第131話 海と光の街。「過去」と「今」。私が初めて味わう恐怖のこと。(後編)
「「ゆうしゃさま」…………?」
私はかろうじて喘いだ。
彼女は何を言っているのだろう。マンガの読み過ぎで頭がおかしくなっているのだろうか。
私の身体は相変わらず、凍り付いたままだった。
女性はユラリユラリと私の目の前まで歩いてくると、どす黒いマスカラを盛りに盛った睫毛の下の黒い瞳を、わざとらしくパチパチと瞬かせた。
「んー、感無量ですねー…………。世界の命運が今、このイリスちゃんの掌の上にあるも同然だなんて…………。ビクビク、ゾクゾクしちゃって、ついついイケナイ衝動に身も心も委ねてしまいそうですー…………」
私は全力で悲鳴を上げたかったが、掠れ声しか漏らせなかった。咽喉が焼けついたみたいに痛んで、思うように喋れない。
私は女性を睨み付け、ガラガラの声で言った。
「何…………の、つもり…………?」
女性は私の周りをもったいぶった足取りで一周し、今度は私の正面から、うんと顔を近付けて話した。
「ああん、もう。あせらないでくださいよぅー。…………イリスちゃん、この所ずぅーっとアナタのことを探していたんですよー? 少しぐらい、お話したっていいじゃないですかー? つっても、うるさくならないようノドを潰させてもらっちゃいましたから、一方的に私が喋るだけなんですけどもねぇー。
…………イリスちゃんねー、何日も、やっすい、煙草くっさいビジネスホテルに泊まって、色んな人に声を掛けて、時々ムカついてヤっちゃったりしながらも、何とか自分の「星恋う花と骨」占いを信じて、ようやーくアナタに巡り会えたんですよ。いくら可愛い、愛しい素敵なご主人様の命令とは言っても、とっても大変だったので、嬉しいんですよー? 貴女に会えて。本当に、とってもー…………」
女性は話しながら、次第に真顔になっていく。
今、「占い」って言ったか? この人…………。本気で言っているのなら、人違いよりも数段
身体が小刻みに震えていた。怖くて泣き出したいのに、身体がまるで反応してくれない。心ばかりが無意味に虚空を駆けずり回っている。
私は一体、どうしてしまったんだろう?
これは夢? 現実?
この女の人は、何?
私…………どうなるの?
女性はクスクスと悪魔じみた笑みをこぼし、言った。
「アハ、すっかり怯えちゃってますねぇー。可愛いー。あっちの「勇者」君は、この頃ちっともウブさがなくなっちゃいましたからねぇ。新鮮で良いですよー、その反応。ずーっとずーっとそのままでいてくださいねー? 良い子にしていれば、優しいイリスちゃんは、アナタをとぉーっても可愛がってあげるんですからぁー…………」
女の人は私の唇に、グロスとラメで艶々と輝く自分の唇を近付け、キスするギリギリでまた離れた。彼女は意味深な含み笑いを浮かべ、大振りな蝶柄のマニキュアがごってりと飾られた指で私の頬をツツとなぞった。
皮膚を裂かれるような痛みが、後を追った。
「――――っ! や…………やだ…………!」
「ふふん、まだほとんど何もしてないですよー? 本っ当に敏感な子ですねぇ…………。
ハァー…………。それにしても、見れば見るほど腹が立ってきますねー。この肌のハリとか、化粧なんか不要と言わんばかりの血色とかは置いておくとしても、まさか、こぉんなどこにでもいそうな子供が、伝承に謳われるアレだなんて。信じらないですねー。因果に意味なんて無いのはよくよくわかってますけど、それでもこうして実際目の前にしてみると、やっぱり納得がいかないもんです。
あの「勇者」君の力も侮れないものでしたが、コレに比べたら月とスッポン…………竜とアカハライモリ…………ビンテージワインと巨峰サワー…………」
女性の鋭利な爪が私の頬から首筋をなぞって、喉元まで下りていく。まさに刃物を突き付けられている気分だった。ツンとほんの少しつつかれただけで、咽喉がさらに焼け爛れた。
「うっ、く…………っ」
悶える私を、女性はこの上ない愉悦の眼差しで見ていた。彼女は幾度か私の喉を舐めるように指を往復させた後、急に声のトーンを明るくした。
「ああっ、キュンキュンー!! イリスちゃん、自分より可愛い声しているヤツって大っ嫌いなんですけども、そういう子がガラガラ声で喘いで苦しんでいるのを見るのは、大、大、大っ好きなんですー! キュンキュンッ!」
私は耐え兼ね、目を伏せた。これ以上何を考えても無駄だ。彼女は、完全に狂っている。
私はひそかに深呼吸し、荒ぶっている気持ちをなだめた。
冷たい空気が喉に触れると、ひりついて苦しかったが、何度か繰り返すうちにいくらか慣れてきた。
口中に充満していた血の味が、ゆっくりと意識の外に溶けていく。
胃に纏わりついていた不快なクリームが、幻のように失せていく。
(大丈夫、こんなの、気のせい…………)
私はおまじないみたいに、一心不乱に繰り返した。
(大丈夫。
これは、勘違い…………。
痛みなんて無い…………。
咽喉が焼けるなんて、ありえない…………!)
