第14話 フレイアの失敗その②。俺が影の国で正四面体を探しに出掛けること。

 ――――…………それはほんの一瞬の、幻じみた出会いだった。

 

 その人は断崖絶壁の上に立って、ひどく擦り切れた表情で虚空を見上げていた。

 旅人めいた服で、この世の果てでだってあんな目はしないんじゃないかって感じの、寂しそうな眼差しを空に送っていた。

 俺は彼の悲しいほど痩せ細った背中を、じっと後ろから見守っていた。


 彼は手に持っていた小石…………それは黒蛾竜の逆鱗そっくりだった…………を、ポンと宙高くへ放り投げると、悲しみのたっぷりと染み込んだ声で唱えた。


「――――ああ、竜よ。どうか私を、あの永く紅い影の地へ――――…………」


 石から白い光がじわりと滲み出し、景色がたちまちドライアイスに包まれたみたいに霞んでいく。

 それから彼は、まるで祈るみたいに切々と呟いた。


「私は灯の夢を見たい。

 永遠に安らげぬ定めゆえ、せめて。

 …………運命に抗う、業火の夢を」


 彼が目を瞑ったと、どうして俺にわかったのだろう。


 やがて靄に覆われて何も見えなくなってしまうと、俺は急に、突風に吹き飛ばされるようにして時空移動の渦中に叩き戻された。カツン、と額に何かが当たった感覚があったけれど、その時にはもう、一切のことを気にかけられなくなっていた。



 …………時空移動は、今回も強烈極まりなかった。


 ピカソのゲルニカという絵を見たことがあるだろうか。

 空爆された街の様子を描いた、ちょっと不気味で物悲しい絵なのだが、時空の扉を何とか無事に抜けてきた俺は、その絵の一部みたいな表情になっていた。


 今回の移動は前回の移動とは違い、視覚的な苦しみを大いに伴った。おそらくキノコの影響だろう。ゲルニカを脳の視覚野にダイレクトに叩き込まれるような、精神的な苦しみだった。途中で見た幻覚の情緒もあっという間に押し流されてしまった。

 その上、嬉しいことに、あの凄まじいジェットコースター的搖れ動きは相変わらずであったので、しっかり肉体的にも堪えた。


 俺は扉を抜け出た先でも、しばらくはまだどこかを通過中なのかと勘違いしていたぐらいだ。見える色はすべて絵の具で着色されたものだと本気で思い込んでいたし、伸びる影や立体的に見える物々は、技法的なトリックか、幻だと信じていた。


「コウ様…………申し訳ありません」


 蚊の鳴くようなフレイアの声が聞こえて初めて、俺はようやく、自分が違う世界にやって来たのだと思い至った。


「大変申し上げにくいのですが…………」


 俺は赤っぽい土の上にぺたんと座り込むと、ぼんやりと視線を伸ばした。薄紫色の夕暮れの中に、小さな民家の明かりがぽつぽつと見え、確かにここが絵の中ではなく、ちゃんと生きた世界であると実感できた。


 時空移動中に聞いた「紅い影の地」という言葉がぴったりの場所だった。

 のどかな農村風の場所で、どの家もだだっ広い四角形の畑に囲まれており、その近くを走る電線(! 電気が通っているのか!?)には、都会じゃまずお目にかかれない、おびただしい量の小鳥が止まっていた。


「ちょっと、行き過ぎてしまいました」


 俺はフレイアの告白にがっくりと肩を落とし、そよそよと髪を撫でる風に、透明な涙を乗せて散らした。

 小鳥たちが風に乗って、どっと一気に電線から離れた様は、もはやイナゴの大群と見紛うばかりだった。


「いいよ」


 俺も悪かったし、という、後に予定していた言葉は続けることができなかった。俺は悲しみと吐き気で、彼女に気を遣う余裕もなく、最初の時と同じように、ぐったりとその場に仰向けで倒れ伏した。


「あの、俺たちが乗っていた竜ってどうなったの? まさか一緒に連れてきちゃったりとかは…………」


 俺のぼそぼそとした問いに、フレイアは小さく首を振って答えた。


「ご安心ください。竜は元の世界に留まりました。あのやり方ならば、鱗が剥がれたわけでもないですし、いずれまもなく魔力を回復させるでしょう」

「それは、よかった」


 それから俺は、安堵やら疲れやら呆れやらがいっしょくたになった溜息を吐いた。今すぐにでも眠ってしまえそうな気分であったが、俺にはまだフレイアに話さなければならないことが残っていた。


