第115話 リーザロットの私室と真実を映す鏡。俺が「禅」に目覚めること。

 リーザロットの私室は、彼女の書斎のすぐ近くにあった。

 彼女は片手で魔法陣をなぞり自室の扉を開けると、ちょっとはにかんだ様子で俺を中へ招いた。


「散らかっていますけど」


 俺は何も見ていないにも関わらず、「いや」と返事をし、そわそわと足を踏み込んだ。

 まさか、こんなに簡単に女の子のお部屋にお邪魔してしまうとは。人生本当に何があるかわからない。俺は肩に乗っているトカゲの口を軽く押さえながら、部屋の中を見渡した。


 ここも館の他の場所と同じく、静かな部屋だった。

 散らかっているなんてとんでもない。ドレッサーやクローゼット、良く磨かれた鏡といった調度は皆、眠るように穏やかである。

 正面には大きな窓があった。ふんわりと掛かったレースのカーテンが見事で、思わず見惚れてしまう。窓の向こうには白い花をたくさん咲かせた大きな樹が見え、雨が絶え間なく葉を打つ音が部屋の静寂をより一層深めていた。


 窓の手前に、天蓋のついた上品なベッドが孤島のように佇んでいる。敷かれた白いシーツが目に眩く、少しだけ寄っている皺が、かえって妙な近寄りがたさを醸し出していた。


「椅子が一つしかないの」


 リーザロットは持っていた本を無造作にベッドの上へ放り投げると、また本棚から別の本を引き出してきた。彼女はそのついでに、ドレッサーの前に置いてあった小さな椅子を俺の前へ持ってくると、「どうぞ」と声を掛けた。

 俺がこじんまりとしたその椅子へ腰掛けると、リーザロット自身はベッドの上にストンと座った。


「ごめんねさい、こんな形で。それとも、コウ君もこっちに来て一緒に座ってくれますか?」

「えっ!? いや…………それは、さすがに」


 俺が赤面して俯くと、リーザットは蒼い瞳を優しく細め「残念」と呟き、新たに持ってきた本を膝の上に広げた。どうやら、また俺はからかわれているらしい。

 俺はなぜ元気に「イエス!」と答えられなかったのかと後悔しつつ(トカゲめ、肝心な時に役に立たない)、彼女に尋ねた。


「…………俺の顔の治し方を調べてくれているの?」

「そうです。大方見当はついているのだけど、一応確認しておきたくて」

「ありがとう。…………君には、何から何まで世話になってばっかりだね」

「いえ、こちらこそ。コウ君には甘えてばかり」


 リーザロットが顔を上げて微笑む。

 やはり可愛い。長い睫毛に、薄桃色の頬。白くきめ細やかな肌。艶やかな、流れるような黒髪。ふっくらと豊かな胸の膨らみ、丸み。そして何より、奥ゆかしい蒼玉色の瞳の輝き。彼女の何もかもが俺をくすぐったくさせた。

 俺は彼女を見つめ、思い切った。俺だって、からかわれてばかりではいられない。


「リズ。…………やっぱり俺も、そっちに行っていい?」

「え?」


 無邪気に目を瞬かせる彼女の隣に、俺はサッと腰を下ろした。リーザロットは少し…………と言わず、大分驚いていたようであったが、やがてまた品良く笑顔を見せてくれた。


「そういうコウ君の優しいところ、大好きです」

「この方が、は、話しやすいよね」

「シタゴコロ…………」

 

 俺は呟くトカゲを引っ掴み、リーザロットとの間にそっと置いた。


「これさ、俺の「霊体の欠片」らしいんだけど」

「ええ。よくわかるわ」


 それもショックだなと思いつつ、俺は話を継いだ。


「よければ、これもどうにかしてくれないかな? どうしたらいいのか、わからなくて」

「「霊体の欠片」は放っておくと消えるものですよ。気が付くと、いつの間にかいなくなっているはずです」

「そうなの? でも、これ、消えたらどこに行くんだい?」

「消えた霊体は、魔海へ溶けていきます。見た所、コウ君にとってそれ程影響が大きなものではなさそうですし、爪や髪の毛みたいなものだと思って、あまり気にせず暮らしていればいいのではないかしら」

