第83話 扉の魔術師と紅き「邪の芽」。俺が最初の魔法を習うこと(前編)
フレイアは館の廊下を歩きながら、言った。
「コウ様。よろしければ中庭へ出てお話しませんか? あんまり部屋の中に籠ってばかりいますと、どうしても気が塞いでしまいますから…………」
「ああ、そうしようか。俺も、そろそろ外の空気が吸いたい」
俺は両手を組んで大きく伸びをし、フレイアについて外のベランダへ出た。
二人揃って、庭へと続く階段をゆっくりと下りていく。石造りの階段は夕陽に晒されて、ノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。
こうして歩いていると、小さい頃、よく遊び場にしていた神社の階段のことを思い出す。あの階段を夕暮れ時に一気に駆け抜けると、異世界へ行けるだなんて噂されていたものだった。まさか、大人になってから本当に来るとは思わなかったけど。
「…………そう言えば、昔さ」
俺は一歩先を行くフレイアに向かって呟いた。
フレイアは一つ下の段からこちらを振り向き、小さな頭をちょっと傾げた。俺はそんな彼女の無防備な表情を堪らなく可愛いなと思いつつ、続きを話した。
「昔、俺がまだ、魔法のことも、時空の扉のことも、全然知らなかった頃に、不思議なことがあったんだ。俺の家の近くに古い神社…………あー、神社っていうのは、オースタンの、俺がいた地方によくある神様のお社のことなんだけどさ、そこに、これとよく似た長い階段があって、そこでちょっと変わった出会いをしたんだ」
俺はフレイアを見つめ、続けた。
「…………あの時も、ちょうど今と同じような夕暮れだった。俺は習い事に遅れそうだったから、近道のために、急いでその階段を登っていた。下の道を回っていくより、神社の敷地を突っ切った方が早かったんだよね。もちろん見つかるとすごく怒られるんだけど…………まぁ、あの神主の爺ちゃん、大分齢だったし、滅多にバレなかった。
そんなわけで、俺がその階段を登りきった時に。ふいに奥の森から「ガサガサッ」って音が聞こえてきたんだ。
最初は俺も、タヌキか猫…………その、動物だと思った。でも、何だか妙に気になって、そっちを見に行ったんだよ。
そしたら…………あの子が、いたんだ」
「誰がいらっしゃったのですか?」
フレイアが瞬きをする。俺は遠くの菫色の空に目を移し、続けた。
「誰だろう…………なんて言ったら、あんまりにオチの無い話で悪いんだけど。でも、本当に不思議なのはそこなんだ。俺、自分がその時誰に会ったのか、全く覚えていないんだよ。それこそ、魔法にかかったみたいに、「出会った」という強烈な印象だけが胸に残っているんだ。その後無事、スイミングスクールのバスに乗り遅れたこととかは、よく覚えているんだけどね。あの出会いのこと、それだけがまるで、溶けちゃったみたいに、思い出せない。
…………自分から話そうとしたくせに、全く、ひどい話だよね。
でも、それでも何でわざわざ、こんなことを話したかって言うと」
俺はフレイアの瞳を見、言った。
「何だか、今の君を見ていると、すごく頭にチラつくんだ。落ち込んでいる…………その顔や、夕日に照らされた心細そうな背中が、あの日に見たものと物凄く被るんだ。
燃えるように真っ赤な君の瞳と、あの日の太陽とは、全く同じ色をしていた。
…………それで」
俺は急にポエミーな自分が恥ずかしくなって、一瞬口ごもった。恥ずかしくなると同時に言葉が吹っ飛ぶ。
だが目の前のフレイアは、相変わらずド真面目な顔で続きを待っており、俺は照れ隠しすらもできずに、言葉を継がざるを得なかった。
「それで…………その後、さ。俺と出会ったその子は…………その、笑って、くれたんだよね。どうして笑ってくれたのか、何を話したのかは、ちっとも覚えてない。けれどその時、俺の世界が「ふっ」と軽くなって、見えない桜が辺り一面に綻んだ気すらしたんだ。
俺は…………それがすごく嬉しくて、なんかもう、なんかこう、この先何を忘れても、何を壊してしまっても、この気持ちだけは一生、ずっとずっと忘れない、って、さっきのツーちゃんの話じゃないけど、魂に刻み込んだんだ。
…………えっと、だから」
俺はもう一度、おずおずとフレイアの目を覗き込んだ。日差しを浴びて少し細められた目元がしっとりと俺を見返している。俺がしどろもどろでみっともないせいか、いつもより彼女がやけに大人びて見えた。
