第72話 変わらない青と、翠の歌。俺達の前に夜が舞い降りたこと。
…………ナタリーのあえかな吐息が、俺の耳をくすぐる。
俺は思わず身体を震わせ、目を開けた。
稲妻はもうすっかり静まっていた。辺りを見回してみると、ほの白く光る巨大なカーテンが、辺り一面に荘厳に張り巡らされていた。
遥か天空から垂れるカーテンは、風も無いのに悠然と揺らぎ、何だか巨大な壁に映し出されたホログラムのようだった。まるで重さが感じられず、透けて見えるその奥には、ひたすらに虚空が広がっていた。
魔術師たちの淡々とした声だけが、がらんとした場に虚しく響いていた。
「…………やったか?」
「ああ、毛の1本も残さず、白閃の彼方へと消し飛んだ」
「念のため、痕跡線を取れ」
「わかっている」
事務的なトーンの会話が続く。今までの戦闘とは打って変わって、彼らの態度は平静そのものだった。
あんなにぎっしりと立ち込めていた雷雲も、今は跡形も無い。兵士たちはどこに行ってしまったのだろうか。
俺は魔術師たちの、クローンじみて似通った背中を見守りつつ、未だにガッシリと俺に縋り付いたままのナタリーに呼びかけた。
「ナタリー…………終わったよ。もう大丈夫」
ナタリーはなおも顔を上げることなく、かえって、より強く俺を抱き締めてきた。
こんなに頼られて、嬉しくないと言ったら嘘になる。だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。俺はもう一度、今度はややゆっくりと、言い聞かせるように伝えた。
「ナタリー、聞いて。リケはもういないよ。今、サモワールの人たちがコンセキセンを調べてくれてる。見ている限りじゃ、あんまり深刻そうな様子じゃない。きっと、もう大丈夫だよ」
ナタリーは、それでも応答しなかった。
俺は溜息を吐きつつ、彼女の背中をそっと撫でた。小さい子でもあやしている気分だったけれど、思えば彼女はついさっきリケに殺されかけたばかりなのだ。無理もない。
俺は黙って、ナタリーの若葉の魔力を味わっていた。
霊体が無いとは言うものの、彼女の内には、確かに小さな双葉の魔力が芽吹いていた。普段の彼女そっくりな、溌剌とした萌芽が目に見える。少し水をやれば、すぐに見上げるほど大きく成長するに違いなかった。
「ナタリー」
俺は頃合いを見て、再度呼びかけた。
「…………。…………何です?」
やっと返ってきた返事に、俺はホッとして声を明るくした。
「落ち着いたかい? もう、終わったよ」
「…………。…………ミナセさん、変なとこ触ってる」
「え?」
俺の左手はいつの間にかナタリーの腰にあった。そういえば…………ずっと何か柔らかいものに当たっていたけれど。
俺は無意識に、手のひらでその辺りをまさぐった。
「キャアッ!!!」
ナタリーは飛び上がって叫ぶなり、顔を真っ赤にして俺を睨みつけてきた。
「最ッッッ低!!! 何で今、下の方まで触ったんスか!?」
俺は即座に自分の犯した過ちに気付き、ナタリーのふっくらとした、引き締まったお尻から手を離した。
「あっ…………、ごっ、ごめん!! 気付かなかったんだ!! 本当に無意識に手が!!」
「信じられると思います!? ひどい!! やっぱり変態だったんだ!! ミナセさんのこと、本気で信じかけてたのに!!」
「誤解だって!! っていうか、まだ信じてくれてなかったのか!?」
「ミナセさんのバカ! 痴漢! ミナセさんなんて…………」
と、ナタリーが一歩身を引いた、その瞬間だった。
突如、魔術師のリーダーが血相を変えて何か怒鳴った。他の魔術師らの表情に、その時初めて人間らしい恐怖の表情が滲み出た。
「何だ!?」
俺は咄嗟に周囲を見回したが、巨大なカーテンが不気味に揺れている他には、何の気配も感じられなかった。
(ミナセさん、走って!!!)
