第123話 「水先人」と「母の歌う御使い」。俺が義憤に駆られること。

 胡坐をかいていた男がゆったりと立ち上がる。パッと見は普通の人間のようだったが、それにしては妙に存在感の希薄な、霞じみた雰囲気を帯びた人物だった。

 彼は口元の覆いを下げると、寺の僧侶じみた穏やかな声で話し始めた。


「いえ…………もう結構です。巫女様のお力は、よくわかりました」

「…………巫女様?」


 俺が呟きつつナタリーを見やると、彼女もまた戸惑いの色を浮かべて俺を見た。彼女は男の方へ向き直ると、声を低くして尋ねた。


「何? その…………巫女って?」


 俺はスススとナタリーの隣へ近寄っていった。別に俺がいて何になるわけでもないが、とりあえず傍にいてみるのは大事だ。というより、俺も男の話に興味があった。

 ナタリーはキッと相手を睨み据え、言葉を継いだ。


「散々殺されかけた後に、いきなりそんな風にかしずかれても気味が悪いだけだよ。何か話したいことがあるなら、ちゃんと説明して」


 男は魔法陣の中心で、「ふぅむ」と柔らかく唸った後、辺りで気絶している彼の仲間達を見渡して首を振った。


「私の弟子達は、貴女をただの「無色の魂」…………穢れた魔術の産物を身に宿した、愚かしき魔女と見做していたようですが、私は、それにはとんでもない誤解が含まれていると気付いたわけです」


 観衆が俄かにざわめき出す。俺には何の話だかサッパリだったが、ナタリーは複雑な表情で耳を傾けていた。

 男はローブをまくって左腕を露わにすると、観衆へ見せつけるように高々と掲げた。その筋肉質な前腕には、黒一色でくっきりと描かれた、鮫に似た魚の刺青が大きく彫り込まれていた。


「それ、「牙の魚」…………!?」


 ナタリーが目を大きく見開き、頬を引き攣らせる。観衆のどよめきが一層大きくなり、中には悲鳴を上げる者まで出た。俺は人々の怯えた表情を眺めつつ、今は人だかりに埋もれて見えないリーザロットの方へ気を向けた。


(ねぇリズ。「牙の魚」って何? どうして皆、こんなに怯えているの?)


 リーザロットはすぐに答えてくれた。


(「牙の魚」は、あの「黒い魚」に伴って現れる正体不明の魂獣です。黒い魚が食べ残した魂の欠片を漁るの。…………3年前の異変が未だ記憶に新しい中、あの刺青に怯えるのは無理もないことでしょう)


 男は人々の動揺を満足そうに見つめながら、淡々と語っていった。


「そう、「牙の魚」。「裁きの主」などという忌むべき魔物に憑かれた貴女方は、そのように呼び慣わします。…………ですが、私たち護手はこの魚を、「母の小さな御使い」と崇拝しております。我らを尊き「始まりの無」へと誘う、天使として…………」


 男は曇り空のように淀んだ灰色の眼差しを、ひたとナタリーに注いでいた。


「もうお察しのことと思われますが、天使は他にもいらっしゃる。

 一つは「母の大きな御使い」。貴女たちが「黒い魚」と呼ぶ大いなる存在。そしてもう一つが…………貴女の、左腕に刻まれし存在です」


 ナタリーが恐々と自分の左腕に触れる。澄んだ翠の瞳に、緊張の色が一条、深く長く差し込んだ。

 男は柔和な、威圧感に満ちた口調で語り継いだ。


「そう。それは、「母の歌う御使い」。貴女たちはその魂獣自体にではなく、その導き手に代々名を与えてきましたね。…………「水先人」と」


水先人パイロット」。ナタリーがそう呼ばれるのを何度か聞いたことがある。

 俺はナタリーの顔をそっと覗き込んだ。彼女は眉間に皺を寄せ、表面上はあくまでも毅然として、男に言った。


「…………レヴィが、アナタ達の天使だから、私は巫女だって言いたいの?」

「その通りです。弟子たちは不勉強ゆえ…………というのは、少し可哀想ですかね。彼らは入信してからまだ日が浅く、その上異国の出身であったがゆえ、サンラインのどこかにいるという「歌う御使い」のかんなぎにまで考えが至らなかったのでしょう。まぁ、かくいう私も、貴女の刺青を見るまでは思い至りませんでしたがね…………」

「…………アナタ、何者なの? レヴィの何を知っているの?」


 俺はナタリーから滔々と溢れ出てくる魔力に、思わず身を固くした。今の彼女の力は、苦いだけでなく、舌に突き刺さるように痛かった。若葉から柔らかさと青さがぐんぐん失われて、硬い棘のように変化していく。

