第58話 悲劇の2杯目。俺が痴漢の罪でワンダに追い回されること。
実は、俺はお酒が大好きだった。飲むと何だかこう、世界中の人々と杯を分かち合って、世界平和を俺の全存在をかけて心の底から祈りたくなるような、すごく大らかで満ち足りた気分になれるのだった。一度飲み出すと嬉しくて楽しくて、ついつい止まらなくなってしまう。
ロクに働いてもいないくせに何をほざくかと言う人もあるかもしれないが、俺的には、自分の飲み方に負い目を感じたことは一度として無かった。そりゃあ、全部が全部自分の稼ぎで賄ったお酒とは言えなかったけれども、それでも、どの一杯にも受け取るべき真心が込もっていたと俺は信じている。人間の真摯さや誠実さってのは、そういった一杯を尊重することで表わされるのだ。
もちろん、真心を盾に無理強いすることは良くない。むしろ最低の行為だ。なぜならその酒には、誠実とは正反対の、相手に対するこの上ない侮蔑が含まれているからだ。相手のことを見下していないと、そんなことはできない。お酒の神様にも大変失礼にあたる。
全国の大学生(あるいは学生気分の他の誰しも)には、ここのところを十分に気を付けて、お酒を楽しんでもらいたいところだ。
…………俺は一体、何を長々と語っているのだろう。
俺の口はしかし、慎みを知らず、隣のクラウスに向かって滔々と自分語りを続けていた。
「――――と、そうは思うんだけどさ、俺、大学とか通ったことないから、実際はサークルの飲み会の実態とか、よくわかってないんだよね。全部アルバイト先で聞いた話なんだ。それに、そもそも俺は何様なんだっていう話もあるよね。どっかの世界には本当にお酒の神様っているのかな?」
クラウスは「ダイガク?」と怪訝そうな声で呟いた後に、やや赤らんだ顔を俯けて軽く笑うと、俺の肩を親しげにポンポンと叩いた。
「まっ、自分が何者かなんて、どうでもいいじゃないですか? それより、いかがです?もう一杯」
「いただく」
言いつつ俺は、いつの間にかテーブルの上に置かれていたビールサーバー(樽に蛇口がついていた)から勝手にビールを注ぎ足した。
俺は黙って一口飲み、呼吸と一緒にこぼした。
「アー、美味しい…………」
何となくクラウスの眼差しに不安の色が差しているのには気付いていたが、俺はあえて黙殺してジョッキを煽った。女の子達はショーの準備があるんだと言って、今はテーブルから離れて更衣室へと向かっていっていた。
「ところで俺は…………いや、私はね、コウ様」
「俺でいいよー」
「ハハ、そういうわけにもいきません。一応の規律は守らないと」
「グラーゼイがうるさい?」
「いやいや、それは、そのうー…………。そうなんですが」
「あの人、いつもあんなに嫌味なの?」
「まぁ、嫌味かどうかは私からは何とも言えませんが、厳格な人ではありますよ。私ら精鋭隊の隊長ですしね」
「俺、なぜか初っ端からあの人にやたら嫌われててさ。何が気に入らないんだろう? 弱いから?」
「いやぁー…………それはですねぇ、多分、フレイアが」
「フレイアが、どうかしたの?」
「…………。あの子、良いお尻してますよね」
「それは実に同感だけども、話の続きは?」
「ん―…………」
クラウスはだいぶ酒が回ってきているのか、酒場に着いたばかりの時よりも大分呂律が怪しくなっていた。俺も大概だが、彼も大概飲み過ぎだった。上から接待費が出ているんだと女の子に大盤振る舞いしている様は、一見楽しそうではあったけれど、俺にはちょっと度を越しているように思われた。乗っかって囃し立てていた俺が言うことでもないかもしれないけれど。
クラウスは自分のジョッキをおもむろに傾けると、目元に優しげな皺を作って微笑んだ。
「隊長はね、ああ見えて結構、臆病なんです」
「ええ? 嘘!?」
「いいえ。こと戦いに関しては、あんなに勇猛果敢な人はそういないんですが」
「戦いに関して「は」?」
こちらを見て無言で頷くクラウスに、俺は首を捻った。
「他に、何に怯えるの?」
「さぁ、私にもわかりません。…………私は、結局は真正面から行くのが一番だと思うんですがねぇ」
クラウスは意味深に笑みを漏らすと、そこで話は切り上げとばかりにジョッキの残りを飲み干した。俺はよくわからないままに、つられて杯を空けた。
その後、俺はトイレのために席を立って、ふらふらと店の奥へ歩いていった。世界がゆらゆら、ぐらぐらと揺れて実に愉快である。時折部屋の明かりが尾を引いて、彗星みたいに流れていく。
こうして歩いていると、子供の頃、こんな風に足元が覚束なくなるまで、父親の書斎の回転椅子で回って遊んだことが思い出された。友達と一緒に、まだ赤ん坊だった友達の弟を椅子に乗せて遊んでいた。
弟君は恐がって泣き叫ぶかと思いきや、案外呑気にキャッキャッと嬉しがっていたので、俺達は調子に乗ってさらに勢いをつけて回してやった。やがてポーンと小さな弟君が吹っ飛んだ時の滑らかな放物線は、今でも克明に頭に焼き付いている。
友達が咄嗟に飛びだして弟をダイビングキャッチし、本棚に盛大に突っ込んで頭をばっくり切った。俺は友達の怪我をどうにかするため、リビングへ救急セットを取りに行って、階段を雪崩れ落ちて、グキリと足を思いきり捻挫した。
そこへ丁度俺の母親が帰宅し、雷が落ちる。俺達がこっぴどく叱られている傍らで、赤ん坊は泣きながらなおも可笑しそうに小さな手を叩いて笑っていた。
本当に、懐かしいことだ。思えばあの頃から、俺もずいぶん遠くまで来た。遠過ぎて、最早同じ自分ではないようだとすら思えてくる。夢から覚めたら、またあの子供の頃の日に戻っていたらどうしようか。時空の扉のことも、サンラインのことも、やっぱり全部、俺の夢だったとしたら?
