第68話 ナタリーの秘密の魂獣。俺が魔力の海に浸ったこと。

 俺は、場の魔力が溶けたチョコレートのようにぐにゃりと歪むのを感じ取った。甘いような、苦いような、舌に残る粘つく味。チョコレートって、実は少しだけ苦手だ。

 とにかく、これから何が起こるにせよ、絶対に扉の気配だけは見逃すまい。俺は腹に力をこめて気合を入れた。



 ――――…………剣山の針が波間の海藻のごとく一斉に揺れ踊り、四隅の炎が小さな4匹の火竜となって、するすると天井へ昇っていく。背後の襖が、ピシャリとひとりでに閉じた。


 ナタリーは詠唱を続けながら、焦点の合わない虚ろな眼差しで虚空を見つめていた。彼女の周囲に渦巻き始めた風が、シャラシャラと彼女のアクセサリーを忙しくかき鳴らす。煽られた浴衣の裾の隙間から、引き締まった滑らかな太腿が見え隠れしていて、気が気ではなかった。


 俺は努めて心を清く保ち、渦巻く風の中で徐々に高まっていく魔力の圧を、じっと噛み締めて耐えた。ナタリーの若葉の魔力と、場に満ちるチョコレート、それから、誰かのクルミに似た風味の魔力。どこかでポルコが一声、興奮して高く吠えたような気がした。


 天井の木目がアーティスティックにうねり、人の顔がぞろぞろと並んだような、奇怪な模様を作り上げていく。どの顔ものっぺりとしていて、立体感に欠けていた。目の辺りのくぼんだ影と、鼻のあたりにある縦の線、そして丸い木目の口だけが、顔面の全要素である。何となく、サモワールの案内係に似ている。


 俺はナタリーに視線を戻し、呼びかけた。


「ナタリー! 平気?」


 ナタリーはしかし、答えない。彼女の目は未だに虚空をさまよい、心はここではない、遠い場所へ飛ばされてしまっていた。


 俺は増え続ける天井の顔をもう一度見やり、事の成り行きを祈る気持ちで見守った。

 扉はまだ見えず、それどころか、吹き荒れる魔力の流れは、ひたすらに乱雑さを増して行くばかりだった。このままでは力の辿りようも無く、扉を開けることも叶わない。


 針が踊り、火竜が8の字に宙を泳ぎまわる。火竜はフレイアの蛇たちよりも遥かに小さく、いっそ水槽の熱帯魚と言った方がしっくりきた。


 時々、天井の顔の一つがニヤリと笑う気がする。だが、いざその方へ目を向けてみると、必ず元の無表情に戻ってしまっていた。

 視界の端では剣山の鉄の草原が、さぁ、触れてみてとばかりに、誘惑のダンスを続けている。


(――――…………届いた)


 ふいに、ナタリーの呟きが耳に入った。

 その時俺は、針に触れて無事、指先の皮膚を切っていた。ちょっとチクッとした程度だったのに、案外スッパリとやってしまった。


「ナタリー! 大丈夫?」


 怪我はさておき、俺が呼ばわると、ナタリーはようやく応答してくれた。


(ミナセさん、お待たせしました! もうすぐ来るッス!)


 俺はふと彼女の声の聞こえ方に違和感を覚え、改めて聞き返した。


「ごめん、何が来るって? あと、何だか聞こえ方が…………」


 ナタリーはニッと子供っぽい笑顔を見せると、明るい調子で答えた。


(しばらくは念話で失礼します! ウチで代々飼っている、自慢のペットを呼びました! いつもはもう少し連れて来るのに時間がかかるんだけど、今日は偶々浅い所を泳いでいたみたいで、すぐに見つかりました!)

「ペット? 魂獣を呼ぶって、さっき言ってなかった?」

(ずっと一緒にいる魂獣なんス。私が生まれた時から家にいて…………多分、これからもずっと一緒にいる。もう、ペットみたいな感じなんです!)