 ナタリーはわなわなと腕を振るえさせながら、怒鳴った。


「答えて!! 私のお父さん…………前の「水先人」を殺したのは…………アナタなんじゃないの!?」


 男はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、手を胸の前で絡み合わせて言った。


「まさか。私はしがない一介の護手に過ぎません。そのような大それた使命を仰せつかるはずもなく…………。それに、もしそうであったなら、巫女様を前に、むざむざ撤退を余儀なくされるような羽目には陥らなかったはずだ」


 言うなり、男の周囲が陽炎のように揺らいだ。知らない言葉の詠唱がボソボソとこぼれ落ちる。

 ナタリーが石畳を強く蹴り、駆けだした。


「待て!! 逃げるな!!」


 俺は男の魔力が途端に粘度を増し、焼け付くほどに甘くなるのを感じ取った。言葉にはできないが、すごく嫌な予感がする。

 ナタリーはすでに拳を振り被っていた。男は胸の前で組んだ手をゆるりとねじって変化させると、まるで恋人に囁くような優しい口調で言い残した。


「いずれまた、巫女様。…………どうかそれまで、大切なお身体をこれ以上「無色の魂」で穢されぬよう…………」


 飛びかかったナタリーの拳が空を切る。男は湯気のように忽然こつぜんと消えてしまった。後には奇妙な含み笑いだけが響き渡る。

 ナタリーは空振りした拳を地面に叩き付け、叫んだ。


「畜生っ!!!」


 観衆が安堵と不安の入り混じった溜息を漏らす。ハッとなって辺りを見渡すと、男以外の護手達の姿もまた、いつの間にやら消え去っていた。

 ともかくも俺は、未だ怒り冷めやらぬ様子のナタリーに、おずおずと話しかけた。


「大丈夫? ナタリー」

「…………」


 ナタリーは俯いたまま、固く拳を握り締めていた。薄黒の盾で傷つき、さらには力任せに地面へ叩き付けられた彼女の拳は、地面に血溜まりを作っていた。

 俺は先程感じた嫌な気配のことが気にかかり、屈んだままの彼女に寄り添った。


「ナタリー。ちょっといいかな?」

「何スか?」


 ナタリーが狂暴な目を俺に向ける。そこには澄んだ翠には到底似つかわしくない、捨て鉢な感情がこもっていた。

 俺が彼女の怪我した手を取ると、その目が微かに動揺した。


「…………っ、ミナセさん?」

「ごめん、ちょっと確かめたいことがあるんだ。…………共力場を編むよ」

「えっ!? そんな…………困るよ、こんなとこで。どうして?」

「呪いを調べるんだ。前に、リズがリケから手痛いのをもらったことがある。アイツら太母の護手も呪術を使うって聞くし、心配なんだ」


 俺は両手でナタリーの手を包み、目を瞑って彼女の魔力に気を傾けた。もしヤバイ呪いがあれば、きっと感じ取れるはずだ。


「…………」


 ナタリーが躊躇いつつも、徐々にこちらへ気を傾けてきてくれる。

 今のところ、彼女特有の爽やかな新緑のイメージ以外に伝わってくるものはなかった。多少まだ刺々しくはあるものの、戦闘や父親のことで気が立っていることを思えば、怪しむべきとまでは言えないだろう。