――――…………風が止んで、さざ波の音がふと弱まる。
私は小さく息を吐き、唇をそっと開いた。
よし…………、
もう、大丈夫だ。
「…………て…………」
「は? 何か言いましたか、勇者ちゃん?」
「助けてぇぇぇ――――――――――――っっっ!!!」
突然の悲鳴に、女性が目を見張る。
私は彼女を突き飛ばして脱兎の如く駆け出した。
派手に尻餅をつく女性を傍目に見つつ、私はもう一度、力の限り叫んだ。
「助けてぇ――――――――!!! 誰かぁ――――――――っっっ!!!」
声は夜空を貫いた。
私は大通りへ向かって、とにかく走った。一刻も早く人のいる場所に辿り着くべく、暗い林の中を突っ切った。怖い。怖いけど、ここを通って逃げた方が早い。悠長に海辺の歩道を大回りしていくわけにはいかない。
(やっぱり、気のせいだった! 痛みも、金縛りも!)
私は嘘のように自由になった身体で、脇目も振らずに茂みの中を駆けた。息が切れるのも構わず、肉体が動く限界まで鞭を打つ。
ヤガミさんが言っていた事件のせいか、人がいる気配は皆無だった。
(速く! 速く!! もっと速く!!!)
トロい自分の足がもどかしかった。
私は泣きながら前へと進んだ。
どうして自分がこんな目に遭うのか。どうしてこんなに大通りまで遠いのか。どうして誰も助けに来てくれないのか。呪詛は尽きないが、それでも走り続けた。
やがて電灯の無い暗がりに差し掛かった時、私は何かにつんのめった。
「――――――――きゃっ!!!」
私は勢いよく前へ倒れ込んだ。転んだ拍子に、カバンからリップクリームやらスマホやらが盛大に放り出される。兄のスマホも、遥か前方へと飛ばされていった。
私は咄嗟には力が入らず、どうにか頭だけを起こして辺りを見た。どうやら樹の根につまずいてしまったようだった。
「もう…………っ、こんな時に…………っ!!!」
私は舌打ちと共に、引っかかったローファーを外した。手も足も靴も制服も、何もかもが泥だらけになってしまった。
散らばったものはもう確かめる気にもなれないが、少なくともアイツのスマホだけは回収してこなくちゃいけない。
と、私が起き上がって、目の前のスマホを見据えた時だった。
ふいに画面の上に小さな影が掛かったかと思うや、液晶がパッと明るくなった。
「えっ!?」
白い光に照らされた影の正体が、パッと闇中に浮かび上がる。
私は目をこれでもかと見開き、息を飲んだ。
眼前のソイツは短い毛にびっしりと覆われた顔を顰め、独りごちた。
「今時のオモチャは、何とも風情がないですニャ。カチカチ、チカチカするばっかりで、ちっとも面白くニャイ…………」
「…………ウソ、でしょ…………」
見間違いでも、聞き間違いでもなかった。スマホの前には、二つの瞳を黄色く輝かせた、三毛猫がいた。
三毛猫は長い尾を(その尾は二股に分かれていた)ゆっくりと振り立て、スマホから目を上げてこちらを見た。その鋭い目に射られた途端、全身が粟立った。
「ネ、ネコが、しゃ、喋っ…………」
私は後ずさり、鞄を握り締めた。
三毛猫は眉間を細め、
「ニャア」
と短く鳴いた。
「やぁ、こんばんは、勇者さん。とっても無個性でつまんないご挨拶ですが、いかにも人間らしいお言葉、どうも。
…………初めまして、リケです。生まれついての雄猫。珍しや三毛猫」
私は硬直しきっていた。
緊張と恐怖で、私の頭までどうかしてしまったようだった。
喋る猫?