「ううん。でもこの髪の毛、ふとした拍子に俺の本音…………じゃなくて、俺の心にも無いことを喋るんだ。だから、なるべく早くどうにかしたくってさ」

「申し訳ないけれど、それはちょっと難しいわ。…………むしろ、意識すればするほど強く残ってしまうから、気にしないのが一番だと思います」


 トカゲが俺を見上げ、つぶらな瞳で何かを訴えていた。どうやらコイツなりに消えたくはないらしい。俺だって愛着が湧いてこないことも無いが、こういちいち本音を叫ばれていたら堪ったものではない。

 俺はトカゲを床に放し、言った。


「わかった。それじゃあ、なるべく気にしないようにしとくよ」

「――――ジユウダ!」


 叫びながらテケテケと這っていくトカゲの背を、俺とリーザロットは見送った。リーザロットは俺へと目を戻すと、慰めのように話した。


「でも、あの子、とても可愛いわ。いなくなってしまうのは寂しいかも」

「…………それは他人事だから言えるんだよ」


 トカゲは興味深そうに部屋を眺め回した後、クローゼットの陰にコソコソと消えていった。お願いだから虫とか食べないでほしい。

 その間にリーザロットは魔術の確認を終えたようだった。彼女はパタンと本を閉じると、改めて俺を見た。


「うん、もう大丈夫です。さっそく融合の再調整を始めましょう。…………じゃあ、コウ君。あちらの鏡の前に立ってください」


 俺は彼女に指示されるがまま、全身鏡の前に立った。


「鏡って、とても不思議なものよ」


 リーザロットは俺の周りを歩きながら、指先で魔法陣のようなものを描きつつ、どこか楽しそうに話した。


「映るのは肉体なのか、霊体なのか…………サンラインでも、未だに決着のついていない問題なの。だけど、このシンプルな道具は驚くほど色んな治療や修行の役に立つんです。…………もちろん、人を傷つけるためにも、ですけど」

「怖いこと言わないでくれよ」


 リーザロットはクスッと笑みを漏らし、続けた。


「本来、霊体・肉体の分離は、自然には滅多に起こらないものです。多くの人は幼年期を終えるまでの間に、両者が調和した状態を自ずと身に着けてしまうからです」

「それってつまり、幼児しかあの謎の双子状態には陥らないってこと?」

「んー…………子供の頃に多い症状なのは確かですね」


 何だか納得がいかないような気もするが、俺は黙って彼女の話に耳を傾け続けた。


「そうしたわけで、「分離」の訓練はともかく、特に「融合」の訓練は行われないのが普通なんです。集中して霊体を保つ訓練は、放っておくとたちまち融合してしまうからこそ重要なの。…………それにしたって、タカシ君みたいに生き生きとした肉体が分離できるのは、非常に珍しいことなのですが」


 俺はチラと窓際に目をやる。いつの間にかそこに移動していたトカゲが、レースのカーテンの裏側からじっとこちらを見つめていた。我ながら何を考えているのか全くわからない。気にすまいと思えば思う程、意識が凝り固まっていくようだった。

 リーザロットは足を止めると、寄り添うように俺の傍に立った。


「魔術を使うのは霊体です。今のコウ君は、獣変化術を固定した霊体と、特別に調整された肉体とが絶妙な具合で融合している状態です。身体的に大幅に強化されている上、きちんと調和が取れているので、見方によってはとても良い状態でもあるのですけれど…………本当に治してしまっても構いませんか?」

「ううん。顔だけ治すことってできないの?」

「それができたら一番なのですけれど、残念ながら。調和を取るには、このままか、元のコウ君に戻るかしかありません」

「じゃあ、後者で。身体は頑張って自力で鍛えることにするよ。この顔を治してほしい」

「わかりました」


 リーザロットは俺の顔を見上げ、真顔で頷いた。

 彼女は鏡を見やると、それとなく俺の手を取り、ふんわりと張った胸の上に乗せた。


「えっ!? ちょっ、ちょっと、リズ…………!?」


 思わず手の筋肉が硬直する。彼女の体温と柔らかさが手のひらにしっとりと伝わってきて、全身の神経が痺れ上がった。リーザロットはパニック寸前の俺なんてお構いなしといった調子で話を進めた。


