第156話


 階下からいくつもの破砕音が聞こえてくる。それも数秒と経たずに収まった。どうやら下の階層はもうほとんど浸水してしまっているらしい。


「この階もすぐに浸水する」

「で、でもどうするの?」


 この階層の至る所から悲鳴が聞こえてくる。突然の水害に巡回兵たちが恐慌に陥っているのだろう。

 何を血迷ったのか銃声までもが聞こえてくる。極限の状況に陥りパニックになってしまったのか。


「どちらにせよ逃走経路は一つしかありません。何より真那様の起動した爆弾の起爆までの時間が差し迫っています。憂慮の余地などないでしょう」

「そうね……エントランスに向かいましょう」


 急いで入ってきたときに経由した入口へと向かう。

 潜入組である時雨たちが着た時点で潜水艇はいくつかあった。まだ残されていることを祈るほかない。もし残されていなければこの身一つで水中に潜る他あるまい。

 エントランスは予想していたよりもさらに悲惨な状況に陥っているようだ。潜水艇は健在であるものの、その周りには武装した局員たちが十数名屯している。

 されど銃口はどうやらこちらに向けられているわけでもないようだ。


「退けッ! 退けよラぁッ!」

「これは私が用意していたものだ! 割り込むんじゃない!」

「知るかよこんな場所にいられるかッ、そこを退」


 発言を遮るように反響した張りつめた筒音。潜水艇の前に陣取っていた男が、殴りかかろうとしていた人物を射殺した。

 頭部から鮮血をまき散らし仰向けに昏倒する。殺害した側は彼の絶命などものともせず、その事態におののく者たちに怒声を張り上げる。


「これは私の物だッ、邪魔しようとすればその男と同じ目にあわせるぞッ」


 彼はそのまま潜水艇に潜り込み水の中に艇体を沈めていく。すぐにその姿は見えなくなった。


「身内間で殺し合いなんて……逆境に立たされた時、人間の本性が出るという物ね」


 真那はどこか悲しげにそう呟いていた。防衛省の局員たちはそのほとんどが元自衛隊員だ。彼らがラグノス計画に賛同しその意向に従っているのは、あくまでも自分たちの安寧の獲得のために他ならない。

