第155話

「異常を察知したU.I.F.が管制室へと押し寄せてくるかもしれません。真那様、後方にも注意を怠らないようにしてください」

「ええ解ってるわ。私の方で逃走経路の確保はしておく」


 先ほど昏倒させた局員の白衣の中から真那はトランシーバーを引っ張り出す。それを用いてU.I.F.たちの警戒状況を探ろうと考えたのだろう。

 専用機材の配線をつないで無線の傍受を始めた彼女から目を反らし、凛音に目線で合図する。獣化が解けかけていた彼女は改めてリジェネレート・ドラッグを上腕に突き立てていた。


「行くぞ」

「解ったのだ」


 堅牢な扉を押し開き足早に転がり込む。そうして後ろ手に扉を閉めた。

 もしナノマシン濃度が手を付けられないほどに至っていたのならば、可能な限りこの部屋は隔離すべきであるからだ。


「ネイ、どうだ」

「大気感染率、0.5パーセント弱と言ったところですね。管制室内部には一切のナノマシンが浸食していなかったことを見ても、この制御室の壁は特別な素材でできているようです」


 特別な素材というのはすなわちナノマシンを通過させないための素材か。ナノマシンと言えばその増殖機能によっていかなる物質をも変質させてしまうと聞くが。

 まあナノマシン自体が防衛省の生み出したものだ。その浸食が及ばない素材も開発済みということだろう。

 つまり真那はあちらの部屋にいる限り安泰ということだ。それを理解してひとまず安堵する。


「しかし……実際に目の前で見てみると圧巻だな、これは」


 放電現象を拡大させていくNNインダクタ。その苛烈さは明らかに増大し続けている。

 デバックフィールドに繋がるゲートと思しき歪みの部分には、銀色の粒子のようなものが取り巻き始めていた。それらはナノサイズのイナゴの群集の様に不気味に渦を巻き、霧散しては集合を繰り返す。あたかも生きているかのような造形だ。


「さて時雨様、凛音様、行動に移す前に一つ忠告があります」

「なんだ?」

「C-4による破壊を試みた際、どういった現象が生ずるのかは全くの未知数です。棗様の思惑通りNNインダクタは破壊されデバックフィールドも消失するのか。あるいは、時雨様方自体もその消失に巻き込まれる可能性もあります」

「……解っているさ」

「おぅなのだ。これはリオンが招いた事態なのだ。それならばリオンが自分で落とし前をつけなければならないのだからな」


 返答にネイは何も返さない。ただもう忠告はしないとでも言わんばかりに神妙な面持ちをして見せる。

 尻目に強化ガラスを伺った。そこには不安げな表情で時雨たちを見据えている真那の姿がある。

 NNインダクタの破壊に失敗した場合、管制室側には戻れなくなるだろう。

 この空間はナノマシンを隔絶するために作られたのだろうが、この室内から漏れ出してしまってはもはやその隔絶に意味はない。従って、その危険性を排除するために時雨たちもこの空間に留まらなければならなくなるかもしれない。

 弱音などを吐く間もなく真那からNNインダクタへと視線を流した。自分自身の命大切などと言っているような環境にもはや自分はいないのだから。


「シグレ、臭うのだ」

「ナノマシンですか」

「多分そうなのだ……とっても強いにおいがするのだ」


 常人には認識することもできないような微弱な臭気。そもそも匂いという概念が人間の嗅覚で認識できるものであるのかすら定かではないが。凛音にはそれが感じられるのだろう。

 あまりいい感覚ではないようで凛音はその眉根を寄せ臨戦態勢に入っていた。


「少し行動が遅かったようですね……来ます」


 デバックフィールドのゲートから銀色の群集が飛び出してきた。それらは瞬間的に集結し明確な形状を象っていく。

 あたかも光学粒子が収束していくように一部に纏まったそれらは、やがて一つの個体物を生じさせる。ジョロウグモのような形状のノヴァあ。


「アラクネか……討滅するッ!」


 ネイがマテリアライズを始めるのを肌で感じながら、目の前に降臨したそのナノマシンの塊へと向けて接近した。擡げられ鳴動するナノ粒子砲が展開されるよりも早く、その軌道を突っ切って肉薄。