…………ああ、でも。
本当にそうかもしれないな。
俺は照明が減り、暗くなってきた廊下を辿りながら、回らぬ頭でぽつぽつ考えた。どうしてこんなにホールからトイレが遠いのだろう、と。
不親切な設計の建物はオースタンでもよく見かけるけれど、それにしたってどうも様子が変だった。ちゃんとクラウスに聞いた通り歩いてきたはずなのに、そろそろキツネに化かされたか、夢でも見ていると諦めた方が良さそうだった。
参ったな。今はそんなに急いで用が足したかったわけでもないからいいけども、もし緊急だったら非常に困った事態に陥っていた。
仕方なく俺が踵を返そうとした折だった。俺は廊下の奥から、微かに光が漏れ出ていることに気が付いた。
目を凝らして見れば、どうもそこには引き戸があるらしい。えらく目立たない戸だが、便所が派手なのも妙な話だ。俺は独り合点してそちらへ向かって行った。
ホールからの賑やかな歓声が聞こえてくる。準備中のショーを心待ちにして、声援やら野次やらがせわしなく飛び交っていた。
俺は鼻歌混じりに木戸を引いた。
「…………!!」
俺は思わず言葉を失った。
冷や汗と共に、一気に酔いが醒めていった。
たくさんの円らな、可憐な瞳が一斉に俺を捉えていた。
「…………ッッッ!!」
音にならない声と共に、瞳の持ち主達の真っ赤な唇が開きかかる。彼女たちの白いふっくらとした太腿と、椅子に掛けられた色とりどりの派手なドレスが、鮮やかな対比を成していた。
ドレスに縫い付けられた無数の虹色のスパンコールがキラキラと俺を嘲っている。
俺は蒼ざめた。もう、どうしようもなかった。
下着姿の女の子達は、一瞬の沈黙の後、時空もつんざくような甲高い悲鳴を上げた。
「キャアアアアアアアアア!!!!!!!! 痴漢よォォォォォォォォォ――――ッッッ!!!!!」
「うわぁぁぁぁぁ――――!!!!! ごめんなさい―――――!!!!!」
俺は大急ぎでその場から駆け出した。愚かしいことに、ホールとは真逆の裏口に向かって突っ走っていた。
「逃げたわぁぁぁぁぁ――――!!!!! 誰か追ってぇぇぇぇぇ――――!!!!!」
背後から鼓膜を引き裂く叫びが追いかけてくる。俺は恐慌状態でさらに駆けた。恐怖と緊張で頭の中が嵐のごとく掻き乱され、思考回路が完全に停止していた。夢だと思いたい。
だけど夢じゃない。
「痴漢だと!?」
「どこだ!?」
「裏口の方へ逃げたわ!!! 黒髪の男よ!!!」
「ワンダを放って!!!」
カチャン――――…………。
更衣室の方から、何か錠の解かれたような金属音が響いた。俺は後ろを振り返り、こちらへ迫ってくる二頭の四足獣を目の当たりにした。爛々と目を輝かせた、オースタンのそれより一回り大きなゴールデンレトリーバーが涎を引きながら追ってくる!!!
「バォウ!!! バウバウバウッッッ!!!」
「ギャアアアアアアアアア!!!!!」
俺はワンダと呼ばれた犬に追われて、みっともない悲鳴を上げて加速した。ワンダは容赦なく跳ねて、尾を振って走り寄ってくる。
俺は無我夢中で、裏口の戸に体当たりをかました。これでもかと派手な音を立てて木の扉が破れる。もう、何も考えられない。目の前には残飯等をうず高く集めたゴミの山がそびえていた。
俺は敷居につんのめって、そのゴミ山の中へ頭から突っ込んだ。ひどい匂いだった。俺は息も絶え絶えに、這うようにして山からまろびでた。
そこへすかさず、大きな影が飛びかかる。
「バウッッッ!!!」
一頭のワンダが猛烈な勢いで俺にのしかかり、征服者然として俺を組み伏せた。もう一頭のワンダが追って俺のズボンにがぶりつく。足下のワンダは俺のズボンを咥えたまま、ぶんぶんと激しく頭を振って威嚇を始めた。
「ちょっ!!! やめっ!!! 脱げちゃうから!!!」
俺は必死で喚いた。獣に言葉が通じるはずがないと知りながらも、それでも訴えずにはいられなかった。
胸にのしかかっている方のワンダは、ベロベロベロベロと入念に俺の顔を舐め回していた。ゴミ溜めに突っ込んだ際の残飯の匂いが彼の何かを狂わせていた。彼の口はものすごく臭かった。普段から生ゴミでも喰って生きているのか?
やがて渾身の悲鳴も虚しく、足下のワンダは無慈悲に俺のズボンをもぎ取った。月光に晒され、俺のズボンは彼の勝利の御旗として雄々しくはためき翻った。夜風が素っ裸の下半身に冷たく沁みた。
表の通りから、店の奥から、がやがやと人が集まってくる。
「間違いないわ!! コイツがさっきの痴漢よ!!」
「ヤダッ!! 露出狂じゃないの!!」
「おーい、ワンダ共がやったぞ!!! 早く自警団の連中を呼んで来い!!!」
俺は堪らず、涙を流した。だが涙は頬を伝うより前に、ベロリとワンダに舐めとられて綺麗に乾いた。
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