「フレイア、ごめん」


 フレイアはどこか子猫に似た瞳で、俺を見た。


「俺、実は竜の巣にあったキノコのせいでさ…………自分が、さっき何を言っていたか、あんまり覚えていないんだ…………。ごめん」


 フレイアはしょんぼりとした目を一度瞬かせると、芯から温まるような、優しい声で答えてくれた。


「いいのです。お気になさらないで」


 それから長く息を吐くと、俺に呼びかけるフレイアの声は、ほとんど聞こえなくなっていった。

 俺は「ごめん」とうわごとを何度も呟きながら、ずるずると眠りの渦に落ちていった。原始人たちの戦神楽が微かに、脳の奥の方でトントンと鳴り響いていた。



「…………」


 懐かしい土と肥料の匂いに包まれて、目覚めた俺は一丁前に自己嫌悪に陥っていた。


 「起きたら教えてください」とフレイアには言われていたけれど、正直、もうちょっとの間だけ、寝たふりをしていじけていたい気分だった。

 女々しいことこの上ないけれど、26にもなると、時にはこういう時間も尊重されるべきなのだとわかる。人はたまには、負の気持ちを丁寧にケアしてやることが必要なのだ。


 実際、俺は自分が格好悪いと自覚していた。助けるつもりが助けられてばかりだったし、何かというとすぐ気絶するし、話す言葉だって、いつもパッとしない。フレイアの方がずっとずっと格好良かった。あの子は本当に俺なんて必要としているのだろうかと、しみじみ疑問に思われるばかりだった。


 行けば何かできるだろうと、能天気に考えてはきたものの、現実的に考えてみれば、なんと無謀なことか。

 主人公とか、俺は一体どのツラ下げて浮かれ上がっていたのだろう。


 俺には何の能力も無い。格闘技に長けているわけでもないし、当然ながら魔法なんかもっての他。学生時代は、勉強はそこそこできたつもりだったけれど、それは親父に怯えて勉強し続けた結果であって、地頭が良いかと問われたら、とことん謎だ。


 そういえばアルバイト先でも、要領が悪くて怒られてばっかりだったな…………。


 一度始まった気分のダウンカレントはちっとも止まらず、むしろ考えれば考える程、勢いを増していった。


 俺は、1メートルぐらい離れたところに立っているフレイアの背中を横目で見やってから、またスイと宙へと視線を泳がせた。フレイアは今、大体50~60センチぐらいだ。すごくどうでもいいことだが、また少し大きくなっている。


 到着した頃からの夕暮れは、なぜかいつまで経っても終わらなかった。一見普通に見えるが、やはりこの世界もどこか変わっているらしい。物に動きはあるのに、一向に時間が流れていない、思い出の中とか、一昔前のゲームのフィールドステージみたいな感覚が、一番近かった。

 畑と空の虚無的な広がりは、かえって前にいた竜の世界よりも、遥かに無機的だとさえ感じられた。


 風の流れが時折、決まった方向に転じる。民家があるのとは反対方向の丘に、大きな風車がいくつも建っているせいかもしれない。


 俺は少し汗ばんだ己の手のひらで一度顔をぬぐうと、


「フレイア」


 と、小さく声を掛けた。


 逆光の中で振り返ったフレイアがこちらを見る。どんな顔をしているのかわからなかったけれど、彼女は気遣わしげな足取りでもって、ゆっくりとこちらに歩み寄って来た。


「心配かけて悪かった。もう治ったよ」


 起き上がって言う俺に、フレイアは滲むような笑みを返した。


「そうですか。よかった」


 真っ赤な目元が、彼女の白い肌に目立っていた。俺は、泣いていたのかとは聞けず、気付かないふりをして黙っていた。

 本当に主人公だったら、こんな時に何て言うんだろう。現実ではゲームのように、選択肢が出てこない。一文字一文字入力していかなきゃならないなんて、途方もないことだった。


「もう、本当に、サンラインの近くまで来ているのです」

 

 フレイアがぽつりとこぼした。


「幸い、ここには扉を穿つための素材がたくさんあります。さっきのようなことには、もうならないでしょう。この距離まで近付けば、私もきっと失敗しません」


 フレイアは向きの変わった風に煽られた髪を細い指で掻き上げながら、俺にも劣らぬ、ずっしりと落ち切った声音で続けた。


「なの、ですが…………すみません。安全な通過のための魔力回復に、もう少し時間がかかってしまいそうです。

 重ね重ねご迷惑をおかけしてしまい、大変恐縮です。どうか、今しばらく待っていただけないでしょうか?」

「うん、わかったよ。ゆっくり休んで」

「ありがとうございます」


 俺はちょこんと頭を下げるフレイアに、言葉を添えた。


「あの、俺が言えた義理じゃないけどさ。何度もありがとう。無理しないで」


 フレイアは少し目を大きくすると、何も言わずにまた頭を下げた。その瞬間に垣間見えた、彼女の頬に差したほのかな赤みは、本当に可愛らしいものだった。竜の国で彼女が見せた闊達な雰囲気が、やや戻ってきたような気がした。