 ナタリーは元気良く、話を継いだ。


(図体の割に繊細な子なので、念話で話さないと驚いちゃうんですよ)

「じゃあ、俺の声は? 大丈夫なの?」

(ミナセさんも一緒に黙っててくれると助かるな。心配要らないッスよ! 会話が必要になる前には、全部片付くはずだから…………)

「わかった」

 

 俺が頷いて見せると、ナタリーはまた正面を向いて、再び眼差しを宙に向けた。

 今や彼女を巻く風には、一定の流れが生まれつつあった。辺りに微かな海の匂いが漂ってくる。火竜がおびえた様子で、天井の隅へ避難し始めた。俺は剣山の草原に広がる波紋から、何か巨大な物がこちらへ迫ってくるのを察した。


 風に揺られて、ナタリーの髪飾りや、ネックレス、ブレスレットが、シャラン、と高らかに重なって鳴り響く。祭を囃し立てる鈴の音みたいだ。


(――――おいで)


 ナタリーが静かに、まるで水面を掻い潜る人魚のように腕を優雅に泳がせた。

 遠雷のごときクジラの声が、呼びかけに応えた。



 ――――…………クジラは悠々と泳いで来た。圧倒的な静寂と威厳を纏い、大きな尾を雄大に振り上げ、振り下ろす。


 俺はクジラの円らな黒い瞳に魅入られていた。

 白黒のくっきりとした肌が、この世の物とも思われぬほどに美しかった。流れる魔力が俺を獣の夢の中へ、どっぷりと深く浸け込んでいく。


 最早、俺は部屋の内にはいなかった。部屋はクジラという、より巨大な存在に飲まれてしまったのだろう。

 俺はクジラと相対しながら、途方もなく深淵な膨大な魔力の海――――ナタリーの瞳と同じ、透き通る翠玉色の海だった――――の真ん中に、浮かんでいた。


 遥か遠方に、火竜の泳ぐ姿があった。少し不安そうに、だが解放感に浮足立って泳ぐ彼らの姿に、俺は微かな安堵を覚えた。今なら、彼らの…………恐らくは、魔法陣を司っていた魔術師たちの、それぞれの魔力がきちんと理解できた。砂糖、ミルク、ココア、塩。合わさって、チョコレートみたいに溶けていたらしい。

 俺は腕を伸ばして彼らに手を振った。大した意味は無い。単なる挨拶のつもり。


(――――ppp-p-pppn……)

(――――rrr-n-rrr-n……)

(――――tu-tu-tu-n……)


 どこか見えないところで、ナタリーが歌っていた。どんな風に歌えばあんな声が出るのか、さっぱりわからなかったけれど、俺は確かにこの歌に聞き覚えがあった。トレンデの、あの貯水池の中で、喰魂魚に喰われた時だ。


 魚の腹の中で初めて聞いた時は、本当に気味の悪い歌だと思ったものだが、こうしてナタリーの歌として聞けば、そんな気持ちはこれっぽっちも湧かなかった。

 何だっけ、フレイアは「我を失った魂が、自ずから奏でる旋律」だとか言ってたっけ…………。


 と、俺が通り過ぎていく荘厳なクジラの姿に見惚れていた最中だった。


 トポン――――。


 と、何かが水中へ落ちてくる物音が響いた。


(—―――――――?)


 ナタリーの歌声が止むと同時に、俺は魔力の海に瞬く間に異変が広まったのを感じ取った。黒い絵の具、それもとんでもなく濃い一雫が、海に注がれた。


 俺はクジラから目を離して、火竜たちのいる奥へ目をやった。


「あ――――――――…………!!!」


 俺は思わず声を上げた。クジラが驚き、どっと強い水流を巻き起こして全速力で去っていく。煽られた俺の全身は、恐怖と絶望のあまり、ひどく粟立っていた。


(どうして…………?)