ナタリーから念話が届いた。
しかしナタリーは言いながら、すでにとんでもない跳躍力で、俺を抱えて魔術師たちとは反対方向に駆け出していた。大の男を小脇に抱えたナタリーは、アクセサリーを盛大に鳴らしながら呼ばわった。
(レヴィ!!! こっち!!!)
どこかで、レヴィの応える低い声がする。
気になって後ろを振り返ってみると、流れ星に似た小さな光線が3つ、魔術師たちの間を縫って飛び交っているのが見えた。
白、黒、茶の流星は、慌てふためく魔術師たちを俊敏に翻弄しつつ、せめぎ合い、鋭利な鎌となった。
舌に叩き付けられる、血の味。冷たく毒々しい魔力が、全身を一気に粟立たせた。
流星の鎌は瞬く間に踊り、魔術師たちを八つ裂きにした。
「――――――――!!!」
俺は吹き上がった鮮血と、脱力して落ちていく屍の、例えようも無く無力な有様に目を剥いた。
「あ…………、ああ」
俺は二の句も継げず、呻きを漏らした。
血煙の奥から、二つの妖しい閃光が現れる。
リケは血にまみれた姿のまま、静々と前へ踏み出し、ニンマリと丸っこく笑った。
「やるじゃニャイか」
リケは耳をピンと立て、ベットリと爪に付着した血を優雅に舐めた。
「畜生…………!!!」
ナタリーは苛立たしげにこぼすと、走りながら、荒々しく詠唱した。レヴィの長い声が次第に、高く大きくなっていく。場の魔力がそれに合わせて、ズルズルと勢いよく吸い寄せられていった。
容赦無く引き剥がされていく魔力の大波の一番奥で、巨大なクジラの尾が強かに闇を打った。
津波が、轟と俺たちをも包み込む勢いで押し寄せてくる。
リケは猛烈な引き波に、顔を顰めて足を突っ張っていたが、すぐにハッと大きく目を見開いた。瞳がチカッと黄色く光る。
俺は少しでも波の威力を増そうと、扉を探していた。何か使える力は無いか。どこにも無いのか!?
ナタリーはその合間にもリケから離れようと、ひたすらに息を切らせて走っていた。俺をおろす余裕も、後ろを振り返る余裕も、津波を待つ余裕も無いことが、乱れた呼吸や切羽詰まった横顔から、ひしひしと伝わってきた。
彼女が走ると、手足の色鮮やかなアクセサリーがシャンシャンと騒ぎ立てる。
俺は彼女のアクセサリーが掻き鳴らす音色に、全意識を集中させた。
ナタリーの喰魂魚の歌が届いたように、きっとこのリズムだってレヴィに伝わっているはずだ!
ナタリーは焦りと戸惑いに駆られながらも、力強い足取りで駆けていく。
俺はゆっくりと目を閉じ、アクセサリーの散らす色とりどりの音の葉を、一枚ずつ、丁寧に感じ取っていった。
急いで、だが、慌てず。
どの葉も、彼女の内の萌芽と似通った、心地良い息吹を立てていた。どれだけ恐怖の風に煽られようとも、魂の青さは失われないものなのか。俺はナタリーの芯の強さが、本当に好きだった。
葉をいくつも、いくつもなぞるうち、徐々に豊かな枝ぶりが見えてきた。バラバラだった音の粒が、まとまりのあるメロディとなって響き始める。枝を揺らす青い樹はやがて、ポツポツと歌い出した。
俺は聞こえてくる音色をこぼさないよう、さらに集中し、意識に繋ぎ留めていった。
楽しげで、明るく。だけど露の透明な哀しみを、ひっそりと宿した歌。
雨と土と、豊かな陽光の恵みが、全身に染み入って満ちる。まるで翠玉色の海に抱かれたかのようだ。
俺はそのまま、意識をスイと泳がせた。
すぐそこに扉が見えている。
目を開けて、扉を開け放つと、透き通った音楽がサァッと広がった。
透明な音楽が場を渡る。
レヴィが気持ち良さそうに、ハーモニーを奏でた。
俺は肺いっぱいに魔力を吸い込み、ふっと気を緩ませた。
同時に、翠色の津波が怒涛となって場を飲んだ。
一瞬だけリケの鋭い悲鳴が聞こえたが、すぐに水音に掻き消されてしまった。
俺とナタリーは荒ぶる波に逆さにされ、何度も転がされ、紙屑のごとくあっけなく吹き飛ばされていった。ナタリーはやっと俺を離したが、逆に俺は彼女の腕を強く掴んでいた。
「痛いだろうけど、我慢して!」
俺はナタリーを再び抱き寄せ、腕に力を込めた。
ようやく波が静まって、俺とナタリーは顔を見合わせた。
ナタリーは束の間、ぼうっと瞳を滲ませた、無防備な表情を見せていたが、すぐにまた引き締まった顔つきに戻り、周囲を警戒した。
彼女は、ひとまず辺りに何もいないことを確認すると、切実な声で呼ばわった。
(レヴィ!! おいで!!)
