幼馴染と通訳

 幼馴染の話をしよう。

 そいつとは家が近所で、ずっと同じ学校に通っていた。実のところ、そんなにしょっちょうつるんでいたってわけじゃないんだけれど、なぜかお互いに、独特の立ち位置ってものを保っていられた間柄だった。


 何でも知り合った仲ではなかった。むしろ、ロクに知らないことの方が遥かに多かった。何を知らなくとも気楽に過ごせる。興味の方向が大体一緒で、動くときの呼吸がやけに合っている。今日遊ぶ予定について話していたら、そんなことを話す時間なんてあっさり無くなった。


 ただ、俺は馬鹿だったけど、アイツは一つ聞けばたちまち十理解する、そういうヤツだった。俺はたまには、そんなアイツを密かに妬んだりして、でもちっとも敵わなくて、みっともない気分に陥っていたりしていた。


 そのうちに俺は、完全に自分に呆れてしまった。小さい頃から、親の教育方針で色んな習い事をさせられていたのだけれど、どれもちっとも身につかないし(初見の幼馴染の方が上手なんてことは、ザラだった)、どう工夫しても叱られてばかりだしで、俺自身、自分の溜息で窒息しそうだった。


 情けない話だけれど。俺がこそこそと「詩」を読み進めていたのも、描かれた世界に惹かれたからだけでは無かった。何もできない、しょうもない自分と向き合うために、ああいう静かな隠れ家がどうしても必要だったのだ。(それは今の俺にとっても、同じことだ。俺は、イモリが空気を求めて、こっそり水面へ呼吸しに行くように「詩」を求めている)


 アイツは身長も高くて、誰にも物怖じしなかった。暴力に暴力で立ち向かうことを全く躊躇わなかった。ふと見たら、しょっちゅう誰かと喧嘩していた。俺とこそ一切争わなかったが、アイツはいつもギラギラしていた。


 よく覚えているのは、中学の修学旅行の時。京都の繁華街の、何たら通りで、同じ学校のタチの悪い連中とアイツが諍い始めた。連中が何かアイツの気に障ることを言って、無視すればいいのに、アイツがそれに応じた。

 

 言い争ううちに、逆上した相手が先に手を出す。アイツは殴られたその瞬間、フッと短い笑みを漏らした。全身の血が一瞬で凍つくような、押し殺した笑顔で、悦びにも似た奇妙な情熱を迸らせていた。俺は人だかりの中で眉を顰めた。


 そこから先は目も当てられなかった。アイツはよろめきから立て直ると、すぐさま相手を殴り返した。相手の仲間やら班の連中やらが彼を止めに入ったが、アイツは意にも介さず、執拗に標的と定めた相手を殴り続けた。倒れれば蹴り、逃げれば追い詰めて、さらに蹴る。殴る。息も上がらない。何一つ喋らない。爬虫類みたいな真顔で、アイツはひたすらに、ひたすらに暴行を加えた。彼自身もひどく殴られていたが、それも霞んでしまうぐらいに、凄まじい気魄で拳を振るった。


 取り巻いているクラスの女の子が、ギャンギャンと泣いていた。アイツとも、殴られている男とも大して関係が無いはずなのに、それはもう大袈裟な声で喚いていた。街の人は迷惑そうに(しかし、少しだけ面白そうに)見守っていた。ヤバイんじゃないの、という囁きが、細々と交わされ始める。


 俺はと言えば、あまりに馬鹿馬鹿しいので黙って顛末を眺めていた。

 アイツは賢いヤツだったけど、時々どうしようもなく愚かになった。アイツはあれで、正気なのだ。怒りに我を忘れているなんて、可愛い状態じゃない。

 アイツはわざとらしい狂気を狡猾に演じて、言葉にできない、アイツだけの黒いわだかまりを爆発させる。それは時として暴力となり、時として容易には真似できない才気(アイツは文字通り、死ぬほど勉強した。血が滲むほど努力した)となり、噴出する。泣くよりも、愚痴るよりも、妬むよりも、「詩」を読むよりも、彼はそうした「暴力」を何よりも好んでいた。


 俺は頃合いを見計らって近寄り、声をかけた。アイツはそんなとき、決まってうざったそうに(本当にうざったそうに)こちらを見やると、バツが悪そうに言うのだ。


「コウ、そんな目で見るな。…………わかってるよ」


 別に責めてなどない。だが、そんな風には見えたかもしれない。


 修学旅行の日、アイツと俺は一緒に事情を弁解しに行き、そのまま宿に帰った。帰り道、アイツはふてているんだか、反省しているふりなんだか知らないが、一言も口を利かなかった。

 なぜ俺がついて行くんだと言ったら、それが俺の立ち位置だからとしか答えようが無かった。アイツがたまにしでかす、説明のしづらい、この上もなく厄介な憂さ晴らしに、尤もらしい理由をつける。そんな感情の「通訳」が、この俺の役目だった。

 慣れた俺は淀みなく、担任に告げる。


「…………はい、そうです。タナカたちが最初に、ヤガミの家のことを揶揄したんです。母子家庭で、収入も無くて、どうやって修学旅行に来たんだ? って、そんな感じで突っかかっていました。あと、弟さんの病気や、おばさんの身体のことも言ってました。障碍者がどうのこうの…………って。この辺りは本当に最低で、多分、一緒にいたオイカワさんたちもよく覚えていると思います。

 …………元々、サッカー部の連中とヤガミとは折り合いが悪くて、何かと絡まれることが多かったんです。ずっと聞き流してきたんですが、今回はさすがに…………」


 影の溜まったバスの車内で、ヤガミは夕焼けに染まる街を眺めながら、まるで透明な音楽に耳を澄ましているかのような顔で黙っていた。

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