猫又?
そんなの、あり得ない。
三毛猫はスマホをくわえ、私の方へ近づいてきた。
「ヒッ!!!」
三毛猫は怯え上がってのけぞる私の足下に、「八神 誠」の番号が映ったスマホを落とし、淡々と語り始めた。
「やれやれ、ニャンたることか。イリスさんに任せると、いつもヘマをする。本当にみっともない、手間の掛かるニャツな…………。はしゃぐばっかりで、「勇者」の力のこと、全くわかってない」
三毛猫は少し目を細め、首を傾げた。
「さて、さて、お嬢さん。何はともあれ、この、ニャガミさんとやら。…………ちょっと気になったので、リケはしばらくここのお家にお邪魔させてもらっていたのですが、どうにも面白いことになっているのをご存知ですかナ?」
「お、面白い…………こと…………?」
私が尋ね返すと、三毛猫は「ニャイ」と頷いた。
「この人、どうにもアナタの尋ね人とは違うようなのです、お嬢さん。…………というより、アナタの尋ね人はもう「ここ」には…………いない」
「えっ…………?」
竦んだままの私の周りを、リケと名乗る猫はゆっくりと歩き出す。彼はじっとりとした目で私を見やりながら、話を続けた。
「もっとちゃんとお話をしますと、ニャガミさんがここから消えたのではないのナ。ニャガミさんのいる世界の方が、消えた。誰かさんに消されてしまった。
そしてニャガミさんのいなくなった、新しい世界が生まれた。即ち、ここ」
私はリケを追い、身体を捻った。
「な、何? どういうこと………? 意味が、わからないよ」
リケはもう一周、今度はもっとじれったい速度で、より狭まった円を描いて歩いた。
「…………人間はおバカさんですニャ。あんまりおバカさんだから、寝る前と起きた後で…………うんニャ、瞬きの前と後でさえ、世界がすっかり様変わりすることもあるのに、ほんの少しも気付かニャイ。仔猫のおヒゲ程にも気付かニャイ。
アナタもそう、お嬢さん。アナタはナンにも気付いてニャイ…………。アナタの、あんなにおマヌケなお兄さんだって知っていることを、アナタは赤ん坊ネズミの毛程も思わニャイ。思えニャイ」
「! お兄ちゃんを知っているの!?」
リケは糸のように目を細め、意地悪く答えた。
「ええ、知っています。海に浸けられたり、黒いドロドロをたくさんぶつけられたり、いっぱいイジメられましたので。
アナタのお兄さん、とても珍しい力を持っていた。でも、魔法の「ま」の字も知らニャイ、変なニャツだった」
「ねぇ、アイツはどこにいるの!? やっぱり、ヤガミさんと何か関係があるの!? どうしてアナタがアイツのことを知っているの!? 教えて!!」
私が突っかかると、リケは心底うざったそうに顔を皺くちゃにした。
「ナー…………うるさいですニャア。せっかちさんに関わると、かえって余計に時間を食うから、嫌だ。ニャガミさんは関係無いって、さっきお話したばっかりなのに…………」
「でっ、でも、それなら何でアンタはヤガミさんが気になったっていうの!? どうして私に絡んでくるの!? そもそも「ゆうしゃ」って何!? ちゃんと説明して!!」
「ナー…………ひすてりっく…………」
リケは不快そうに耳をピクつかせ、答えた。
「どうせわからニャイだろうから、難しいお話はしませんが、お嬢さんの探しているニャガミさんと、リケに親切なおばあさんのいるニャガミさんは、別の人なのです。全く同じ人間だけど、世界が変わったから、全く別の人にナっちゃったの。
アナタの言う方のニャガミさんは、ヴェルグさんにとって、とてもとても大事な人。だからリケも気に掛けてあげていて、アナタと同じように、ここへやって来た…………」
リケは私を舐めるように仰ぎ、言い継いだ。
「お嬢さんの探すニャガミさん。お嬢さん。そしてお嬢さんのおマヌケなお兄さん。…………関係が無いとは言えニャイ。だけどすべては、偶然のこと。偶々、運命の糸が絡まって、こうなっているだけ。リケとお嬢さんがこうしてお話しているのだって、イリスさんが
ヴェルグさんは、こういうのを「因果」という…………」
俄かに獣の瞳が妖しく光る。私は慌てて後ずさったが、リケは私を追い込むように一歩、力強く歩みを進めてきた。
「ち、近寄らないで!!」
私の制止など意にも介さず、リケは悠々と距離を詰めてくる。小さな肉球が、兄のスマホを柔らかく踏みつけにしていた。
「…………アナタのお兄さんは」
リケは静かに、だが、突きつけるように語った。
「伝承に謳われし者。扉の魔術師。
そしてアナタもまた、物語に綴られし者。
…………「勇者」」
私はリケから目を離せなかった。逸らそうとしても、否応なしに視線が彼の黄色い瞳に吸い込まれてしまう。
私は心臓をバクバクとさせながら、震え声で呟いた。
「「伝承」…………? 「魔術師」…………?
