第52話 ままならぬ扉と、残された罪人の証。俺がタリスカに諭されたこと。

「…………歪みの魔物は」


 剣を収めつつタリスカが語りかけてきた時、もう炎の声は失せていた。熾火は再び俺の奥底に沈み込み、息を潜めたようだった。

 俺は重たい顔を上げ、タリスカを仰いだ。


「裁きの主の命により、罪人の魂を喰らう、古き力…………魂獣」


 タリスカは洞となった両眼で、じっと俺を見下ろしていた。


「勇者よ。薬売りの不審を察し、阻止すべく行動したまでは良かった。決断の機をよく捉えていた。だが、その後の安易な扉の開放は見過ごせぬ。なぜだか、わかるか?」


 俺は俯き、躊躇いがちに呟いた。


「…………すみません」

「謝罪は要らぬ」


 タリスカは低く厳めしい口調で言った。


「…………扉はその名の通り、異なるものを繋ぐ「扉」であることを心に刻め。強き力の流るる所に、好んで生息する魔は多い。歪みの魔物もまたその一つ。歪みの魔物は裁きの主の他の、誰の意にも従わぬ。それゆえ、一層危うい」


 タリスカは俺から目を離すことなく、言葉を継いだ。


「先にも述べたが、歪みの魔物は罪人の魂を喰らう。だが、何をもって魔が「罪人」を見定めるかは、我らには計り知れぬ。唯一、裁きの主のみがそれを判ずる権利を持つ。…………この危険がわからぬわけは無かろう。此度は端無くも勇者が扉の閉鎖に成功し、事なきを得たが、常に同様には行かぬ」

「でも」


 俺は言いかけて口を噤んだ。何も考えずに力を使ってしまったことは確かだった。知らなかったこととはいえ、俺は自分だけでなく、タリスカまで危険にさらしてしまったのだった。

 俺は血溜まりに倒れ伏している、薬屋だった熊を一度見やり、タリスカに謝った。


「すみません。殺されると思ったら、怖くて、夢中で…………」

「力を使いこなすためには、それなりの知識と修行が要るものだ」


 言いながらタリスカは深々と頷き、染み込ませるように続けた。


「勇者よ。…………力に溺れてはならぬが、同時に、無暗に怯えてもならぬ。真におぞましき魔は、そうした弱さにこそ付け入ってくる。お前がお前の責たる判断を放棄し、ただ流れに身を委ねる瞬間を、奴らは耽々と狙っている。

 …………真の強者とは、己を良く知る者と心得よ」


 俺は項垂れ、「はい」としおらしく返事した。ぐぅの音もでなかった。


 それにしても、こんな風に誰かにまともに諭されたのは、果たしていつ以来だろうか。あるいは大人になってからは、初めてのことかも知れなかった。俺はいつの間にか、何の責任も負わない、その代わりに誰にも期待されない気楽な日々に慣れきって、無意識に自分を甘やかし過ぎていたようだった。


 俺はおそるおそるタリスカを見上げた。タリスカはそんな俺の上に、仕上げの重石を静かに積んだ。


「私とて、未だ修行中の身。先の話も、半ばは己に忠告していると言えよう。だが…………お前の力は、まだ使わずとも良いと伝えたはずだ。あのような場面では、焦らずに私の剣を頼め。少なくともお前よりは長く、しぶとく、今夜まで生を紡いできた身だ。言葉に負うだけの鍛錬は積んでいる」


 俺は肩を落とし、素直に頷いた。

 アナタは生きてるんですか、という疑問は何とか飲み込んだ。



 タリスカは倒れた熊へ視線を移すと、腕を組んで呟いた。


「さて…………こちらは、どうしたものか」


 俺は薬屋の身体が熊(正確には、熊に似た何らかの獣である)に変化したことについて尋ねた。


「この人、どうしていきなりこんな姿になっちゃったんですかね?」


 タリスカは何かを探しているのか、熊の周囲をゆったりと歩きつつ答えた。


「此奴は、変化の前に薬を飲んでいた。霊体に作用する薬物の中には、使用者の秘めた魔力を強制的に、限界まで引き出すものがあると聞く。恐らくはこの男が使った薬もその類であろう。珍品であり、入手困難な代物という話であったが…………仕事柄、独自の伝手があったとしても不思議はない。力に飲まれ、理性を失ったようだがな」


 タリスカは熊の肩付近で屈むと、やにわに胸元からナイフを取りだした。


「? 何をするんです?」

「仕事だ」


 タリスカは短く答えるなり、ナイフを立てて、熊の肩から背にかけてをざっくりと引き裂いた。俺はいきなりのことに面食らったが、それでも興味が勝って彼の傍に走り寄った。


「何を、しているんですか?」


 俺はとても霊体とは思えない、瑞々しい熊の筋肉の走行をまじまじ眺めながら聞いた。タリスカは象牙の如く白い指骨を鮮血でべっとりと染めつつ、器用な手つきで肉を掻き分けていった。


