第15話 影人たちの町と寂れた娼館。俺が呼びかけに応じてしまうこと。
畦道を抜けて街道に出た時、子供たちの集団と擦れ違った。姿こそ見えなかったものの、幼い賑やかな声が、確かに聞こえてきた。
おそらく彼らがツーちゃんの言っていた「影人」だろう。何を喋っているかまでは聞き取れなかったけれど、明らかに「何か」がそこにいた。
そして不思議なことに、歩いて行くにつれて、「影人」とやらの気配はよりハッキリと、感じ取れるようになっていった。
「影人」は紛れもなく、この土地の住人であった。やけに近代的なのが意外ではあったが、彼らは当たり前みたいな生活を、当然のごとく営んでいた。
何だか部外者の入る隙が無いというよりも、入っていっても、ざるに流した水みたいに、手応えなく通り抜けてしまう雰囲気があった。俺はたくさんの影たちに囲まれて、自分の方が透明人間になってしまった気分だった。
俺は街道沿いを歩きながら、左手に見えてくる小さな飛行場を眺めていた。
「あ」
俺は思わず、小さく声を漏らした。通りにいた誰かが振り向いたような気がしたけれど、俺はそれを放って置いて、じっと空を見つめ続けた。
翼の端にほのかなランプを付けた、半透明の小さな飛行機が滑走路に降りてきていた。映画でしか見たことがないような、模型じみた、ふんわりとした機体だった。翼が二枚も付いていて、お洒落で格好良かった。
瞬きの後には、すぐ見えなくなってしまったけれど、俺はしばらくその飛行機が降りたはずの滑走路から、目が離せなかった。
よく見れば、格納庫の近くに人が二人、煙草を燻らせながら立っているのが見えた。彼らもやはりうっすらと透けていて、じっと目を凝らしているうちに、煙となって立ち消えてしまった。
俺はまた街道に沿って歩き出した。
そうして、そろそろ集落のはずれかと思われた頃だった。道から少し外れた場所に、一軒の寂れた建物が見えてきた。
建物はボロだが、えらく派手な看板を掲げていて、そこにはアルファベットに似た文字が大きく5つ描かれていた。古い洋画に出てくる、ちょっと豪華な娼館みたいな佇まいだった。
俺は薄闇に染まるその建物を見た途端に、何か嫌な予感がした。だがそれと同時に、そこから響いてくる、奇妙な囁きを耳にした。
「…………助けて…………」
声は、掠れた子供の泣き声に似ていた。
俺はこわごわと辺りを見回してみたが、周辺にはツーちゃんの姿も、フレイアの姿も、影人の姿も無かった。
建物は見れば見るほど重々しく、深い闇を入口に湛えながら、野の中にどっしりとそびえていた。風が吹くと、建物が笛の役割を担って、不気味に高い音が宙に鳴り響く。
道路を自動車が一台、二台、物音も立てずに通り過ぎていった。
俺は引き返したくなったが、「助けて」という言葉の消え入りそうな残響がどうしても振りきれず、建物へと向かって行った。
俺は壊れた建物の扉まで来ると、
「ごめんください…………」
と、か細い声で呼びかけつつ中を覗きこんだ。
中は真っ暗で、じっとりと冷たい空気に満ちていた。埃っぽい匂いと、耳の鳴るような静けさが青白い手となって、ゆらゆら、ひらひらと俺を誘っているかのような錯覚を覚えた。
俺は奥へと続く廊下の暗さを見て、即行帰りたくなったが、どうしても引き返せずにその場に突っ立っていた。
足と地面が磁石でくっついたみたいに動かず、身体は石膏で固められたかのようだった。
この世界に危険なものはいない、とツーちゃんは言っていたけれども、長年染みついた暗所への恐怖は、なかなかに手強かった。
「うへぇ…………」
俺は自分の臆病さに辟易しながらも、どうにか己を鼓舞して一歩前へと足を踏み出した。
内部には、足の折れたテーブルだとか、積まれたままの椅子だとかがあちこちに放置されていた。おそらく以前は酒場だったと見え、廊下の手前のカウンターには、ウィスキーボトルのような瓶が大量に並べられていた。