「君にも、笑って欲しいんだ。自分勝手かもしれない。でも、そのためになら俺、マジで何でもする、やってみる。本当に…………。
だから、どうか、俺に素直な君を見せてくれないかな? 君が、きっとあの「邪の芽」のことで不安がっているんだろうってのは、わかってるつもりなんだ。
でも俺は…………俺は、何があっても、君の味方だ。君から「邪の芽」が伝染しただとか、ツーちゃんが言っていたけれど、そんなことは全然気にしない。するわけない。
君は俺の扉を開いてくれた。俺はただ、君に笑って欲しいだけで」
世界なんてどうでもいい、とまでは、さすがに今は言えなかった。
「こうして、ここに立っている。だから君の…………もっと、近くにいたい」
言いながら、全身がカァッと熱くなった。これではポエムどころか、ほとんど告白だ。
フレイアはいつも通り、頬を桃色に染めてじっと俺を見ていた。答えに困っているのか、胸の前に頼りなげに手を重ねていた。白くしなやかな長い指が、躊躇いがちに絡み合っている。
俺は沈黙の間、心配で心配で居たたまれなくなっていた。
今更だが、本当はフレイアは俺のことなんか大嫌いで(思えば、彼女にもセクハラまがいのことをたくさんしてきた)、それなのに「近くにいたい」とかキモイことを言われて、立場上ハッキリと拒絶もできないしで、困らせているのではないか。
…………いや、いやいや。
さっき「信じます」って言ってくれていたし。
でも。
やがてフレイアはそっと指を解くと、俺を見上げたまま言った。
「…………コウ様。こんなフレイアなどを心配していただき、ありがとうございます。身に余る幸せです。
確かに、今の私は少々混乱しております。これまであまり自分自身のことを…………自分の内の「邪の芽」のことも含めて、誰かにお話しすることはありませんでしたから…………考え込んでしまっています。ずっと、己の内だけに秘めておきたかったことを、よりにもよって…………コウ様に、お話ししなければならないなんて」
フレイアが睫毛を伏せ、再び胸の前で手を組み合わせる。今度は力強く、まるで祈りでも込めるかのようだった。
「コウ様は…………本当にお優しい、勇気のある方です。…………尊敬して、おります。私はあなたにこの身を捧げることを一切躊躇しません。ですが」
フレイアは潤んだ瞳で俺を見つめ、呟いた。
「…………あなたに幻滅されることは、怖いのです」
俺はその時、無意識に彼女の手を両手で包んでいた。一体、この子はどこまで馬鹿なんだって呆れると同時に、どうしても気持ちが抑えられなかった。
「フレイア。同じことだけど、言わせてくれ」
「は…………はい」
「俺は、君に笑って欲しい。そのためなら、俺は何でもする。もう故郷に帰れなくったって構わない。どんな怪我をしたって、何に呪われたって後悔しない。君の国を守って、君が喜んでくれる。それだけでもう、十分だ。例えば君の正体が悪魔だと聞いたって、そんなの、俺には関係無い」
「そっ、そんな。それは…………。ですが」
「「ですが」なんて聞かない。俺の理由は、君だけだ。もう永遠に変わらない」
フレイアが火照った顔で俺を見つめ返す。一方の俺も多分、トマトみたいに真っ赤な顔をしていたろう。何もかも言い切ってからようやく、自分のしていることのこっ恥ずかしさに気付いた。
フレイアはややしてから、小さな声でこぼした。
「…………あ、あの、ありがとう、ございます。私…………そうしましたら、全部…………コウ様に、お話します、から」
「あ…………ああ。ありがとう。嬉しいよ」
「はい…………」
「…………」
「…………」
俺は静かに手を下ろした。フレイアは組んでいた手をパッと解くと、
「あの、あちらにテーブルがあります!」
そう言って、そそくさと先を歩き出した。まだ顔が赤い。むしろ、さっきより赤いかもしれない。俺は黙って額に湧いた汗を拭った。
ああ。何だかいつまでも経っても心臓が休まらない。全部、自分のせいなんだけど。
それから俺は彼女を追って、庭へ入っていった。夜にひっそりと染まりつつある空には、サンラインの星が…………オースタンの空とは全く違う星たちが、美しく輝いていた。
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