「では、「融合」のやり直しのために、まずは一度、霊体と肉体に分離しましょう。術や薬品の影響で普段より難しくなっているとは思いますが、私も一緒にやりますから大丈夫です」

「…………わ、わかったよ。え…………えっと、ど、どうすればいい?」

「目を瞑って。深呼吸しましょう」

「う…………うん」

 

 スゥ、ハァと、リーザロットと一緒になって何度か呼吸を繰り返す。それに合わせて、たわわな胸が小さく上下した。俺はトカゲが何か叫びださないことを切に祈りながら、意識を無にすべく、静かに足掻いていた。


「ううん、少し気が乱れているわね。何とか落ち着けない? コウ君」

「…………」

「あっ、集中しているのね。ごめんなさい」


 気遣ったついでに、癖なのか、リーザロットが自分の手を俺の手ごと胸に沈ませる。俺は何も考えない。考えないったら考えない。禅僧にでもなったつもりで…………いや、いっそ石像になったつもりで、耐え抜こうとした。

 蒼い眼差しだけが感じられるよう、鎮めていく。色んな情動、邪な衝動を…………。


 俺は突き刺さるようなトカゲの視線を濃厚に感じながら、何とか凪を保った。

 リーザロットはマジで何もわかってないのか、わざと無視しているのか、平然と話していった。


「落ち着いてきたところで、共力場を編みましょう。私がコウ君の手を取って、肉体であるタカシ君から引っ張り上げるイメージです。

 分離だけが目的でしたら、全部私が主導で行っても構わないのですが…………良い機会ですので、自力で分離を制御する訓練も兼ねて、ゆっくりやっていきましょうね」


 この状況で、「共力場」? 色々とわかった後では、それはほとんど凶悪とも言える提案に思えた。

 一体、このお姫様は俺を何だと思っているんだろうか? 君はどんな立場であれ女の子だし、俺はどんなにショボくても男は男だと、言ってやった方がいいのか。


 俺は目を開き、精一杯凛々しい男らしい顔でリーザロットを見据えた。だが、彼女の危ういぐらい俺だけを見つめる蒼を浴びた途端に、一気に気持ちが萎えてしまった。ああ、邪悪なのは俺だったと、言葉にする前から痛み入った。


「コウ君? どうかしましたか?」

「いや…………何でもないよ」

「何か言いたそうに見えるわ」

「…………。俺、君に対して何か変なこと考えるかもしれない。もし気分を害したら、ごめん」

「そんなこと。人の感情はどんなものだって自然で、尊重されるべきものです。辿れば全ては魔海の発露であり、それは玉座の主の御心です。そこに人が区別を付けるなんて、大それたことはできません」

「そんな大層な話じゃなくてさ…………」


 いや、まぁ、もういいか。巫女様がそう言うのであれば、俺のスケベ心は主の御心なのだろう。何だかとんでもなく不遜かつ冒涜的な気がするけれど、きっと彼女相手に何を言っても始まらない。

 俺は渦巻く疑問を飲み下し、改めて言った。


「それじゃあ、力場を編もうか」

「はい」


 リーザロットは声を弾ませた。俺なんかと一緒にいて、こんなに楽しんでくれるなんて。気恥ずかしいけど、俺もものすごく嬉しい。俺は彼女の力になれるように、もっと強くならなくちゃいけない。


 リーザロットがぐっと俺の手を握りしめ、俺は彼女の瞳の奥に魅入った。魔力と一緒に扉の気配を感じるけれど、今日は開かない。彼女が見せてくれるままの彼女とだけ、繋がっていよう。