 俺はしばらくしてから目を見開き、ナタリーの翠玉色の瞳を見つめた。こちらも、もうだいぶ落ち着いた、綺麗な明るい色をしていた。


「…………うん、ひとまずは平気そうだ。でも、もし何か君の方で違和感があったりしたら、すぐに教えてほしい」

「ううん、今は平気…………。あの…………ありがとう」


 ナタリーがそっと手を引っ込める。顔がほんのりと赤いのは、一重に今の公衆の面前でのセクハラのせいだろうが、俺はひとまず胸を撫で下ろして立ち上がった。


「それじゃあ、傷の手当てだけしようよ。膿むといけないからさ」


 だがナタリーは小さく首を振ると、いくらか柔らいだ声で答えた。


「いや、そこまではいいや。自分でできるし。…………たくさん心配してくれてありがとう、ミナセさん。何だかほっこりした。

 けど、今日は私に構わないで先に行って。用があるんでしょう? これから」

「あるけど、そんな姿の君を放っては置けないよ。とりあえず俺と一緒に行こう。サモワールで頼めば、きっと何とかしてくれるから」

「…………気持ちは嬉しいんだけど、さ」


 ナタリーがもう一度、首を振る。俺はじれったくなって、彼女の手に縋った。


「らしくないよ。どうしたんだ? 遠慮なんていらない。君が、街を守ったんだ。俺達が手当てぐらいして当然だろう?」

「…………」


 どやどやと撤収を始める観衆へ、ナタリーがそれとなく目を向ける。彼女の意図は汲めなかったものの、つられて俺は仕方無しにそちらへ首を向けた。

 そこでは年配の男性二人が、何気なく会話を交わしていた。


「それにしても、凄いもんだなぁ。「無色の魂」ってのは。たまげたよ」

「ああ。俺にゃ魔術はようわからんが、そのうち本当に霊体の複製ってやつができるようになっちまうんじゃないかって感じたね」

「いやぁ~、さすがにそれはありえねぇだろうよ! 主の恵みたる霊体が、そう簡単に泥人形みたいに作られてたまるもんかい。…………「無色の魂」は所詮、作り物。永遠に本物には及ばんさ」

「そうあって欲しいもんだけどな。…………しっかし、自警団までが「無色の魂」とはね。この頃の人手不足はそこまでかって不安になるよ」

「だがいくら強くっても、人形に生活を守られるってのはなぁ。やっぱり、釈然としねぇなぁ」

「おうよ。やっぱり、ちゃんと霊体のある人間がいいもんだ」

「本当にな。まぁ、でも、考えようによっちゃ便利だよな。肉体の傷なんざ、大概放っときゃ治るんだからよ」


 俺は堪り兼ねて、割り込んでいこうとした。俺と同じで、ただ口開けて見ていただけの癖に、釈然としないも何もあるか。じゃあ、お前らが戦えばいいんだ!

 憤る俺を、ナタリーが止めた。


「何で止めるんだよ? あんなこと、君に聞こえるような所で言うことないだろう!? 俺だって別に何もしてないけど、あんな言い方はいくら何でも…………」

「ミナセさん、これが普通なの」

「そんなの納得できないよ! 君は人形なんかじゃない! 一発ぶん殴ってやらないと! って…………さすがにそこまではやらないつもりだけど、せめて何か一言ぐらいは…………」

「ミナセさん…………」


 煮え切らないナタリーの腕を振り切ろうとした時、ちょうど人混みの奥からサモワールの門番たちがやって来た。

 周囲の人々がざわつき、自ずから道を開けていく。先頭に立っているさっきの若い門番が俺へ緊張漲る視線を送ってきた。


 彼の後ろにはリーザロットと、誰か恰幅の良い、見るからに上等そうな紫紺色の着物を纏った男が並んでいた。厳格そうな顔をして、悠々とキセル(の、ようなもの)をふかしている。

 殿様じみたその男は、俺とナタリーの前までずんずん歩んでくると、急に布袋様のような笑顔になって大声を出した。


「やぁ、やぁ、やぁ! 今回も見せつけてくれましたなぁ、「勇者」様! お熱いことで、何よりで! まぁ若者がそうでなくっちゃ、ウチも商売が成り立ちませんからねぇ、ハハハハハ!

 さっ、何はともあれ、麗しの蒼姫様も、血潮滾る「勇者」様も、そちらの強かで健やかなお嬢様も、ようこそ我がサモワールへおいでくださいました!

 …………お出迎えが遅れて大変申し訳ございません。何分、この頃はあっちこっちでトラブル続きで、目まぐるしい忙しさでしてな。

 もうご存知かと思いますが、改めまして、私はサモワール館長オーナーのトリス・キリンジと申します! 

 …………さぁさ! 何はともあれ、お話は中で伺いましょう! シェフたちが腕によりをかけてお食事を用意しております!

 さぁさ、さぁさ、こちらへ、こちらへ!」


 呆気にとられるナタリーと俺を、門番達が問答無用で取り囲んでサモワールへと連行した。

 リーザロットは戸惑う俺達に、何やら興味深げな、妙に思い詰めた蒼い眼差しを注いでいた。俺は何も言わない彼女に、こっそりと話しかけた。


「えっと…………その、ごめんね? リズ」

「なぜ? どうして謝るの、コウ君?」

「え、いや、何となく…………なんだけど。勝手しちゃったし」


 リーザロットは真顔で、可憐だが、なぜか不思議と迫力のある調子で言った。


「…………コウ君の優しいところ、大好きよ」


 俺は唐突な告白に、たじろいで答えた。


「あ、ありがとう…………ございます…………。でも、そんな、なんか、いきなりだね」

「いけませんか?」

「いや、いいんだけども…………」


 会話の途中、ふいにナタリーがこちらを振り返る。彼女はしばらく心許なさそうにこちらを見ていたが、結局は何を口にすることなく、また前を向いた。


 俺は蒼と翠の視線の狭間で、何だか異様にいたたまれず、口を噤んでいるよりなかった。

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