お兄ちゃんは…………どこにいるの?」
答えは唐突に背後から聞こえた。
「サンラインですー! 時空を超えた遥か彼方の、剣と魔法と竜の
振り向くと、目を血走らせたイリスが立っていた。
「アハァ! よくも私が手塩にかけて編んだ結界をブチ破って逃げてくれましたねー? 勇者ちゃん。イリスお姉さん、悪い子には容赦しないですよー?」
場違いなテンションのアニメ声が耳に障る。リケはこれまで以上に顔をきつく顰め、イリスを睨んだ。
「邪魔をしないでほしい、イリスさん。あと少しで、侵入できそうだったのに…………。アナタが声を掛けたせいで、台無しになりました」
イリスは後ろからねっとりと私の首に抱きつき、フン、と鼻で笑った。
「フン。まったく、いけずなネコちゃんですねー。折角一緒にいるんですから、二人でヤりましょうよぅー。…………手柄の独り占めなんて、めっ! ですよー?」
イリスの毒々しい指先がピストルを模し、リケを撃つ。
リケは氷像の如き眼差しで彼女を睨み、話した。
「どいてください、イリスさん。アナタを巻き込みたくはニャイ。アナタの血で自慢の三毛が汚れる、不本意」
「アハ。猫パンチで返り血だって。可愛いー♪ 是非やってみてくださいよー?」
「…………。イリスさん、いい加減にしてください。アナタは、そのお嬢さんがどんな力の持ち主なのか、まるでわかってニャイ。それは「裁きの主」や「太母」より、もっととんでもニャイもの。仕損じるわけにはいかニャイ、ゼッタイ」
イリスが紫色の唇を不気味に歪め、指の銃口を私のこめかみに当てた。彼女はクスクスと笑みを漏らし、やや興奮した調子で言葉を紡いだ。
「ハン、わかってないのはネコちゃんの方じゃないですかー!? こっちは人間の女の子同士、ちゃぁーんと通じ合うものがあるんです。獣如きに、横からとやかく言われる筋合いはありませんねー。
…………っていうか、イタズラっ子のネコちゃんのことですし、隙あらばご主人様の命令を無視して、勝手なことをしでかしちゃうかもしれないでしょうー? 良い子のイリスちゃんとしては、きちんと見張っておかないといけませんー」
リケはわずかに身を低く沈め、声調子を重くした。
「リケは、ヴェルグさんから命令なんて受けてニャイ。リケはリケ。
…………あまり時間をかけさせるな、イリスさん。早く、失せナ」
場の空気が透明な霜を撒いて凍りついていく。私は全身を鉛でメッキされた気分だった。脳の髄がずぅんと重く沈んで、締め付けられるように痛み始める。森を揺らす風の音が、やけに鼓膜に冷たく響いた。
イリスはリケと同じく、一転してドスのきいた声で言った。
「ふぅん、やる気ですか? ネコちゃん。…………ご主人様の「一番弟子」であるこのイリスちゃんが、ただの野良猫にヤられるとでも思っちゃってるんですか? 長生きし過ぎて、ボケちゃった感じですかー?」
ドロリと、また胃に生ぬるいクリームが満ちていく。ゴリゴリと粘膜に痛いザラメの感触が、私の口内をたちまち血だらけにした。
脳の神経という神経が急激に、千切れんばかりに痛み出した。
「い…………痛い…………っ! 気持ち、悪い…………っ!」
倒れかけた私を、イリスが強い力で掴み上げた。彼女は鋭く研ぎ澄まされた爪をリケに向け、叫んだ。
「アハ! なら、丁度良いですー! 魔術師会の流儀に則って、使い魔でケリを着けましょう!!