 ――――…………リーザロットの魔力は甘くて、花の蜜みたいだった。

 彼女の力場に触れていると心から安心する。

 深い海のような冷たさと、桜吹雪の中にいるような白い安らぎに同時に浸れる。

 耳をすませば、彼女の鼓動が手のひら越しに聞こえてきた。

 小さな身体…………俺からしてさえ、本当に華奢な彼女の肉体を、この音が懸命に満たしているんだ。

 俺は風の音を聞くように、彼女のリズムに意識を傾けた。

 部屋の中の静けさと、リーザロットの鼓動と、外の雨音とが混ざり合って、俺は次第に、自分が透明になっていくような感じがした。


「うん…………。コウ君、上手よ」


 リーザロットが甘く囁く。彼女の声が、そのまま俺の身体の中に沁み通ってきたようだった。

 彼女は俺の手を、とても大事なものでも抱えるかのように丁寧に両手で包んだ。


「鏡を見て」


 言われても、俺はすぐには目を逸らせなかった。蒼い海と桜霞の静けさの中に、まだじっくりと浸かっていたかった。


「…………コウ君、ありがとう。でもお願い。…………私は、いつでも貴方を歓迎しますから、今は」

「…………」

「…………ね、コウ君…………?」


 リーザロットの声が徐々に萎んでいく。彼女の鼓動が乱れ始め、透き通っていた静寂が微かに曇り始めた。俺はようやくいけないと思い至り、彼女の瞳から目を離した。

 リーザロットは珍しく頬を上気させつつ、遠慮がちな声で告げた。


「鏡の中の、貴方を見てください。…………ゆっくりと、隅々まで」


 俺は名残惜しみながらも、言われた通りにした。

 透明になって消えたはずの自分がまだ鏡の中に立っている。奇妙な感覚だった。

 雨音が淡々と響いている。

 ともすると「そいつ」が誰なのか、本気でわからなくなりそうだった。

 アイツは…………。


「「彼」を見つめて。「彼」の言葉を聞いて。…………「彼」の名前を呼んで」


 リズの声に応じて、鏡の中の俺が何か喋り出した。どうも俺のことを呼んでいるらしい。

 俺は心の中でだけ、応えた。


(…………タカシ?)


「そうだよ!」

「!?」


 俺は驚き、思わずその場から飛び退いた。同時に、「あっ」と小さく叫んでリーザロットが俺の手を離す。俺は無様に尻餅をついて、眼前で仁王立ちしている男の見慣れた顔を仰いだ。


「い、い…………いきなり返事するなよ、バカタカシ! 心臓に悪いだろうが!」

「心臓はこっちにあるんだから関係無いの! そっちこそ、いきなり後ずさったりしたらリズがビックリしちゃうんだから、気を付けろよな、バカコウ! …………ねっ、リズ?」


 タカシが馴れ馴れしくリーザロットに話を振る。彼女はタカシの手を胸に置いたまま(あれ、どういうこと? 何にせよ、アイツだけズルイじゃないか!)、答えた。


「いえ、いいの。平気よ。ちゃんと分離できたようで良かったわ」

「君のおかげだよ。いつもああして、鏡を見て集中すればいけるって感じかな? 俺とコウだけでも、もうできるかな?」

「そう…………ですね。もう少し練習すれば、できるようになると思います。今回は、共力場を作ることで私が霊体のイメージを安定化させたのだけど、それが独りでもできるようになったら、自在に分離できるようになるでしょう」

「やったね!」


 俺は喜ぶタカシが、さりげなく胸の上の指を動かしているのを見逃さなかった。浅ましいヤツめ。俺は立ち上がり、彼の腕を掴んでリーザロットから引き剥がした。


「オイ、何すんだよ?」


 タカシが口を尖らせる。追って、どこからか


「――――ザンネン!」


 というトカゲの声が聞こえてきた。

 俺はいずれをも無視し、リーザロットに話しかけた。


「さぁ、続きをやろう。この後は、どうすればいい?」

「何ピリピリしてんだよ? そんな風に詰め寄ったら、おっかないだろうが。…………そんな顔でさ」


 俺はタカシを睨み付け、その顔面を勢いよく指差した。


「な・ん・で! お前だけ元の顔に戻ってるんだよ!? どうして俺だけ、この化物面のままなの!?」


 俺は鏡に映し出されている自分の顔を見た。タカシがほとんど人間の顔を取り戻しているのに対して(首筋の辺りにだけ、まだ鱗っぽいものが残っていたが)、俺の方はばっちり怪人ミナセのままだった。