「この辺りに埋まっているはずだが」

「だから、何がです?」

「…………見つけた」


 タリスカは肉の内から、蚕の繭に似た物体を取り出して俺に見せつけた。ねばついた白い糸が繭から引いているのを見て、俺は思わず顔を顰めた。


「げっ、何です、それ?」


 俺が再び問うと、タリスカはようやく答えを述べた。


「これは、歪みの魔物の卵だ。霊体に産み付けていく。一見繭に見えるが、実は無数の卵の集合体だ」

「げぇっ!!」

「あるいは、勇者の内にもあるかも知れぬ」

「ぎゃああああっっっ!!!」


 俺が身体を搔き毟って絶叫すると、タリスカは肩を揺すって笑った。


「冗談だ。これは、罪人の証となる」

「からかわないでくださいよ…………!!!」


 タリスカの究極的なまでにドライな表情は、本当に読めなくて、性質が悪かった。

 大体、あのわずかな間に一体いつ産卵する暇があったというのか。いくら魔物とはいえ、あまり気味の悪いことはしないでもらいたい。

 タリスカは立ち上がって手持ちの小瓶に卵を落とすと、振り返って熊の背を見下ろした。


「…………まだ、何か?」


 俺が腰を引きつつ尋ねると、タリスカは抑揚なく呟いた。


「勇者よ。今は、扉が見えるか?」

「いえ、特に何も感じません」

「それはすなわち、此奴がまだ死ぬ運命にはないということだ」


 タリスカはふっと短く息を吐くと、掌を熊の頭にかざし、低く長く伸びる異様な言葉で詠唱を始めた。俺はなぜかタリスカが魔術師ではないと思い込んでいたので、彼が本格的な呪文を唱え始めたことに驚きを覚えた。


 タリスカの紡ぐ言葉は、あやとり語とは全く異なる言語だった。一つ一つの節に、どこか除夜の鐘に似た余韻がこもっており、あたかも山彦が遠く離れた土地に、順繰りに呼びかけていくような、気の遠くなるものだった。


 詠唱が次第に間伸びし、先細っていくにつれて、熊の身体が溶け出してきた。赤茶色の体液がトロトロと溶けた蝋のように流れて、徐々に傷だらけの薬屋の姿が現れてくる。

 俺は切り落とされたはずの彼の両腕が復活していることに気付いた。腕に痛ましい輪状の傷跡が残ってはいたものの、これ以上グロテスクな光景を見ないで済むことに心底安堵した。


 やがてすっかり元の姿に戻った薬屋は、絞り出すような動物めいた呻き声を上げて、ピクピクと指先を痙攣させた。タリスカは相手が息を吹き返したのを見届けると、詠唱を止め、男がよろめきながら身体を起こす様をじっと見守っていた。

 タリスカは俺にぽつりとこぼした。


「今のは禁呪だ。理外の手法により、魂の形を再構成する。決して真似をせぬように。一節とて口にすれば、たちどころに全身の肉が腐れ落ちてしまおうぞ」


 俺は「わかりました」と早口に答え、何度も点頭した。果たして冗談なんだか、本気なんだか。どちらにせよ、俺には発音できそうになかったけれど。

 薬屋はどうにか立ち上がると、怯えきった目でこちらを…………というより、タリスカを見た。彼は歯をガタガタ鳴らしながら、未だ生々しい傷の残る胸元を撫でた。彼は掌についた血糊を目の当たりにするなり、大いに騒いだ。


「わっ、わあああぁぁぁぁぁっっっ!!! な、ななな、なんなんだ、これは!?!?

 私は、あの薬を飲んで、それから…………それから、ああっ、どうなったというのだ!? 私の身体は、どうなっている!?」


 泣き顔の薬屋に、タリスカは躊躇いなく事実を突きつけた。


「お前は、元より霊体だ。肉はとうの昔に死んでいる。その傷は獣に堕ちたお前を鎮めるために私が斬った。…………致命的ではない」


 薬屋は


「なんだと」


 という形に唇を動かしてから、膝から崩れ落ちた。彼は項垂れたまま、嗚咽を上げて頭を抱えた。


「ううっ…………クソッ!! 遺産の整理が、まだ済んでいないんだぞっ…………!! どうなるんだ、私のコレクションは? ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ…………霊体なんて、みっともない。ああ、ギルドの奴らに、どんなに馬鹿にされるか!

 最低だ!! こんな惨めな目に遭うなら、いっそ一思いに、魂ごと全消滅した方がマシだった!! どうして私ばかり、こう散々な目に遭う? やはり全部、あの贋の魔女のせいだ!! 訴えてやる!!! どんな手を使っても、絶対に、牢塔にブチ込んでやる!!!」


 魂は残っていても、肉体が死ねば遺産を渡すのか? この国の法律も、死生観も、俺にはまだよく飲み込めない。

 俺が呆れてタリスカを見やると、彼もちょうどこちらを向いたところだった。彼は黙って冷ややかに首を振った。


 俺はタリスカが屋敷に戻るための術を発動させる間、ともすると「貴石が!」などと意味不明なことを騒いで暴れる薬屋を、羽交い絞めにして押さえつけていなければならなかった。タカシがいれば楽なのになぁと、術の真っ白な光に包まれながら考えた。


 そのせいか――――光の中で、俺はふとタカシに話し掛けられた。


「よぉ、無事で良かったな。マジで死ぬかと思ったぜ」


 朗らかに言う彼に、俺は微笑んで答えた。


「ああ、俺も。にしても、最悪なタイミングで気が合ったもんだな」


 タカシはヒヒヒと歯を見せて愉快そうに笑うと、


「俺、もう腹が減ってクタクタだぜ」


 と、言わずもがなの言葉を残して、光の中へ溶けていった。

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