 だが俺は、それを見て嬉しいはずなのに、何だか少し寂しくなった。



 それからフレイアは、しばらく辺りを歩いてきたいと言って、俺の傍を離れていった。土地の魔力と馴染むためだと言われると、多少不安でも引き留めることはできなかった。


 ちなみに不安というのは、もちろん彼女についてではなく、自分の身についてである。そうとも、実に情けない。だがもう俺は、徐々に開き直ってきていた。だって、誰がどう見たって俺の方が弱い生き物だ。


 大体、俺にはかねがね思っていることがあった。

 ツーちゃんのことだ。

 あの子、自分のことを大魔導師だとか何とか偉そうに言っておきながら、結局、話すだけ話して(俺の頭の治療以外は)何もしないままに去って行ってしまった。


 もし彼女が本当にそんな凄い力を持っているならば、どうしてあの子自身が、俺をサンラインに連れて行かないのだろう。慣れないフレイアに任せるよりも、その方がずっと話が簡単に思えて仕方無い。


 とにかく、次に会ったら是非とも問い質してやろうと俺は心に決めていた。完全に八つ当たりだが、構いやしない。


「構うぞ」

「げっ!?」


 俺は唐突に聞こえた声に、ぎょっとして後ろを振り向いた。

 そこには見覚えのある赤いワンピースの少女が、両腰に手を当てて威風堂々と立っていた。


「ツーちゃん!」


 俺は目の前の相手を指差し、パチンとその手を相手に払われた。


「いたっ!」

「人を指差すでない、無礼者。それは、オースタンでも礼に適った振る舞いではなかったはずだ」

「ごめん。っていうか」


 俺は一拍息を詰まらせた後、一気に畳みかけた。


「何でここに? 時空の移動ができるのなら、どうして俺たちも一緒に連れてきてくれなかったんだよ?

 あの後、結構大変だったんだぞ? 主に俺のせいだけど。そもそも、何でツーちゃんが時空の扉を開いてくれないんだ? まさか、あれだけ講釈垂れておいて、開けないわけじゃないだろう?

 どうにかしてくれよ! 俺のことはいいとしても、もう、フレイアが可哀想なんだ!」

「ああ! うるさい! 一度に聞くな、馬鹿者!」


 ツーちゃんは詰め寄る俺を片手で制すると、眉間を険しくして腕を組んだ。


「今から説明してやる。おとなしく聞け」

「説明はもういいよ。ちょっとフレイアを呼んでくるから、ここにいてくれ」

「だから! 事情があるのだ。とりあえず聞けと言っとろうに。…………わからんか」


 言いながら、ツーちゃんは瞳を妖しく濁らせた。俺は彼女の正体不明の剣幕に押され、叱られた犬のごとく、その場で項垂れた。


「うぅ…………わかったよ」

「まったく、これだから若いもんは」


 目を瞑って再び開いた後のツーちゃんの瞳は、いつもの落ち着いた琥珀色だった。

 俺はそんな彼女の変化に戸惑いつつも、彼女のシンプルかつよく伝わるジェスチャーに従って、膝を抱えて座り込んだ。


「まず、先に断わっておくが」


 ツーちゃんは俺の前に立ち、溜息と共に言った。


「今の私は、時空の扉が開けない」

「えぇ、本当に?」

「ある阿呆によって、私は魔力の大半を封じられておってな。今、貴様が見ているこの身体は、ごく簡易的な仮の霊体に過ぎないのだ」


 レータイ、と俺が呟くと、ツーちゃんは淡々と語った。


「霊体というのは、いわば魂のようなものだ。厳密には違うがな」

「どう違うの?」

「言葉で正確に説明することはできん。それは知識ではなく、修行によってのみ培われる知恵だ。ただ、ものの実相は様々な形を取るということぐらいは、貴様も覚えておくとよい」

「全くわからないんだけども」

「では流せ。とにかく、今の私は、本来の力の一千万分の一も力を使えない状態なのだ。蒼の主の力を媒介として、かろうじて、こうして貴様と話せるぐらいのものだ」


 俺は首を捻り「それじゃあ」と相手に向かって尋ねた。


「ツーちゃんは、何のために来たの? 結局何もできないんじゃあ、気掛かりになるばかりだろうに」

「怪我の応急処置ぐらいはできるさ」

「ああ、そうか」


 俺はもうすっかり良くなった後頭部を撫でて、ちょっと笑った。ツーちゃんは呆れ顔で再び溜息をつくと、眉根をさらに寄せてまた話を続けた。


「主目的はもちろん、貴様らの監視なのだがな。ここへ来たのには、実は他にも理由がある」

「どんな理由? フレイアは、次は大丈夫だって言っていたけれど」


 ツーちゃんは聞くなり小さな頭を左右に振って答えた。


「それは私にもわかっておる。ここまで来れば、さすがのあやつも道を違うまい。それとは別件だ」


 ツーちゃんは大きな瞳を凝らして俺をじっと見つめ、おもむろに言葉を繋げた。


「ちょっとした失せものが、この界隈にあってな。それを回収しに来た」

「へぇ。それなら協力するよ。何を探しているの? 俺にも見えるもの? フレイアも呼んでこようか?」


 俺の提案に、ツーちゃんは「いや」と気まずい調子で答えると、なぜか声を潜めて続けた。


「フレイアには私から伝えておこう。

そして…………そう。事実、貴様の協力はありがたい。私はそれを頼みに来たのだ。貴様にも確と見出せるものだ」

「OK。どうすればいい?」


 俺は初めてのわかりやすい課題に張り切った。

 ツーちゃんは相変わらず歯切れ悪い様子ではあったが、とても安心できる情報を伝えてくれた。


「自分の足を使って探すが良い。そしたら、こちらで貴様の位置を把握し、迎えに行こう。

 トレンデ…………この世界には、黒蛾竜のような危険な生き物はおらん。ここは「影人」と呼ばれる連中だけが暮らす、時空上稀に見る平和な土地だ。

 魔力は豊かだが、影人達がよく管理しているので乱れることもない。のどかな彼ら一流のやり方にかかれば、魔術師の繰る技など、何と馬鹿馬鹿しいことかと思うほどだよ」

「ふぅん。その「影人」ってどんな人なの?」

「そこら中におるではないか」

「え? 家の中にいる人たちのこと?」

「家にもいるだろうがな。ほれ、そこの水路沿いにも一人、歩いておる」

「鳥しか見えないよ」


 俺の言葉に、ツーちゃんは肩をひょいとすくめると、ぱちくりと瞬きをして言った。


「まあ、オースタンから飛んできたばかりの貴様には、見え難いこともあるのだろう。いずれにせよその名の通り、影のような連中だよ。一種の情緒的存在だ」

「情緒的存在、ねぇ…………」


 俺にはその「影人」という存在がいまいち釈然としなかったが、ともあれ、目的の「失せもの」の特徴について先に聞くことにした。

 しかしツーちゃんから返ってきた答えは、ほとんど素っ気ないと言えるものだった。


「正四面体だ」


 次いでツーちゃんは空中に、几帳面に正三角形を四つ並べて描くと、「これが、こうなる」と言って、その展開図をパタパタとピラミッド型に組み立てて見せた。


「…………」


 俺が何も言わずに怪訝な顔をしていると、彼女はさらにこう付け足した。


「今の貴様が、すっぽり入るぐらいの大きさだ。色は、時によって変わる」


 俺は多少困惑しつつも、


「わかった」


 と答え、早速、正四面体の捜索に出発することにした。

 もっと他に聞いておいた方が良いこともあったかもしれないけれど、かと言って、何か特別に聞くべきことも思いつかなかった。せいぜい、固いか柔らかいかぐらいだろうか。

 

 ツーちゃんは、


「例のものを見つけたら、「決して話し掛けずに」その場で私に知らせろ」


 と俺にきつく言いつけてから消えた。理由はいずれ話すとのことだったが、そもそも一体どこの誰が、正四面体に話し掛けるだろう?


 ちなみにツーちゃんへの報告は、彼女のことを思って強く念じれば、それだけで叶うらしい。

 俺は便利なような、厄介なようなと考えつつ、鉄塔の影が長く落ちる畑の脇を、ぽつりぽつりと歩いて行った。


 やがて左手の遠く、貯水池へと伸びる水路沿いにフレイアの姿が見えたけれど、向こうは俺には気付かず、ぼんやりと水面を眺めているばかりだった。

 はやく元気になってくれるといいな。

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