「落ち着けよ、コウ。カルシウム不足か? なんなら、厨房でマヌーのミルクでも貰ってきてやろうか」

「いるか、そんなもん! これが落ち着いてられるか! どいつもこいつも、他人事だと思いやがって! 俺のこと馬鹿にしやがってさ!」

「コウ君」


 ふと、俺の頬に温かいものが触れた。ハッとして見ると、リーザロットが悲しそうな表情で俺に触っていた。

 彼女は俺を見つめ、優しく諭した。


「私は、馬鹿になんてしていませんよ。貴方だけがそのままなのは、獣変化術が未だ固定されたままだからです。…………あと少しの辛抱ですから、頑張りましょう。ね?」

「…………。…………うん」


 俺は唇を噛んで頷き、押し黙った。横から「そうだ、そうだ」とか「ソウダ!」とか聞こえてくるのが非常に煩わしかったが、気にしないよう努めて深呼吸をした。リーザロットはもう片方の手も頬に添え、俺に言った。


「偉いわ。では次は、術の解除です。…………これは、私に任せてくださいね」


 リーザロットが背伸びして、俺の額に自分の額を軽くぶつける。すぐ近くに寄った彼女の髪や肌からほのかな花の香りが漂ってきた。無いはずの心臓が喉から飛び出しかけて、俺はつい全身を強張らせた。

 戸惑って何も言えずにいると、動揺を見透かしたらしきリーザロットが喋った。


「どうか緊張しないでください、コウ君。私、貴方に思われるのが好きなの。…………とても」


 そんなこと言われたら、余計に緊張するって!!

 …………とは、叫べなかった。いつの間にか、緊張からではなく、本当に声が出せなくなっていた。


 リーザロットはじっと目を瞑っている。俺はどうしたらいいのかわからず、彼女の顔を間近で眺め続けていた。

 女神かと見紛うような美貌、それに不思議と気持ち良く調和している、ごく普通の女の子の温もり。彼女が笑うと、俺の胸はどうしようもなく高鳴った。彼女の近くにいるだけで、身体中の血が浮かれて、落ち着きを失くしてしまう。


 …………好きなのかもと思う。だが頭の片隅では、彼女が「蒼の主」という特別な存在だからこそ魅かれるのだともわかっていた。この魂と魔法の世界で、彼女は本当に、かけがえのない存在なのだ。誰にも代わることのできない運命を…………彼女自身は、「誰にでもできる仕事」だとか言っていたけれど…………背負って、彼女は独り立っている。


 だが、俺は秘められた彼女のことも知ってしまっている。こうして触れ合っているだけでも、トレンデで出会ったあの子の涙が滴ってくるようだった。

 俺はリーザロットの、恐らくは最も脆い欠片と言葉を交わした。トレンデで触れ合ったリーザロットの欠片のことは、あの土地の夕焼けと一緒になって今も記憶に焼き付いている。


 俺は「蒼の主」ではない、生のままの彼女にもう一度会いたかった。単なる女の子の「リーザロット」に会いたい。またあの子と話したい…………。


 つらつらと止め処なく考えているうちに、ふっとリーザロットの手と額が俺から離れた。彼女は一度瞬きをし、俺と差し向かった。その無防備な表情は、俺の会いたがっていた彼女とそっくりだった。


「…………君は」


 呟きかけた俺の言葉を遮るように、リーザロットが話した。


「鏡を見て。格好良い人」

「え?」


 彼女の笑顔はもう、いつもの「蒼の主」である。俺は驚きながらも振り返って、鏡を目の当たりにした。

 そこには、紛れもなくハンサムな水無瀬孝がいた。


「あっ…………本当だ! 治った!? いつの間に!?」

「ちょっと呪術を使ったの。あとは、タカシ君と融合するだけ」


 俺は自分の顔を撫で繰り回した。どこを触ってみてもスムーズな肌触り、自然な温かみ、柔らかみを感じる。俺は再度自分の顔を見て、リズに笑いかけた。


「ああ、戻った! ありがとう、リズ!!」

「どういたしまして」


 次いで俺は、タカシの方を向いた。


「相棒! もう用済みだ! とっとと消えるんだ!」

「なんて言い様だ!」


 俺は冴えない顔した男を見て、思いきり笑った。なんてイケメンな不細工なのだろう、俺は! 