正直、オースタンに来てからムカついてムカついてしょうがなかったんですー! 私はクソみたいな安ホテルに詰め込まれているのに、ネコちゃんはバブリーでエレガントなタワマン暮らし! 私のご飯よりネコのおやつのが高級ってどういうことですか!? 昨日もらっていた鯛茶漬けなんて、イリスちゃん、一体何年食べてないと思っているんですか!? …………28年間! 生まれてこの方一度たりとて食べたこと無いですよ、そんな聞くだにハイソなお茶漬け!
ニャガミさんとやらを直接ヤっちゃってもいいんですけど、それじゃあつまらないです、味気無いです、怒りが収まらねーです! だからアナタの肉体を干物みたいにカラカラにして、あのスカした心優しいイケメン君と、その上品なババアの鼻先に突きつけてやることにしまぁーす! 肉体なんて要らないですもんねー、化け猫にはさぁ!!」
リケは姿勢をうんと低くし、ワッと毛を逆立てた。
「お前の喋ること、相変わらずお下品。猫にとって、人間の一人や二人操作するなんて魔術もいらない、至極簡単なお仕事。イリスさんが惨めなのは、ひたすらにイリスさん自身のせいナ!
…………どこまでいってもつまらニャイヤツめ。早い所、勇者ごと始末するに限る!」
リケの目が一層不気味に、燦然と光る。
同時に、不敵に笑うイリスと私の周りに、アメジスト色の光る輪が出現した。輪の内には大量の外国の文字が描き込まれており、その文字の一つ一つは、ダンスでもするかのように激しく畝り、震えていた。
イリスの甲高い声が、耳元で割れた。
「――――さぁ、月夜の愚者たち、集え、集え!!!
――――我はあまねく器を捏ねる者!!!」
――――愚かな夢想家ども、憎悪せよ!!!
――――貴様らを囲う、形あるものの檻を、檻を、檻を!!!」
文字が、あちこちで爆竹の如く弾けだす。次いで猫の長い鳴き声が山彦となって夜空にこだました。
凄まじい風が吹き荒び、公園の樹々が狂気的に掻き鳴らされる。樹々は悪魔にでも取り憑かれたかの如く、凶暴に枝を振り回していた。
旋風に引き裂かれた木の葉が渦を巻いて、私とイリスを包囲する。
イリスはさらに鋭く喚いた。
「――――賢者の成れの果てよ、愛でよ!!!
――――泣け!!!
――――狂え!!!
――――年古りた命、迸る命、
――――全て!!!
――――喰らい尽くせ!!!」
イリスが指のピストルが、宙へ向かって撃たれる。瞬く間に巨大な打ち上げ花火が上がり、紫の大輪の菊が花咲いた。
一拍置いて、野太い爆発音が轟く。散り散りになった火花はゆっくりと暗い赤に変色し、やがて本物の血の雨に姿を変えた。
海に、公園に、血滴がバラバラと激しく降り注ぐ。
私は大量に降ってきた鮮血を浴び、悲鳴を上げた。
「イヤァァァァ――――――――ッッッ!!!」
地に叩き付けられた血滴から、人型をした何かがムクムクと生まれてきた。私は自分の肩や胸についた染みからもそれらが盛り上がってくるのを目の当たりにして、さらに悲鳴をあげた。
「…………悪趣味な術」
大混乱の最中、私の足下で何かが呟く。
見れば、リケが平然として私のローファーに片足を乗せていた。
私が口を開くより速く、血滴から生まれた小人達が一斉にリケへと群がっていった。私は激しい頭痛と不快感に苛まれながらも、纏わりつくリケと小人とを振り払うべくもがいた。
イリスはより強い力で私の咽喉を締め上げ、怒鳴った。
「あーっ、もう! 鬱陶しいですねー!