 4匹の火竜は、浮力を失ってゆっくりと沈んでいっていた。無残に切り刻まれたその姿から、彼らがもう二度と動かないのだと、すぐに知れた。


 俺は目を皿にして辺りを見回した。遠方を回遊するクジラの他には、誰の、何の姿も見えない。だが、さっきまでは無かったはずの禍々しい魔力の気配が、吐き気がするほどの濃度で流れ込んできていた。


 ケミカルな甘さに、独特の金属感と、辛さ。プラスチックのような、冷たくも温かくもない、奇妙な温感。およそ味として感じるには違和感満載の魔力が、辺り一帯をすっかり汚染していた。海の色だけが変わらずに美しいのが、かえって不気味だった。


「ナタリー! どこだ!? なんか、様子が変だ!!」


 俺は彼女の行方を知ろうとして、クジラを怯えさせるのを覚悟で叫んだ。


(ミナセさん、ダメ。気付かれちゃう…………)


 返事は直ちに、囁かれるようにして返ってきた。およそ彼女らしくない弱弱しい声で、俺はやはり今が異常事態であると確信した。


 1秒が10分にも、1時間にも思われる時の中で、俺はじっと立ち尽くしていた。クジラはもうすっかり俺を危険人物と見做したのか、遠巻きにいて少しも寄ってこようとしなかった。

 

(……………………)


 しばらくすると、クジラの夢が溶け始め、元の鶴の間が見えてきた。ナタリーが術を解いたのか、それとも、解かざるを得ない状況が彼女を襲ったのか。後者でないことを心から祈った。


 魔力の流れは全く読めなかった。どんなに集中してみても、ほんのわずかな揺らぎすら感じられない。

 それにも関わらず、浸食は着実に強まっていっていた。


 ヤバイ、本格的に手に負える相手じゃないのかもしれない。

 指の切り傷が脈打つように、ジクジクと痛む。


 改めて戻って来た鶴の間は、初めて足を踏み入れた時の部屋の様子とは、若干趣を異にしていた。何かがおかしい。だけどその「何か」の正体が、わからない。


「…………ミナセ、さん。無事…………?」


 俺は隣から聞こえた声に、飛びつくようにして振り向いた。


「ナタリー! 良かった。俺は平気だ」


 そして俺は、血の気を失った彼女を見て愕然とした。


「君、そ、その怪我は…………?」


 俺はナタリーの胸にぽっかりと開いた、真っ黒な拳大の穴を見つめた。

 ナタリーは蒼ざめた唇を震わせ、蚊の鳴くような声で答えた。


「これは、多分、「呪い穴」。霊体に攻撃する術の、一つって、聞いてる」

「大丈夫なのか?」

「私は、本物の霊体じゃなかったから…………かろうじて。でもサモワールの人たちは、みんな…………やられちゃった。

 ああっ!!! ヤバイ、ヤバイ!!! これじゃあ、魔術が使えない。この胸の、呪い穴から、魔力が漏れちゃう…………止められない…………!!!」


 俺は絶句し、ただただ口を開けて彼女を見つめ返していた。


 ――――「本物の霊体じゃない」?

 いや、それよりも「魔術が使えない」?


「さっきの…………クジラは、どこに?」

「あの子は無事。あの子は、自身の力で生きてるの。でも、魔術の助け無しで、あの子の力を借りるのは…………私には」


 俺は纏まらぬ思考のまま、おずおずと視線を床の間の方へと移していった。

 部屋にはもう剣山はなく、代わりに真新しい畳がキッチリと敷き詰められていた。嗅ぎ慣れないツンとした青い匂いが鼻腔を刺激する。

 部屋の四隅には、俺と似た浴衣を纏った人の肉体が転がっていた。見る限り外傷はなく、しかし眠っているにしては、あまりにも血色が悪かった。


 やがて、子供のような声が聞こえてきた。


「ニャア、勇者殿。初めまして、初めまして」


 俺は唾を飲み込み、声のした方を、例の花瓶の前にちょこんと座っている獣を眺めた。

 獣…………尾の二つに分かれた、三毛猫を。


「当方、猫ゆえ、多少無礼。堪忍、堪忍。勇者殿を迎えに来たですニャア」


 俺は猫が獲物を狩る時の目を、今、真正面から目の当たりにしていた。

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