 そんな彼らの間に信頼関係などありようはずもない。むしろ自身の保身のために、防衛省の悪巧みに加担している自分に対する罪悪の念などに縛られているはずだ。

 その状況を心のどこかで容認している。それ故に感覚がマヒしていてこういう状況に立たされた時、平気で仲間を殺してしまう。何と痛ましい光景だろうか。


「もう飛び込むしかない」

「馬鹿か? この水深じゃ水圧で死んじまう」

「潜水服がいくつかあった。これがあれば上に辿り着ける」

「本当か? どこにある!」

「管理局の所だ。だがもう浸水しているかもしれんがな」

「くそッ、ならそれを寄越せっ!」

「近寄るなッ!」


 再びの銃声。反響した筒音に併せて、腹部を撃ちぬかれた側の超音波のような悲鳴が轟いた。潜水服をまとった側が撃ったのだ。

 蹲った男の顔面に苛烈な蹴撃を炸裂させ横転したその頭部に銃弾を撃ち込む。


「俺は死ねないんだ。悪く思うなよ」

「クソッ、それを渡せっ」


 別の男が潜水服に襲いかかる。潜水服はその男をも射撃し黙らせるが、彼の行動は皆の行動への皮切りとなった。

 潜水服へと一斉に皆が飛びかかりその中身を潜水服から引きずり出す。無残にも床に打ち捨てられた男は全身から血を垂れ流し絶命していた。


「おいふざけるな、潜水服使い物にならなくなってるじゃねえか」

「てめえがぶっ放したのがわりいんだろがッ!」

「違う、貴様の刺突が酸素ボンベに穴を空けた」

「そんなこと言ってる暇はないだろう。もう術はない。俺は生身でも上まで辿り着いてみせる」


 エントランスにも浸水が始まっていることに気が付いたのだろう。覚悟を決めたように一人の男がまともな潜水装備も持たずに水の中へと飛び込んだ。


「……おい、浮かんでこないぞ」

「死んでないってことか?」

「おいバカよく考えろ。ここを潜れば基地の下の空間だが、このまま進めばダム水の下に出ることになる。そうなれば水深三百メートルの水圧に晒されるんだぞ」

「そんな理屈はどうだっていい、俺は死なない、俺は行くぞ!」

「俺もだッ、俺も行く!」


 さらに一人そしてもう一人、数珠を繋ぐように飛び込んでいく。

 そうなればもはや皆憂慮の余地などはない。その場にいた殆どがその場から姿を消した。


「馬鹿野郎どもが……!」


 冷静な判断をできている者もいたようだ。だが彼らもこの水底基地から抜け出す手段などを有しているわけでもなく。

 膝下あたりにまで達してきていた水深に恐怖を限界にまで煽られたのか、躊躇する間もなく銃口をその口に突っ込んだ。


「ヒィ……ッ!?」


 鮮血が後頭部からまき散らされ、それを全身に浴びた別の男。彼は気が動転したようにその場につんのめり、がたがたとその身を震わせ恐怖を表明させる。

 自決した男がその場に血しぶきを撒き散らしながら倒れ込むと、慌てて立ち上がって言葉にならない悲鳴を上げ奥へと駆けて行った。


「まともな思考などもはやとうに紡げなくなっているのですね」

「生身で潜っても水圧で死んでしまうことは確実……それでも自殺するよりはまだ希望があるでしょうに」

「彼らが市民を護るべき自衛隊の意志や誇りを捨てていなければ、あそこまで動揺し、狼狽し、自ら死に至るような行為には及ばなかったことでしょう。彼らがあそこまで取り乱し仲間の命にすら手を掛けたのは、それぞれが自身の命に何よりも重みを置いているからです」


 それ自体は当然のことだろう。自分の命よりも他人の命の方が大切なんて考えるのは殆どが偽善だ。

 本気でそう考えていてもいざ死に直面すれば誰しも死への恐怖に負けてしまう。

 それでも彼らが人道や人間性を有した存在であるのならば、理性を失っても他人の命に手を掛けることはなかったはずだ。


「それが臣民を裏切った偽善者たちの本性と言ったところでしょう。醜いものですね」

「……それよりもなのだ、実際リオンにはどうすればいいのか解らないのだ」

 

 凛音は自身の足元を着実に沈めて行く水深に不安を隠せないようだ。時雨自身もどうすればよいのか解らず動揺している。

 彼らのことを哀れだと思いはしながらも、自分たちもまた同じ状況に立たされていることに変わりはない。

 しかし膝ほどの高さにまで水が上昇した辺りで、その浸水は一時的に停止していた。通路に配置されていたシャッターのセキュリティシステムでも発動したのかもしれない。


「どうすれば脱出できるのかしら……」

「潜水艇はもうない。さっきの連中の口ぶりからしても、別の潜水服を調達することは難しいだろうな」

「ええ。管理局に置かれているようですが、この水害を防ぐため、それよりも近いブロックのシャッターが降りてしまっています。取りに戻れば確実に溺死しますね」

「もっともここにいてもいずれ私たちは溺れ死ぬわ。シャッターが水圧にいつまでも耐えられるはずもないし、もし耐えても、酸素供給がなされなくなっているから窒息死する」

「それ以前の問題ですね。真那様の起動した時限式爆弾。十分に設定していたはずですから、もう二、三分程度しか時間が残されていません」

「お先まっくろくろすけなのだ」


 凛音は慌てふためきつつも周囲に忙しく目線を送っている。何か脱出法を見出そうとしているのだろう。

 脱出するということはすなわち、水深三百メートル分の水圧に耐えて浮上しなければならないということだ。

 時雨や凛音はもしかすれば再生可能なダメージに留められるかもしれないが、真那はそうは行かない。彼女はあくまでも生身の人間なのである。肺を押しつぶされ浮上する前に溺死することだろう。