レヴィはまもなく、霞んだ翠の奥からやって来た。ナタリーはレヴィと合流すると、寄り添って彼の目元を優しく撫でた。俺はレヴィがじんわり目を細めるのを安らかに眺めつつ、舌に纏わりついて離れない、ひりつく不快な力の出どころを探った。
リケはやがて、俺達からだいぶ離れた所に姿を現した。
彼は濡れそぼった身体をふるると小刻みに震わせると、不満たっぷりのギラついた眼差しで、こちらを睨みつけてきた。
全ての目論見が成功して、もろに津波を浴びせることができたにも関わらず、全くヤツは堪えていないらしい。
リケの声は鼓膜に直接、響いてきた。
「やってくれましたニャア…………勇者殿。リケは濡れるの、大っ嫌いなんですニャア」
ナタリーはすぐさまリケを振り返った。次いで五感の全てを震えさす、長く、荘厳なレヴィの声が海中に轟いた。
リケの瞳孔がキュッと狭まり、耳が前方へと倒された。
「まだ小さいクジラだったから、よかったもののナ…………。ですがね、お嬢さん。お嬢さんが勇者殿と一緒にいると、すごく邪魔だということが、わかってしまいました。ひどい目にあった。ものすごく、不愉快。
だから、まずはお嬢さんを殺します。そろそろ遊ぶのも飽きてきたし、何より、海の水なんかに浸けられて、リケは今、すごく汚い、早く帰りたい。
さて…………準備は良いですかニャ?」
リケが全身の毛を逆立て、顔面を皺くちゃにして牙を剥いた。
途端にナタリーの顔から、血の気が一気に失せた。呪い穴を抑えて、蹲る。俺は震える彼女の隣で拳を握り締め、歯を食いしばった。
扉はもう開いた。これ以上なく魔力は満ちているのに、溢れているのに。
できることが、ない。
今になってもなお柔らかく、透き通って響く樹の歌が、やけに空しく、痛ましく胸に沁みた。
不快な金属音が、徐々に翠の歌を侵食していく。
海が少しずつ暗く、濁っていく。
安い煙草の苦みが舌に纏わりつく。肺に透明な、だが重たい煙が満ちていく。
身体が、じっとりと霧に晒されたみたいに、冷える。
ナタリーがよろめきながら立ち上がり、俺に目配せをした。その目からは、儚い露が零れかけていた。俺は黙って頷き、彼女の隣りで身構えた。
せめて気丈に振る舞おう。一緒に、最後まで戦い抜こう。
「勇者」なんて肩書は、どうでもいい。だがせめて「水無瀬孝」として恥じない死に方をしよう。
そう覚悟を決めた時、脳裏に聞き覚えのある声が響いた。
(いいえ、あなたは、死なない)
(私が、力になるわ――――――――)
俺は意表を突かれ、もう何度目ともなく絶句した。
突然、眼前に花が綻ぶように現れた女性は、俺が覚えているのと寸分違わず、華麗で、洗練されて、危なっかしい香りに包まれていた。
「こんばんは、コウ君」
蒼い、オーロラの輝く極北の夜のような瞳を揺らし、リーザロットが微笑んだ。
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