 それから俺達は、最終段階である「融合」に取り掛かかることにした。だが、こちらは散々脅されただけあって、そう簡単には行きそうもない仕事だった。


「「融合」は、「分離」の逆の手順で行います」

「逆って、どういうこと?」

「――――ハンタイ!」


 トカゲの声は聞こえるが、どこにいるのかはわからない。俺はちょっとだけ辺りを探してから(ベッドの下にいた…………)、またリーザロットに尋ねた。


「具体的には、どうすればいいの?」

「よく用いられるのは、薬品を使用する方法ですね。肉体の感覚閾値を操作して、霊体との親和性を一時的に高めます。ウィラック先生が取った方法ですね」


 聞くなり、タカシが激しく首を振って拒絶反応を示した。


「ダメ!! ダメ、ゼッタイ!!」


 俺は精鋭隊の宿舎での騒ぎを思い起こし、彼の背中を撫でてやった。

 リーザロットは眼差しだけで俺達に同情し、いかにも困ったという形に眉を下げた。


「そうなりますと、なかなか大変ね。どうにかして霊体のイメージと肉体のイメージを重ねなければならないのですが…………これは、極度のリラックス状態や、あるいは極度の集中状態でよく起こる現象です。こうした状況を自力で作り出すのは、慣れていない方にとっては難しいでしょうから…………」

「うーん、そっかぁ…………」

「あっ、じゃあ、二人で座禅でも組む? 落ち着くよ」


 タカシのあっけらかんとした提案は、実際そんなに悪くないと思えた。

いつも何となく分かれて、何となくまたくっついてきたのだから、今回もそんな大上段に構えなくとも良い気がした。特に何もせず、心穏やかになれば、そのうちトカゲもタカシも消滅してくれるのではないか。

 俺はタカシの肩を叩き、答えた。


「そうだな。座禅の組み方なんてよく知らないけど、何となくやってみるか! 悟りを開くのが目的ってわけじゃないし、気楽にやればいいだろう」

「ザゼンって、何かしら?」


 首を傾げるリーザロットに、俺は適当に説明した。


「座禅っていうのは、オースタンの、ある宗教の僧侶がやる修行の一つだよ。あぐらをかいて、目を瞑って…………何かよくわからないけど、精神を統一するんだ」

「そうなの。わからなくてもいいのかしら?」

「わからないことを考えるためにやるから、いいんだよ」


 タカシの補足を受け、リーザロットはさらに首を捻った。俺にも意味不明である。いや、もしかしたら案外正しいのかもしれないが、それも座禅中に考えてみればいいことか。

 ともあれ、俺はリーザロットに話した。


「そういうわけで、ちょっとその辺のスペースを貸してくれないかな? じっとしているだけだから、迷惑は掛けない」

「ええ。構いませんが、どのくらい時間がかかるものなのでしょうか?」

「わからない。元に戻るまで」

「わからないのね」


 リーザロットは好奇心と不信を目に光らせつつ、頷いた。

 それから彼女は気前良く、ベッドを貸してくれた。(というより、床に座るという発想自体が無かったのだろう)リーザロット自身はドレッサーの前に座ると、にっこりと微笑んだ。


「では、私はこちらで本を読んでいますから、お時間を気にせず、存分にザゼンなさってくださいね」


 俺達は本当にこれでいいのかと内心疑問を抱きながら、粛々と寝台に上がって足を組んだ。座禅は初めてだが、柔道の稽古の時に黙想ぐらいはしたことがある。


 道場は、乱暴な奴らばっかりで嫌な場所だった。稽古中は先生が見張っているからマシだったが、こうして黙想をして稽古を終え、道場を出てからは本当に最悪だった。

 あの頃は、誰も彼もが喧嘩ばっかりしていた。俺は弱いのに、喧嘩っ早い親友のヤガミのせいでしょっちゅう巻き添えを喰らっていた。


 ヤガミに限らず、皆、体力が有り余っていた以上に、気持ちがいつも逸っていて、目の前にあるものなら何でも見境無く暴力の対象にしていた。しかも、それが何よりの「元気」の証だとか見做されていたのだから、どうしようもなかった。

 アイツら、もしサンラインで育っていたなら、どんなに凶悪な魔法使いになったのだろう。


 俺は目を瞑って、しとしとと降りしきる雨に耳を澄ませた。

 窓を打つ滴のリズム。リーザロットが本のページを繰る音。タカシのゆっくりとした吐息。

 じっと聞いていると、トカゲが俺の膝の上に乗っかってくる気配がした。

 彼はぺたりと身を伏せてリラックスすると、囁くように呟いた。


「――――ネムイネ…………」


 コラ、それは言っちゃダメだろうが…………。

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