざわつく街中を文字通り、影を縫うようにして駆け抜けていく。


 あとほんの数メートル行けば辿り着く。

 そんなところで俺達はついに、丁度駆けつけてきたばかりの兵士の一団とかち合った。


「オイ、止まれ、止まれ!! 貴様ら、何者だ!?」


 質問が形ばかりなのは、彼らの手にした槍の向く先から明らかだった。

 俺達は鋭い切っ先の圧力に押されて塀際へ下がりつつ、静かに顔を見合わせた。

 相手は全部で6人。辺りに援軍は見当たらないが、時間の問題だろう。


 竜が今にも暴れ出しそうなのを、シスイが必死に手綱を操って抑えていた。いざとなれば放つつもりなのだろうが、タイミングが肝心だった。万が一竜が深手を負えば、今後に差し障る。

 兵士達はじりじりと俺達を追い詰めながら、居丈高に言った。


「スレーン人が2人に緋王竜が2頭! 報告通りだ。貴様らには王軍兵士及び王属魔術師殺害の嫌疑が掛かっている! おとなしく投降せよ!」


 シスイは手を挙げるふりをして、一瞬の隙を突いて背中に忍ばせていた山刀を抜くや、竜達の口輪を一辺に切り落とした。

 同時に、彼は目の前の兵士に向かって体当たりをかました。

 竜達が咆哮を上げ、倒れた兵士を大きな爪で後頭部から斬り裂く。セイシュウに至ってはなおも怒り収まらず、怯えた隣の兵士の頭に齧りついて激しく左右にぶん回した。

 兜ごと噛まれた兵士は短い悲鳴を上げたが、やがて全身をだらしなく垂らして壁へ放り捨てられた。


 再度の、竜の咆哮。

 竜達が威嚇で翼を広げると、残った兵士達は及び腰になって一斉に槍を竜へ突き上げた。

 俺達は崩れた包囲網を突き、一散に大通りへ逃げ出した。


「オイ、逃げたぞ!! …………って、ヒィィ――――――――ッ!!!」


 悲鳴交じりのどよめきと共に、メキメキと鎧に牙のめり込む音が辺りに響く。

 シスイは走りながら振り返り、竜達に口笛を吹いた。


 セイシュウはピクリと顔を上げると、翼と尾を振って傍らの兵士を薙ぎ払い、俺達を追って力強く走り出した。

 次いでもう一頭の竜(グラーゼイが連れてきた竜だ)も、齧りついていた人間を放って駆け出す。

 2頭の本気の脚力に、石畳の道が豪快に砕かれていく。


 勢いづいたのも束の間、俺達の頭上から新たに人の声がした。


「いたぞ!!! スレーン人共だ!!」


 仰ぐと、民家の屋上に数人の兵士が控えていた。

 黄緑色に光り輝く小さな球体を中空にいくつも浮かべている。

 きらびやかな曼荼羅状に展開していくその光の群れには見覚えがあった。確か、テッサロスタへ向かう途中で襲ってきたジューダムの魔人が、あれと全く同じ魔術を使っていた。


「――――――――魔弾、全弾解放!!!」


 驚く暇も無く、光のミサイルが悉く俺達と竜達へ放たれた。

 シスイが急ぎ詠唱し防壁を張ろうとするも、間に合いそうもない。

 俺が堪らず身を屈めたその時、大きな影が俺の頭上を高く舞った。


「――――――――駆けよ、勇者、シスイ」


 低く冷たい、地獄の底から漏れ出てきたような呟きが背筋を凍らせる。

 白昼堂々現れた死神は、この世のどんな黒よりも黒い漆黒のマントを翻し、敵の魔弾全てをたちどころに斬り落とすや、蒼白色に輝く二刀の刃をさらに閃かせ、屋上の兵士達をも皆斬り伏せた。


 巨漢の騎士は今できたばかりの血だまりの中でユラリと白い髑髏の頭をもたげると、その虚ろな視線を竜達のもとへと送った。

 追って見てみると、そこではやたらと溌剌とした女性が、茶色い豊かな髪を振り乱して竜達を騒がしくなだめていた。

 彼女は寄ってくる兵士達の槍を軽い身のこなしで見切りつつ、素早く精確な拳や蹴りを彼らに叩き込んでは、次々と地面に沈ませていく。


「ちょっと、タリスカさん!! 見てないで手伝ってくださいッス!! 竜達も見て、兵士とも戦ってじゃ、さすがに身が持たないッス!! …………って、キャアッ!! 私まで噛もうとしないで!!!」


 タリスカは悠長に俺達を見下ろすと、


「疾く行け。…………竜と水先人の娘は、後で連れて行く」


 と言い残し、一足で屋上から飛び降りて、目まぐるしく奮闘するナタリーに加勢しに行った。


 俺とシスイとはその様子を目を白黒させて横目に眺めつつ、ともかくはとアジトへと走った。

 安堵と、再会の喜びと、駆け通しの息切れとで興奮しっぱなしの心臓が、今にも爆発しそうだった。

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