 アナライザーを抜銃しようとし、自身の右腕が肩口から金属の物体に変貌していることを察知する。


「マテリアライズ──完了」


 ネイの発言に併せて変容する幾何学的な紋様。それを見る限り禍殃戦において発覚したアンチマテリアルで間違いない。ネイが変質させたのだろうか。

 懐に入り込み、その喉元へとアンチマテリアルに変貌を遂げた右腕を叩きこんだ。肩が外れてしまうのではないかという痛みを伴う衝撃。その衝撃を緩和するように拳は分厚い装甲を粉砕して喉元に叩きこまれた。

 コアに拳が接触する鈍い感覚。それよりも先にアンチマテリアルに接触した地点からアラクネの体構造が崩壊していく。ナノマシンを抹消する技巧によるももだ。

 消失がその肉体全てに及んでいくのを待つほどの猶予はない。時雨は指先に触れた洗う根のコアを力任せに鷲摑み、そのまま毟り引きちぎる。

 銀色の眩い粒子を噴出しながら仰け反るアラクネは、間をおかずしてその肉体を爆散させた。甲殻が飛び散るよりも前にそれらはナノマシンに変換され空気中に溶け込んでいく。


「ノロノロ、なのだッ」


 凛音もまた別に生起していた個体の頭部を胴体から分断したようだ。鋭利な尾を目で追えぬほどに早く前方旋回させ、袈裟斬りをその頭部にお見舞いした。

 ご丁寧にもその旋回による遠心力を駆使して、踵落としを分断された胴体に炸裂させる。骨格があっけなく破砕され撃滅される。

 二人の奮闘を嘲笑うように新たにナノマシンが形を成し始める。


「切がありませんね。さっさと爆弾を仕掛けてしまいましょう」


 ネイに指示されるまでもなくNNインダクタへと向けて駆け出した。

 放電現象が空間を蝕む中突っ切る。バチバチと激しい空気爆発を肌で感じつつもNNインダクタの傍にまで辿り着く。


「おっきいのだ……」

「しかし不可解ですね。先ほどから出現を続けているノヴァですが、どうにも違和感をぬぐえません」

「どうした?」

「従来のノヴァとなんら変わらないのです。外面的にも、その性質的にも」


 デルタサイトの妨害電波を物ともしない個体ではないということか。だが先ほどの局員は確かに肯定していた。そんなことはないはずであるが。


「……今は憂慮している時でもないだろう。まずはNNインダクタの破壊に努めろ」

「解った。C-4はどこに設置すればいい?」

「電力の配電を担っているプラグに接触させておけば確実でしょう」


 棗の指示を受け、あらかじめ信管の接続を済ませておいた爆弾をネイに指示された部分に接続していく。

 凄まじい電力量に肌が焼けるような痛みを感じていたが、それは歯を食いしばって我慢した。

 小型のC-4を二桁近いNNインダクタにそれぞれ配置していく。抱えるほどの大きさだがこの小型爆弾でどうにかなるのか甚だ疑問だ。


「よし、出来たぞ」

「それでは時雨様、凛音様、管制室にまで戻ってください。今の大気感染率であれば、時雨様方が戻れるだけの時間はあるはずです」

「私の方でも管制室に爆弾を仕掛けておいたわ。遠隔爆破は出来ないから時限爆弾だけど」

「もう起動したのか?」

「いえ、時雨たちが戻ってきてからするわ」

「それがいいですね。六百秒に設定しておいてください。時雨様、凛音様、私たちも戻りましょう。時雨様方がいてはNNインダクタの爆破が出来ないので」


 爆発の被害に巻き込まれかねないからだろう。凛音と目配せして一気に駆け出す。

 相変わらずノヴァの生成は成されているが、今の感染率ならば囲まれるほどの数のノヴァは出現できないはずだ。

 入口へと距離を詰めその扉に手を伸ばした。このまま何も起こらずに離脱できればいいのだが。そんな淡い期待も呆気なく蹂躙せしめられる。


「うにゃぁッ!?」


 並走していたはずの凛音の姿が消えた。代わりに余韻を残すように彼女の悲鳴が一瞬にして後方に遠ざかっていく。


「りお――」

「なんなのだこ、うっ、にゃぁぁぁあああっ!?」


 何やら管のようなものでも彼女の足に絡みついているかのように、その小柄な体が引っ張られていく。

 その足首には何も接続されていない。時雨の目には独りでに彼女が弧を描いているようにしか見えないのだ。

 彼女の体は呆気なく引っ張り上げられ宙に舞う。そのまま天井近くにまで跳ね上げられた途端、気づけば硬質な床に叩き付けられた。


「──何だッ!?」


 通常なら即死だろうが、凛音は血反吐を吐くことすらせずに立ち上る。そうしてそんな彼女目がけて猛進してくるノヴァたちをいなしつつ、こちらへと突っ走ってこようとする。その足をまたもや見えない何かが掬った。


「ぶみゃぁっ!?」


 少女の口から出たとは思えない悲鳴を上げて、彼女は再度その場に前のめりにつんのめった。顔面から床に叩き付けられ涙目になりつつも上体を起こす。

 そんな彼女に突進してきていたノヴァを特殊弾で抹消しつつ、その細い手首を鷲掴んで立ち上がらせる。


「今、何に足を掬われた」

「しらぬのだっ、さっきからなんだかよく解らぬものに足を掴まれるのだっ」

「何も見えなかったが……まさか透明なのか?」


 はっとしてアナライザーの銃口を構えた。注意して周囲の様子を伺うが、何かしらの物体が動いている様子はない。


「ネイ」

「透明ではありません。今僅かに、凛音様の足にナノマシンが絡みついているのが見えました」

「俺には見えなかったぞ」

「極僅かな粒子なのです。到底、ノヴァが肉体を生成するには足らないほどの非常に極小の……」

「それなら個体じゃないんだろ。そんなものがどうやって……」


 そこまで呟いてとある可能性に思い当たる。

 先ほどから何度も耳にしたノヴァの新型。その正体がもしやしたら目に見えぬそれなのか。


「おそらく、その推測は当たっていますね」

「っ、マジか……」

「ただ目に見えないわけではありません。先はあまりにも極薄であったために視認できなかっただけで……問題は、その存在が今この場に顕現されようとしていること」

「……何かヤバそうなのだ」


 凛音の強張った声音。それに触発され悪寒を胸に蟠らせながらも視線を振り返らせた。そして最大級の異形な光景をその目に留めることになる。

 NNインダクタの放電現象によって保たれているゲート。その先にあるであろうデバックフィールドから『何か』が這いずり出てこようとしていた。

 青白く苛烈に電流を迸らせるデバックフィールド。その中央部に生まれた闇よりも漆黒な不気味な空間。

 その内部から伸ばされでている物は人間の腕にも似た巨大な何か。形を持たぬナノマシンの群集によって成されているその造形は、異形以外の何物でもない。

 それはゲートの奥の世界から自身の胴体を引っ張り上げようとしているかのように、少しずつ着実に身を乗り出させてきていた。


「なんだ、あれ……ッ」

「見かけの印象で語らせていただきますに。とりあえずヤバい相手であることは確かですね。さっさと逃げてください」

「言われるまでもないッ」


 狼狽し呆然と立ち尽くしている凛音のフードを鷲掴んだ。踵を返し間髪入れず駆けだす。

 あれはやばい。明らかに他のノヴァとは違う。規模が。格が。脅威性が。リヴァイアサンの比ではない。あんなもの脅威にすら感じられないほどの重圧感だ。

 背中越しにも張りつめるような熾烈な圧力を感じていた。今にも現実世界に顕現されてしまうのではないかという予感。


「真那様! 爆弾を起動してくださいっ」

「解ったわ!」


 ガラス越しに放心していた真那にネイが叫びかける。冷静さを迅速に取り戻した彼女はその身を翻らせて爆弾に手をかける。

 それをわき目に伺いつつも堅牢な扉を押しあけて管制室内部に転がり込んだ。


「鍵しめろッ」

「任せるのだっ」

「ネイ、起爆をっ」

「準備は出来ています……起爆します」


 激烈な震動が管制室を襲った。硝子の向こう側では硝煙と火炎がまき散らされ爆音が轟いている。

 凛音が施錠したばかりのドアが反対側から吹き飛ばされかける。なんとか耐えたその表面にはひしゃげた痕が残されていた。瓦礫が着弾したのだろう。

 NNインダクタは火の煙を上げ瓦礫となってその場に崩れ落ちた。それでもなお中空に展開されたデバックフィールドは消失しない。その内側から現界に躍り出ようとしていた未知数なナノマシンも健在で。


「どうして消えないの……ッ!?」

「空間の歪みが正されていないからです、あのノヴァが問題でしょう」


 周囲の瓦礫を吸引しながら収束を始めるデバックフィールド。それは歪みを増長させながら少しずつ縮小を始めていた。

 その内側で形のない巨大なナノマシンはその身をよじり、必死にこちら側に出てこようとしている。明らかに固体ではないというのにどうして出てこられないのかは不可解で。


「デバックフィールドが閉じます――衝撃に備えてくださいっ」

「ッ」


 凛音の手首を掴んで引き寄せた瞬間、先とは違うベクトルの衝撃が走る。

 内側から外側へとインパルスを放つのではなく外から内へ。制御室内部の機器と言う機器がデバックフィールドに飲み込まれ始めていた。


「ガラスが割れるわ……っ」

「クソ……ッ、真那、つかまってろッ!」


 凛音を掴んだままコンソール機器を鷲掴む。真那もまた壁にその身を埋め全てを飲み込もうとするデバックフィールドに備えた。

 わずか数瞬のうちに空間が歪んだ。バチバチと雷電を迸らせるフィールドが、管制室と制御室との間に設けられていた物理的な壁を容易く破壊する。

 厚さ数十センチもある強化ガラスが粉砕する音。それらは微塵になり瓦礫とともに瞬く間にデバックフィールドに飲み込まれていく。あたかも小型のハリケーンが室内で発生しているような状態。

 先ほど真那が昏倒させた局員もまた飲み込まれていく。デバックフィールドに吸い込まれた瞬間、ここにあったはずの彼の肉体は失われていた。

 あんな物の中に飲み込まれたらどうなってしまうか解ったものではない。余りの恐怖に背筋が凍るように冷たく感じられた。


「ッ、く、そ……!」


 一斉に管制室内の椅子や機材が引き寄せられる中、時雨もまたその身を留まらせることが出来なかった。凛音を掴んだまま再び制御室内部に引き戻されそうになる。


「時雨!」


 間一髪伸ばされた真那の手首を掴むことに成功した。彼女はその場に屈んだまま壁のモニタにしがみつき必死にこらえている。

 時雨と凛音二人分の体を支えているため、その華奢な腕が引きちぎれてしまうのではないかとも一瞬思ったが、そうなる前にひっぱり寄せていた引力が失われる。


「た、助かったのだ……」


 割れたガラス枠を超えて再び管制室内に足を踏み入れる。生きた心地がしなかった。

 制御室内の様子を伺うと、デバックフィールドへのゲートは失われ空間の歪みも放電現象も消失している。何とか破壊に成功したようだった。


「これで終わりか」

「……いえ、どうもそうは行かないようですよ」

「ッ、伏せて!」


 真那はそう叫ぶなり時雨たちの頭を地面に組み伏せる。何が起きているのかと顔を上げようとするものの真那の力は強い。ただごとならぬ状況がいまだに健在であることは明確で。

 屈んだ時雨たちの頭上を何かが凪いだ。ナノマシンの高密度な群集である。


「消しきれて、無い……ッ」

「どうやらゲートが消失した瞬間、こちらの空間に出現していた側の肉体と、デバックフィールド側の肉体が分断されたようですね。あれに肉体があるとは思えませんが」


 冷静な分析をするネイに返事をしている余裕などはない。上部空間を抉ったそのナノマシンはあたかも巨大な蛇のようで。

 形のない粒子の塊は管制室の天井にまで上昇していき進行方向を切り替えた。強靭な微粒子の本流はあたかも隕石のように突っ込んでくる。


「ッ──時雨様、アンチマテリアルを!」

「あれに効くのか──よ!?」


 アンチマテリアルの万能性がどこまで及ぶものかは定かでなかったが、しかし肉薄するあの存在に唯一対抗できそうな要素はこれだけだ。

 胸前から裏拳の要領でアンチマテリアルをなぎ払うと巨大なナノマシンの本流は弾かれたように弾き返される。反動で床に崩折れはしたもののナノマシンはその軌道を大幅に逸らせ再度上昇軌道に移った。

 

「……敵影を確認」


 先ほどの爆音を聞きつけてきたのか、十数名のU.I.F.が扉を爆風とともに壊破りなだれ込んでくる。彼らは瞬時にこちらの存在に気が付き、迅速な判断でアサルトライフルの銃口を向けてきた。