「うにゃぁっ!?」


 募る不安と恐怖に追い打ちをかけるように天井に亀裂が走った。

 ぴしぴしと嫌な音を立てながら亀裂は蛇のように天井を走る。間欠泉のように大量の水が噴き出してきた。


「……皆様、戦闘に備えてください」


 神妙であったネイの声音が急に切羽詰まったようなものになる。

 まさかこの状況で新たな敵が向かってきているというのか。ライフルを構えつつ、先ほど自分たちが走ってきた通路を見やる。


「そちらではありません」

「……もしかして水面の方か?」

「ええ。私のソナーで急接近してくる何かの反応を観測しました。規模からして潜水艇でしょう。何を血迷ったのか再びこの場所に向かってきています」


 一体、搭乗者は何を考えているというのか。せっかく離脱したばかりだというのに、どうしてまたそんな無謀なことを……。

 訝しく思いつつライフルを構え戦闘に備える。うまくすれば潜水艇を奪取してここから離脱できるかもしれない。


「来るわ……ッ」


 水面に記憶に新しい外装の潜水艇が浮上してくる。照準を合わせたまますぐにでも射撃できる体勢を築いていた。

 機械音とともにハッチが開かれそこから操縦主が頭を出した。


「時雨様っ」

「……風間!?」


 内部にいた人物は敵影ではなく泉澄。彼女は開かれたハッチから身を乗り出し時雨の姿を見つけるなり、その表情に歓喜の色を乗せる。

 すぐに状況が深刻その物であると理解したのか、彼女はその表情を真剣そのものなものに変えて小さく叫ぶ。


「急いで乗ってください!」


 先までは数十センチ程度だった水深が今や腰辺りまで進行している。重たい体を前に押し進むようにして真那の背中を押し出す。

 凛音に関しては、水面に浮上した状態で人間が出せるとは思えない速度の犬かきを披露していた。

 ものの数秒で潜水艇に到達しハッチに潜り込む。時雨と真那もまた潜り込むと、泉澄はそれを確認してハッチを閉じた。


「急いで離脱してください。もう時間がありません」

「潜航します!」


 彼女は操縦席にへばりつき潜水艇を進行させる。覚束ない手つきでパネルを操作していた泉澄は、潜水艇の動力を復旧させ迅速に基地から離脱を果たした。


「衝撃に備えてください」

「ッ!」


 ネイの忠告が終わるよりも前に尋常ならざる震動が来た。震央に立っているかのような衝撃に潜水艇が揺すぶられる。

 モニタで後方を確認すると水底基地がある地下ダムの底全体が爆散していた。

 超高圧の水泡を撒き散らし衝撃波が水中に押し寄せる。潜水艇はその流動に押し出されるようにして一気に浮上していた。


「な、なんとか助かったのだ……」


 離脱の成功。それが全身に押し寄せる疲労感となって実感させられる。

 どっと噴き出してきた安堵感に胸を撫で下ろしながらその場に頽れる。


「それにしてもよかった。無線が繋がらなくなっていたから、てっきり敵に捕縛されたのかと思っていた」

「いえ、時雨様からの無線越しに局員たちの発言が聞こえてきましたので。停泊していた船体に潜り込み、そのまま潜航して地下ダムに待機していたのです」


 泉澄は振り返らずに応じてくる。どうやら彼女は自分自身の機転に救われたようだ。


「そう言えばさっきのノヴァ、今の爆発で消失したのかしら……」


 泉澄の隣の席について潜水艇を操縦する真那がふと疑問を紡ぎだす。水没の可能性に翻弄されついあのノヴァの存在を失念していた。

 重たい体に鞭打って立ち上がると、真那と泉澄が腰を落ち着ける席の背もたれから身を乗り出させた。全方位モニタに表示される光景、水底の基地。そこからあのノヴァが飛び出してくる気配はない。


「消滅できたのか」

「……不可解ですね、ナノマシンがたかが爆発で抹消されるとも思えませんが」

「え?」

「ナノマシンの物質の変質作用はすなわち自己修復機能に繋がります。しかもあのノヴァ、従来の物とは比べ物にならないほどの速度で人体を変質させていました。あれは明らかに人智を超越しています」

「つまり爆発程度では完全にナノマシンは葬れないということでしょうか」

「核兵器でも持ち出せば話は別でしょうがね……ああ、そう言うことですか」


 考えあぐねていたネイはモニタから目を反らした瞬間、その表情を納得の色に変えた。

 つられるように彼女が見据える先を見る。モニタではなくガラス越しに見える前方の光景。

 上昇し行く潜水艇の直進方向には目を疑いたくなるような光景が滲んでいた。


「な、何なのだ、あれ……!」


 水中を縦横無尽に徘徊する巨大な影。鈍色に光を放つ超微細な金属粒子の群れ。


「さっきのノヴァよ……っ」

「すでに離脱していたようですね……おそらく最初の水害も、あれが管制室の壁を破壊して外に抜け出したがために生じたものでしょう」


 あたかも大蛇のように超長な肢体をうねらせ、そのナノマシンは数十メートル上方を駆け巡る。

 変幻自在にその容貌を変貌させる大蛇は、その水深に浮遊している何かを取り巻くように旋回していた。ナノマシンに翻弄されている物体は今搭乗している物と同じ潜水艇だ。


「水面に上がりきれなかったのか」


 先ほど他の者達を差し置いて離脱した艇だろう。ノヴァに追い立てられ急いで浮上しようとしているようだがそれもままならない。

 上昇しようとすればそれを阻むように大蛇が通せんぼをするのだ。八方塞な潜水艇に向けてナノマシンの群集は強襲を仕掛けた。頭部のような形状に形成された部分から水中とは思えない速度で突っ込んでいく。

