第27話 銀騎士の呪い。俺が闇の底へ引きずり落とされること。
歌が弾けた。
パラパラと小雨が降るみたいに、音の一つ一つが失せていった。
魚の身体が黒い霧となって一瞬で晴れた。
霧の後にはただ、俺が水面から飛び上がった際に散った水飛沫だけが、時を忘れたように宙に浮いていた。
あんなに生々しかった脂ぎった匂いも、湿った体温も、本当に、ほんの余韻すらも残さずに消え失せた。
魚の腹を破って、フレイアの剣が振り抜かれる。火蛇が二匹らせん状に絡み合い、勢いよく刃に焔を走らせた。
目下の銀騎士は槍を高い位置で担ぎ、構えている。
――――貫かれる!
咄嗟に俺は身を強張らせた。
フレイアがすかさず、そんな俺の背を蹴って飛び上がる。俺はその瞬間に、彼女から伝えられた指示に従って身体を丸め、尾を高く振り上げた。
(いいのか!?)
「構いません!!」
俺は尾を思いきり彼女に叩きつけた。フレイアは器用にその衝撃を受けて、弾丸となって騎士へ向かった。剣に纏わりついた炎がいよいよ激しく踊り上がる。
騎士の槍と彼女の剣が滑り合う。
俺は背から豪快に水に落ちた。視界が一気に泡にまみれる。
それからすぐに、バラバラと強い雨の落ちるような音が短く聞こえた。水を通して伝ってくる金気臭い匂いで、血の降る音だとわかった。
驚いた魚の群れがぞわりと俺を避けて走る。俺は群れをさらに掻き分け、水面から顔を出した。
「ご無事ですか、コウ様」
フレイアの声に応じて俺は彼女を仰いだ。
フレイアは倒れ伏した銀騎士の上で、やや息を上がらせて、爽やかな笑顔で立っていた。白かった彼女のシャツは騎士の返り血と黒い喰魂魚の体液にまみれ、ひどく汚れてしまっていた。
騎士が乗っていたシャチはぐったりとして、もう生気は感じられなかった。その頭部には剣を突き立てられたような深い傷跡が一つ、鋭く穿たれていた。
俺はフレイアの下の銀騎士を改めて眺め、その首筋の辺りから、おびただしい出血があるのを確認した。
(…………やったの?)
俺がおずおず問うと、彼女は軽く点頭した。
「はい。コウ様のおかげです。何とか無事に仕留められました」
(そっか)
俺は案外呆気なかったと安堵しながら、彼女を背に乗せるためにシャチの死骸へと泳ぎ始めた。
(…………? あれ?)
と、池の水とも、風とも異なる、冷んやりとした流れを鱗に感じて、俺は動きを止めた。
「コウ様、どうかされましたか?」
フレイアが尋ねる。俺はおそるおそる自分の後ろ脚を覗き込んだ。
そこにはいつの間にか、ほの白く光る奇妙なものが纏わりついていた。
(…………誰、だ…………?)
俺はかろうじて言葉を並べた。「誰」と、無意識に呼びかけていた。
俺はそっと水中に顔を浸けて、自分の右足に抱きついているものと、左足に齧りついているものとを、見つめた。
それらはまさに、人魂としか呼びようがないものだった。青白く揺らめく灯が、ゆらゆらと弱々しく微かな人型を作って、静かに燃え続けていた。
「コウ様、どうされたのですか?!」
フレイアの困惑した声が水面から響いてきた。だが俺は、自分の陥っている状況に困惑しきっていた。フレイアにどう伝えるべきか、というか、迂闊に告げていいものなのか、これは?
迷っている間に、右足にくっついている方の小さな子供が――――幼い子供だと、瞬間的にわかった――――にたりと、俺に笑いかけてきた。
「パーパ…………」
そのあどけない、か細い響きに、全身が「粟立った」。
――――ダメだ!
直感が働いた時にはすでに、事態は明らかに危険な方向へと転がり始めていた。
唐突に、自分の身体がバラバラと崩れ落ちていった。水に落ちた泥団子がほどけていく。そんなイメージが脳裏によぎった。
まず尾がなくなり、手足が細く、頼りなく伸びて、身体全体がぐんと重たくなった。
俺は滅多矢鱈にもがきながら、次第に、息が尋常でなく苦しくなっていくのを感じた。
冷たい。重い。苦しい。視界が暗く滲んでいく。目がチクチクする。
(フレイア、敵だ!!)
俺は肺の空気を吐き出し、叫んだ。
俺はなぜか、すっかり人間に戻っていた。
手足を力一杯にばたつかせ、子供たちをどうにか振り払おうとする。だが息が続かず、あっという間に力が入らなくなってしまった。
フレイアからの返事はすぐに届いたが、その内容はかえって、俺を絶望の淵に追いやるものだった。
「コウ様、よくお声が聞こえません!! 何が起こっているのですか?!」
右足の子供がじわじわと俺の腹に這い上ってきた。子供の身体は徐々に石のように重たくなってきて、俺は最早、どう足掻いても浮き上がることができなくなっていた。
左足の子供は相変わらず無心で俺の足を齧っていた。ガリガリガリガリ…………と、不気味な振動音が、骨を通して頭に響いてきていた。痛くないのが余計に恐怖を煽った。
いよいよ息が苦しくなってきて、俺は死に物狂いで暴れた。フレイアの名前を何度も呼んだ。ひたすらに悲鳴を上げた。しかし、それすらも次第に途絶えていく。
俺の身体はやがて投棄されたコンクリート塊のごとく静かに、深く、深く、沈められていった。
消えゆく意識が最期に見つめていたものは、痩せて青ざめた少女の顔だった。どんな表情も浮かべていない、人形よりも陶器よりも無機質な眼差しで、彼女はじっと俺を見つめ続けていた。
俺は彼女の小さな手が、ぴたりと俺の頬に触れる。
足の感覚はもうない。振動だけが響く。
頭の奥の方でずっと、サイレンみたいに、誰かの呼び声が繰り返されていた。
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