俺は壁伝いに、手探りで奥へと進んでいった。途中で締め切られていた窓のカーテンを引くと、夕日が差して少し明るくなった。
俺は落ち着いた内装のバーカウンターをちょっと羨ましく眺めてから(こんな場所で酒を飲むのは憧れだ)、廊下の奥へと目を移した。
廊下を辿った先の別棟には、個室が並んでいるようだった。ホテルや旅館の客室とよく似た具合である。俺は明かりの差し込まない廊下を、じりじりと進んで行った。
廊下の壁の模様は、エキゾチックとも、幾何学的とも言い難い、見慣れない模様であった。
あえて言えば、ペイズリー模様に似ていないこともない。しかし、それよりももっと象徴的で、意味ありげな印象を受けた。みっしり描き込まれた紡錘形と、外側に次第に広がっていく、螺旋の連続。ツーちゃん的な解釈なら何と説くやら。
突き当たりまで来て、俺は左右を見渡した。建物は全体でHという文字の形になっており、別棟の廊下の両端には小さな窓が開いていた。そこに掛かった分厚いカーテンが、風で重たげに揺れている。
俺はふと、右端の部屋に気を取られた。
そこから透明な波がツツと伝わってくるような、柔らかな感触がしたのだ。そのままじっと波紋を浴びていると、俺の胸の内のざわめきが、徐々に波のリズムと共振し始めた。
波はやがて、「助けて」という、先の声と静かに重なっていった。
――――今、行くよ。
俺は心の中でそんなことを唱えて、目的の部屋へと向かった。
冷たくて、やけに手触りの良い真鍮のドアノブに手を掛けて、俺はそっと重たい扉を開いた。
部屋の中には、長方形の暗い空間がこじんまりと収まっていた。壁には、廊下のものと同じペイズリー模様がびっしりと描かれており、正面の窓は雨戸で完全に締め切られていた。
一体どのくらいの間使われていなかった部屋なのかはわからないが、中にこもっていた空気からはどこか懐かしい、しけった匂いがした。
部屋の右側には、大きなベッドがあった。よれたシーツだけがマットの上に掛かっていて、天蓋部分に掛かっていたレースは、全て無残に引き剥がされていた。
天井から吊り下がっているシャンデリアには、無数に蜘蛛の巣が張られている。ここまでくると、もはや不気味さを通り越して、どこか自然な寛ぎさえ漂ってきた。
そんな部屋の中央に、床から50センチ程の高さで、ほの白く発光する正四面体がぽつねんと浮いていた。
「だれ、なの…………?」
ややエコーがかった弱々しい声が、正四面体から響いてきた。
呆然と立ち尽くしていた俺は、咄嗟に何か話そうとし、寸前でツーちゃんに言われたことを思い出して思い留まった。
そう、決して喋るなと戒められていたのだ。
俺はどうすべきかとしばらく思い悩んだ。
だが、思考はいつまで経っても堂々巡りするばかりで、これだという案は出てきそうもなかった。ラリっていようがいまいが、所詮、俺の思考力はこんなものらしい。
結局俺は、とりあえずは言われた通り、ツーちゃんを呼ぼうと思って念じてみた。
「…………」
反応は無かった。
俺はやり方が悪かったのかと考え、もう一度、今度はより強く、ツーちゃんの名を内心で呼びかけてみた。
「……………………」
「…………あれ?」
俺は独り首を傾げて眉を顰めた。確かに願えばいいだけだと、聞いたはずだったけれど。
状況に変化が何一つないままに、正四面体がまた俺に話し掛けてきた。
「誰でもいい。助けて…………」
今にも消え入りそうな痛々しい声が、俺の肌を一気にざわつかせた。俺はたまらず拳を作る手を固くし、ツーちゃんからの返事を祈るような気持ちで待った。
「…………助けて…………」
ああ、もう。
俺は一歩、部屋の中へと踏み出して、言葉を口にした。
「来たよ。どうすればいい?」
やっちまったなぁとは思いつつ、言いながら俺はすでに、正四面体に近寄っていっていた。
俺の声に反応し、正四面体は雫を垂らされた水面のように光を揺らがせた。
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