 潜水艇の方もただでは絶命しない。それを間一髪で回避するや、船体を旋回させ魚雷発射口から機雷を発射した。


「魚雷なんて搭載されているのですかこの潜水艇には。本来戦闘型ではない小型潜水艇に搭載するとは……重量的な問題でもいささか問題がありそうですが」

「衝撃に備えてっ」


 冷静な分析を展開させるネイをさておいて各々どこかにしがみつく。

 先ほど基地が爆破した時のような衝撃が襲い来ることはなく、魚雷が爆発したような音すら聞こえない。

 

「おっきな弾丸が消えちゃったのだ……」


 凛音の言う弾丸というのは魚雷で間違いないだろうが。確かに上方には魚雷が爆散した様子もどこかを直進している様子もない。おそらくはあのナノマシンに飲み込まれ変質され消滅したのだ。

 ノヴァは潜水艇に食らいついた。元の頭部からは想定できないほどにその咢を開口させ、あたかも大津波のように小型潜水艇を飲み込んだ。そして数秒と経たずナノマシンはその全てを抹消する。


「とんでもない化け物だ」

「潜水艇が一瞬で消えてしまったのだ……」

「それよりも問題であるのは、それによって生ずるあのノヴァの変化ですね」

「どういうことですか?」

「見てください群集がわずかに肥大化しています。おそらくは飲み込んだ潜水艇を変質させ、増殖させたのでしょう」


 つまりは接触したものすべてをナノマシンに変質させるということか。

 そんなもの、もはや化け物という次元には留まらないではないか。世界の物理法則を完全に黙殺した人智や常識といった物すべてを超越した存在。

 

「どこぞのギルティの人ではありませんが、このノヴァは本当の意味で神に匹敵する存在やもしれませんね……人間の手によって生み出され人間の本質をも超えた完全無欠の存在。太刀打ちの術などないかもしれません」

「それでも、そうも言っていられないじゃない……!」


 真那は潜水艇を旋回させ直進方向から軌道を反らす。

 このまま突っ込めば、先ほどの潜水艇と同じく命運が尽きる結果となるだろう。迂回し可能な限り距離を取って浮上するほかあるまい。

 軌道は直進方向から反らされたものの明らかにノヴァの方向に向いたままで。


「このままじゃあいつの思うつぼだぞ」

「でも、あれをこのダムの外の出すわけにはいかないわっ」

「そうですね、あれがもし世に出れば、世界は本当の意味でのパンデミックに陥ることでしょう。デルタサイトによって保たれていた一時的な安寧も覆され、世界は恐慌に陥る。防衛省ですらその行動を抑制する術を持たず地球は滅びゆく」

「そうはいっても、どうしろというんだ」

「確かに打つ手がないのはもはや自明の理ですね」


 ネイは考え込むように唇に指を据える。先ほどの魚雷消失から見ても、通常の軍事兵器ではあの怪物を抹消できないことは解っている。

 もしこの地下ダムを陥落させたところで、瓦礫そのものを変質されればそれは監獄にすらなりえない。むしろあのナノマシン群集が肥大する要因になりかねない。


「シグレのあの特殊弾ならどうなのだ?」

「あの巨大な体躯ですと特殊弾百発あっても足りませんね。通常のノヴァならば、特定の部位にあるコアを破壊すれば抹消できますが。あの個体には、そもそも実体がありません。掴みようのない存在の肉体を分散させたところで、痛くもかゆくもないでしょうね」

「っ、皆様っ、ノヴァが――!」


 それまで天空をかける龍のように旋回し漂う局員やU.I.F.たちの肉体を貪っていたノヴァが、突然その進行方向を変えダムの内壁に猛進を始めた。


「もしかして、ここから逃れるつもりなの……っ?」

「どうやらそのようですね」


 ノヴァは一寸の躊躇もなく強化コンクリート壁に衝突した。ナノマシン側には一切の反動が生じた様子もなく、大蛇は超速で壁の中へとその身を沈めていく。

 数十メートルほどもあったはずのその群集はやがて地下ダムの中から姿を消していた。


「くそ……ッ、逃した……」

「致し方ありませんね。まずは浮上しましょう」 


 ノヴァが通過していった頑丈な壁には蛇の巣のような穴が穿たれている。その穴の中に一斉にダム水が雪崩れ込みダムの水位が加速度的に下がってきていた。

 このままでは地下ダムから出ることが出来なくなる。そう判断し迅速に水面へと浮上を試みた。

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