まだ我慢ですー! わざわざおびき寄せたんですからー!」
言うなり、イリスは聞き慣れない言語で一言、鋭く叫んだ。リケはハッと目を大きくし、身を離した。間髪入れず、小人達の頭がばっくり割れて、中から夥しい数の小蜘蛛が湧き出した。
蜘蛛達は恐ろしい素早さで地を這い、リケを埋め尽くした。
「…………――――ッ!!」
忌々しげにリケが牙を剥き、唸る。
と、突如として彼の周りに燃え盛る炎の壁が出現した。小蜘蛛はリケに触れんとした端から、業火に撒かれて灰になっていく。
イリスはその隙に指の銃口をリケの眉間に定めると、
「バン♪」
と、明るくおどけた。
しかし何が起こる気配も無い。
リケは彼女のからかいに、瞳をギラつかせて獰猛に鳴いた。
風がさらに激しく吹き荒れる。
私とイリスを囲って渦巻いていた木の葉が、急激に旋回半径を縮め、速度を増していった。
血滴や小人、さらには小人から生まれた小蜘蛛達が、竜巻と化しつつある旋風に飲み込まれて吹き飛ばされていく。
イリスがあからさまな地声で、態度悪く罵った。
「ちょっとぉー! 使い魔で勝負っていったじゃないですかー!? 動物には言葉がわかりませんでしたかー!? 好き勝手やってくれちゃってぇ! これじゃあ、勇者ちゃんに傷がついてしまいますー!」
轟々と吹き荒ぶ風の音にも負けず、リケの冷めた声が聞こえてきた。
「リケの知ったことじゃニャイ。リケは魔術師会なんて、知らニャイ。
…………お嬢さんは厄介者。イリスさんは害虫。どちらも、とっととやっつけるべき」
言葉が終わるなり、旋風が勢いを増した。高速で飛び交う木の葉が、私の肌と服をカッターとなって切り裂く。傷口から赤い血がジワリと滲み出し、ドクドクと止め処なく溢れ出た。シャツもスカートも鞄も靴下も、容赦無くズタズタになっていく。
痛みを覚える余裕なんて無かった。悲鳴とも泣き声ともつかない己の叫びが、虚しく風に飲まれていった。
なぜか傷つかずにいるイリスが、舌打ちをした。
「チッ、面倒! これだから弱っちいヤツは…………!」
イリスは早口で何か唱えると、私を手離して両手で素早く印を組んだ。私が地面に崩れ落ちた所に、ミミズの這った跡みたいな線が地面にムクムクと現れた。
「――――閉じやがれです!!!」
イリスは三角形が完成するや否や、乱暴に叫んだ。
描かれた模様が地面から板状になってせり出し、私を中心に正四面体の形に折り畳まれていく。
私はたちまち土の牢に囚われた。
「いやぁ――――――――っ!!!」
中で喚く私に、イリスは即座に文句を叩きつけた。
「あーもう!! いちいちうるさい子ですねー!! 嫌も何も、出たら死にますー!! 見てわからないんですかー!? バカなんですかー!?」
私は窮屈な真っ暗闇の中で膝を抱え、風が壁を打つ激しい衝撃に耐えた。各面を支える三角形が微妙に歪んでいるせいで、隙間風が絶え間なく入り込んでくる。寒いし、うるさいし、最悪だ。
時折、爆風に煽られた衝撃が牢全体を揺らし、所々に亀裂を入れる。
その度にイリスの怒りに満ちた甲高い声が聞こえてきたが、何を叫んでいるのかまでは聞き取れなかった。
私は今になって痛みに震えていた。身体中の傷がジンジン痛み、胃がキリキリと絞り上げられ、頭は割れんばかりに疼いた。恐怖で吐き気がする。だが身体中の筋肉が硬直して、吐けない。もうわけがわからない。
「助、けて…………」
私は繰り返し呟いていた。
「助けて…………、
助けて…………、
助けて…………」
誰か。
誰か。
この悪夢を。
誰か…………。
やがて、願い虚しく、土の牢がひときわ大きな衝撃によって砕かれた。イリスの、耳の痛くなる悲鳴が鼓膜と夜空をつんざく。
直後、月影を背負った小さな獣の身体が、私の真上に軽やかに躍り出た。
私は蒼い月明かりを浴びながら、呼吸すら忘れた。
黄色い瞳に睨まれ、時が止まったように感じられる。
恐ろしく静かなリケの声が、風鈴のように響いた。
「さようなら、「勇者」。
目覚める前に死ぬも、因果」
降りかかる鋭い爪が、象牙のように白く、眩く目に映えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます