第7話 青い空の下で見て考えて。俺が赤いワンピースの大魔導師ツーちゃんと出会うこと。

 青い葉がサラサラと風に揺れると、木漏れ日がオーロラのようにチラつく。俺はオーロラを生で見たことはなかったが、きっとこんな感じでひんやり美しいのだろうなと、しみじみとその景色を眺めていた。


 目を覚ました時、まだ日は高く、フレイアは戻ってきていなかった。というより、覚えている限りの日の高さは、木のシルエットを見る限り、先程とほとんど変わっていなかった。


 俺は気怠さの残る身体を思い切って奮い立たせると、一度大きく背伸びをした。急な血液の移動によって立ちくらみがする。


 空には一匹の竜の姿も見えなかった。もっとしっかり観察したいと思っていたので残念なことではあったが、まぁ、彼らが俺を餌と認識しないとも限らないわけで、これはこれで良かったのかもしれない。


 俺は木陰から歩み出て、改めて辺りを観察した。

 山頂が雪に覆われた山の麓までは、クリスタルの草原が遥かに広がっていた。所々に似た形の木が生えている以外には何も見当たらず、散在する岩は白っぽくて、石灰岩に似ていた。


 3、4キロほど離れた草原の途切れ目の奥には、やけに尖った形の建物がニョキニョキとそびえ立っていた。その表面には小窓らしきものが規則的に開いており、一見すると人の居住区のようでもあったけれど、妙に無機的な感じがして気味が悪かった。


 俺はこそこそと辺りを警戒した後(注意を払ったところで、俺に何ができるわけでもないのだが)、さらに二、三歩進み出でて、再び空を仰いだ。


 何とも不思議な空が広がっていた。

 俺の知っているどんな空とも異なる、本当に突き抜けるような青がぶちまけられていた。ちらほらと細くちぎれて浮かんでいる雲はどれも球形に沿うようにうねっていて、青みがかった水晶を内側から見ている、魚眼レンズの中から世界を眺めている…………そんな印象を受けた。


 俺は風景に見惚れつつ、キラキラと陽光を照らし返す透明な草の中で腰を下ろし、ぼんやりと今の状況について考えを巡らせた。尻の下の砂とも土ともつかない白亜の地面が、ほんのりと優しい熱を帯びていて気持ちが良かった。


 さて。


 まず、最初に自覚しておかなければならないことは、薄々感付いてはいたことではあるのだが、どうやら今のこの状況は、夢ではないらしいということだった。


 そんなわけがない、ないないない、あり得ないとこれまで一生懸命クールぶってきたわけだが、どうにももう限界が近かった。

 踏まれると痛いし、酔うと気持ち悪いし、嘔吐物には今晩の食事が混ざっているし、といった数々の事実は、夢と現実の境目をぶち破るのに十分な破壊力を備えていた。


 実際、現在肌に感じている草の感触や日差しの温もりも、脳が情報整理のついでに見せたまやかしとは到底思えなかった。俺の身の回りにあるものは、何もかも実体がある。


 これが紛うことなき現実だとするならば、俺の冒険は、同じ筋書きのアニメ小説映画等がたくさんある中で、結構シビアな部類に入るかもしれなかった。


 そう。第二の覚悟すべき点、反省すべき点である。


 フレイアは、俺が「元の世界に帰って来られる」とは一切言っていなかった。

 この事実は彼女の顔色、口調、発言のすべてを、一挙に筋の通ったものに仕立て上げる。早い話が、ウキウキ気分で返事をしたあの時の俺には、あんな大見得を切った割に、現実が見えていなかったということになる。俺は主人公になれるという能天気な喜びのあまり、自分がどのような物語の主役となるかについて、全くの無頓着だった。

 すでに戻れない旅に出てしまったという恐怖と後悔は、長い長い影を引いて、着実に俺の背後へにじり寄って来ていた。


 そして、極め付けに。


 ある意味では筆頭にして最大の問題とも言える疑念が、俺の内に芽吹き始めていた。

 フレイアを頼ってここへやって来た俺は、もし彼女とはぐれてしまったなら、どうなるのだろう?


 フレイアは今のところ、俺の唯一の命綱だった。俺は彼女なしには一歩も身動きができないし、何よりなぜ扉を抜けて遥々ここまでやって来たのかの理由さえもなくなってしまう。万が一このままフレイアが帰って来なかったとすれば、俺にはもう何の希望も残されていない。水無瀬孝がどこでどのように死んだのか。それはきっと、アカシックレコードにすら記録されない、微々たるニュートリノの夢と化す。


 フレイアが戻ってくる兆しは、今のところ皆無だった。


 木の影の延び具合からするに、ごくごくゆっくりと時間は経過しているようであったが、それが故にかえって不安は募るばかりであった。


 風の音しかしない草原で、俺は心細いという段階をも通り抜けて、何だかひどく虚無的な気分に陥っていた。

 耳を澄ませばサササと草原の葉を揺らす、何か小さなものの気配が感じられる。しかし葉が透明なように、その生き物(?)の身体もまた透き通っているようで、いかに視線を落として目を凝らしてみても、その正体を発見することは叶わなかった。


 耐え切れなくなった俺は立ち上がり、


「フレイア?」


 と、抑えた声で虚空に向かって呼びかけた。大声を出すだけの勇気は俺にはなかった。


 当然返事は返ってこなかった。俺は分かりきっていた結果に落胆しながらも、何にも見つからずに済んだという安堵に溜息を吐き、元の木陰に戻ろうと踵を返した。


 と、何気なく木の根元に目をやった時だった。俺はそこに立っている、見覚えのない人影に気付き目を瞬かせた。


 人影は小さかったが、フレイアほどミニサイズというわけではなかった。小学校低学年ぐらいの女の子である。

 女の子は袖のない赤いワンピースを着て、俺と同じように、荷物も武器も一切持っていなかった。細い手足がか弱げで、見ているこちらの方が心許なくなってくる。彼女の目はクリクリとして、フランス人形のような品があった。その瞳の色は光の加減によって、黒にも、グレーにも、茶色にも輝いて揺れる。


「遅いぞ、下郎」


 いきなり、少女の唇がそんな風に動いた。俺は戸惑い、反射的に左右を見渡した。


「どこを見ている? 愚鈍なヤツめ。貴様だ、貴様のことを言っている」


 俺は声を張っている様子もない少女の方を振り向き、無言で自分を指差した。


「そうだ。当たり前だろう」


 同じ声が再度、俺の耳に響いた。いたいけで愛らしいものの、発音ははっきりとしていた。


「ええ、っと」

 

 俺が呟くと、


「ええっ、と」


 と、少女は俺の口癖をわざとらしく真似て、鼻で笑い飛ばした。


「馬鹿特有の無意味な発言だ。他に誰がここにいるというのだ? さっきまでずっと辺りを見ていたのではなかったのか? 自分が数秒前に見たことさえ忘れてしまうとは、みっともないを通り越して無惨ですらある。貴様に比べれば、屁をしたグゥブだってもっと恥らいを覚えていることだろう。その二つの節穴は節穴以上に節穴と見える。ウロのような男だ」


 次々と繰り出される罵倒に(グゥブが何かはわからないが、音の響きからして、およそロクなものではないだろう)、俺は理解が追いつかないまま、ただただ口を開けていた。


 少女はその隙にもパクパクと口を動かし続けていたけれど、彼女の声はそれに合わせて、いやにくっきりと俺の耳に伝わってきた。むしろ、空気を通さずに鼓膜が直接振動させられているといった感覚だった。


「まったく、心配になって見に来てみれば…………案の定この様か。あの娘、魔術の見込みはないと思ってはいたが、人を見る目までないとは。これだから貴族は信用ならん。甚だしい世間知らずだ。大体何だ、この間抜け面は? 見るからに阿呆ではないか。これでは勇者だ鍵だ以前の問題だ。おい下郎、せめて口ぐらい閉じろ」


 俺は言われて5秒後に、やっと口を閉じた。しかし罵倒のマシンガンで自分がハチの巣にされているという自覚は、この期に及んでも皆無だった。

 少女は俺を見据え、まだ続けて喋った。


「ふん、水浴び後のマヌー程度にはマシな顔になったか。それより、いつまでそこに突っ立っているつもりだ? 日が暮れるまでか? 死ぬまでか? 違うのなら、はやくこちらへ来い。貴様に割く時間が惜しくてたまらん。おい、聞こえんのか。もっと速くだ、足の動かし方も知らんか!」


 俺は事情も分からぬままに、厳しい顔をした少女の元へと駆けて行った。罵倒は彼女に近付くにつれて、徐々に普通に口から発されるものへと変わっていった。


「一人前に走れもしない!」


 少女は俺に詰め寄るなり、怒気を身体全体から蒸気機関車のように噴出させて怒鳴った。


「あの」

「「あの」? 鳴き声か、それは? 「あの」無しに最初から話すことは、どうしてもできないのか? よもや、貴様はからくりの類か?」

「できますけど」

「けど、何だ? 勿体ぶる理由が何かあるのか? なかろう。まとめて話せ」

「ええと」

「ああ、くだらん、くだらん、くだらん!」


 少女は心底堪りかねたとばかりに激しく首を左右に振った。俺は眼下の小さな生き物が暴れる様を少し面白いと思いつつ、危険もなさそうなので、のんびり気を抜いて話し掛けた。