 マズルフラッシュが管制室内に迸るよりも先に彼らの臨戦態勢は瓦解する。U.I.F.たちが放つ弾幕など霞んでしまうような、そんな熾烈なナノマシンの弾幕が降り注いだからである。


「!? ウロ、ボロス――!?」


 大津波のように彼らに襲いかかり苛烈な飛沫を床にぶちまけたナノマシン。それによって一組の部隊が一瞬にして飲み込まれる。

 本能的な恐怖を駆り立てられるような死に物狂いの絶叫が部屋中に反響する。U.I.F.の物ではなく自衛隊員のものであろう。U.I.F.の堅牢なアーマーなど大した意味も持たず抹消させられる。

 嵐のような断末魔が放たれたその場所にはすでに人影など存在しない。ナノマシンの群集に飲み込まれナノマシンに変質されたのだ。


「い、一瞬で……!?」

「軍曹ッ! 指示を!」

「総員、迎撃せよッ!」


 あまりにも変質現象が早すぎる。その光景に班長は驚愕を隠せないようで。いち早く冷静さを取り戻した人物に指示を仰がれ手に持つ銃器から火を噴かせた。それに倣い残った者たちも迎撃に加わるものの、その努力もむなしい。

 再度軌道修正して急降下してきたナノマシンの群集は、抵抗する彼らを容赦なく飲み込んだ。肉体を蝕まれる激痛に怪鳥のような絶叫が響き渡る。

 残された者たちも一瞬にしてその体細胞をナノマシンに変質され、数秒と持たずに見る影もなく消散した。


「何だよアレ……」

「殺傷性能が従来の物とは桁違いですね。通常のナノマシンは大気汚染濃度1.2から1.7パーセントの場合、二十分ほどかけて発症を引き起こすものです。後遺症として発症から肉体の崩壊現象が起こり抹消させられるのには数ヶ月の期間を要する筈で」

「冷静な分析してる暇なんてないッ!」


 急いで凛音のフードを掴み直し、真那の手首を力任せに掴んで脱兎のごとく駆け出した。再度上昇を始めたナノマシン群集が降下してくる前に全力で管制室から飛び出す。


「戦わなくてよいのか?」

「見ただろ、まともに戦って勝てるはずがない」


 おとなしく両腕をぶらぶらとさせている凛音。彼女は揺すぶられながら、不思議そうに後ろを振り返りつつ問うてきた。


「あのナノマシンはどうやら触れただけで対象物を灰燼に帰すことができるようですね。そもそもとして発症という工程を必要としない。接触からの消滅という、無駄を可能な限り排除したエコロジーなシステムで」

「感心してる場合じゃない。あんなものに触れたら改造人間、生身の人間関係なく一瞬で霧消する……最悪の状況だ」

「最悪なら、その最悪の状況下で出来ることをするしかないわ」


 流石の状況対応力で平常心を取り戻した様子の真那。彼女は時雨の手を放し一人で後方を走りながら答えてくる。


「皇、聞こえるか?」


 全力で疾走しながら無線に呼びかけるが返事はない。ナノマシンが充満したことによってECM効果でも発動してしまっているのか。


「ナノマシン自体は大気中に浸透していませんが……おそらくは先ほどの爆発に伴う電波障害でしょう。中継電波システムがいかれたのかと思います」


 電波中継があるとすれば管制室だろう。先ほどのナノマシンに破壊されたのか、あるいは。


「……なんだか、音がするのだ」

「音?」


 担がれたままの凛音がその大きな耳をアンテナのように震えさせていた。そうして目を瞑って感覚を研ぎ澄ませていたかと思うと途端に表情を歪ませる。


「水の音、なのだ」

「水ってまさか」


 反衝動的に振り返る。次第に地鳴りのようなものが後方から迫ってきていた。雪崩のような地震のような。そして時雨もまた凛音がいう水の音という物に直面する。

 一直線の通路の先から大量の水が押し寄せてきていた。


「水没ッ!?」

「まずい走れッ!」


 おそらく管制室の壁を突き破って地下ダムの水が雪崩れ込んできたのだろう。

 あんなものに巻き込まれてはナノマシンに浸食されるまでもなく死に晒されてしまう。再度真那の手首を掴んで一気に非常階段を駆け上った。

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