「俺、水無瀬孝って言うんだ。君は誰?」


 少女は聞くなり動作を止めると、振り乱した髪の間からギョロリと俺を睨んだ。


「…………この私に、誰、だと…………?」


 俺は相手の問いに、なるべくソフトな笑顔を作って頷いた。少女は信じられないといった表情、仕草、吐息の後に深々項垂れると、今まさに地獄の底から蘇ってきたとばかりに、ポツリと呟いた。


「…………我が名は、ツヴェルグァートハート」

「ツエルグ?」


 きょとんと繰り返す俺に、少女は呆れ声で畳みかけた。


「ツヴェルグァートハート・ハンナ・エル・デル・マリヤーガ・シュタルフェア。貴様には尊貴過ぎる偉大な魔導師の名だ。いかなる時空においても、滅多に口にされない。貴様も軽々しく唱えるのは控え、聞くに留めよ」


 控えよとは言われたものの、言葉の終わりにはすでに長過ぎる名の大半を失念してしまっていた。

 俺は肩をすくめ、提案した。


「それなら、ツーちゃんって呼んでもいい?」

「ツー…………、ちゃん?」

「そう。ツヴェルグなんたらのツーちゃん。可愛いと思うんだけど」


 少女は一瞬、銀河の果てか、時空の臨界点でも見るかの目をしたが、すぐさま俺の目の前に戻ってきて応じた。


「正気か」

「気に入らない?」

「そういう問題ではない」

「どんな問題があるの?」

「はぁ」


 ツーちゃんは肩を落とすと、大人みたいな困り眉で、ちょっとだけ口元を歪ませて、二度微かに首を縦に振った。


「まぁ、いい。私の負けだ。好きに呼ぶがいい」


 ツーちゃんは偉そうにそうこぼすと、改めてまじまじと俺を見つめた。


「何?」


 俺の問いに、ツーちゃんは老人じみた目つきを作ってこう答えた。


「いや、それにしても因果なものだと思ってな。何の力も無いくせに、貴様には妙に多数の糸が絡まっておるようだ。貴様が気にすべき事象ではなく、というより、こればかりは誰に気に掛けられる問題でもないのだが」

「えー、気になる言い方だなあ。教えてよ」

 

 俺が頼むとツーちゃんはやや左方上向きに目線を逸らし、またゆっくり俺の方へと視線を戻して言った。


「貴様はどれだけ昔のことを覚えている?」


 俺は首を捻って答えた。


「昔かあ。ううん、歴史は結構成績が良かったけれど、今はあまり自信無いな」

「その昔ではない。私の聞き方が悪かった。貴様は、どれだけ自分が幼かった頃の記憶を持っている?」

「いつぐらいから記憶があるかってこと?」

「そうだ」


 俺は頭の中で浮ついている過去の出来事をちょっとずつ手繰り寄せつつ、確実といえるラインではなく、薄ぼんやりと覚えているラインを最古とみなして返事した。


「4才ぐらいかな。仲が良かった友達と、庭で何かを探していたのを覚えている」

「そうか」


 ツーちゃんは無表情で頷くと、腕を組んで何か考え込んでいた。

 一方で俺は、ついでにその友人との最後の会話を思い出してしまっていた。もし二度と元の世界に帰れないのであれば、あの過去からも解放されるのか。それも悪くはないけれど…………。

 やがてツーちゃんはパッと顔を上げると、ハキハキと話し始めた。


「よろしい。では、貴様とフレイアの因果にも触れつつ、この私自らアブノーマル・フロー…………「時空の逆流」について講釈を垂れてやろう。場所が場所なら泣いて拝まれるところだが、我が名も知らぬ貴様に期待はせん。せいぜい肩の力を向いて、全力で理解に努めよ」


 俺は目の前の少女に微笑んで見せた。

 まぁ、いずれ昔のことなど、今となっては無意味である。霧はいつも放って置くうちに晴れていくものだ。人は皆、今を生きなければならない。何より今の俺は、特に。


「長そうな話だから、座ってもいい?」


 俺の問いかけに、ツーちゃんは教師みたいに腰へ両手をやって答えた。


「ああ、構わん。だが居ずまいは正せ」

「オッケー」

「…………。話に入ろう」


 話すツーちゃんの髪は柔らかそうで、日に当たるとキャラメル色に見えた。木漏れ日は俺らをまだらに照らしながら、静かに時の流れの中をそよいでいた。

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