第154話
「これがインダクタか。それとその電力によって生成されている何か」
「この歪み一体何なの……っ?」
普段冷静さを欠かない真那が明らかに震い慄いていた。双眸を開け放ったままその場に立ち竦んでいる。生物本能的な危機感を感じているのかもしれない。
強化ガラス越しであるために何も音は聞こえない。今にもばちばちという破裂音が聞こえてきそうな青白い電流が激しくうごめいている。形容しがたい時空の歪みが二桁ほどの抱えるほどのインダクタの中央の空間に形成されていた。
「なんだかいやな感じ……するのだ」
誰よりも凛音が一番その脅威性を全身で体感しているようだ。
物質ではないはずのその威圧感を肌で感じ取っているように、彼女は大きな耳を突き立て威嚇体勢に入っていた。何故ただの放電現象にここまで恐慌させられているのか。
「何が起きているんだ」
新たな敵が押し寄せてくる前に管制室の重厚な扉にセキュリティを掛け直す。そうしている間にも時間が惜しくてネイに訴えかけるように問いかけた。
「解りかねますが、言えることはこの強化ガラスの向こう側の空間に、ナノマシン反応があるということです」
「大気汚染濃度が高いということ?」
「いえ、汚染濃度自体はさしてこの場所と変わらないでしょうが……何ですかね、この鳥肌にも似た嫌な感覚は」
どうやらネイにもこの放電現象の意味を判別しかねているらしい。先ほど昏倒させた研究者の取り落とした電子端末を取り上げる。
板状端末のホログラムUIには何やら高速で変動し続けるグラフのようなものが表示されていた。
「何の表示だ」
「アラートって書いてある……警戒態勢?」
「何かしらのエネルギー変動を数値化したものであるようですね。一番左の物が平常値であると考えると明らかに今の数値は高すぎます」
それは目の前で稼働しているインダクタがエネルギー変動なる言葉の意味を物語っていた。
おそらくはこれが稼働したことによって放電現象が激しくなり、エネルギーの大量放出を始めたのだろう。だがそもそもエネルギーとは何のものなのか。
「少なくともろくでもない研究なのは間違いないが。このインダクタ一体何を稼働させようとしているんだ」
「ナノマシンを用いた何かしらの計画、従来のラグノス計画とは違った次期段階……一体、何を考えているのでしょうか。佐伯・J・ロバートソンは」
ネイは一瞬佐伯の名前を挙げる前に言いよどんだ。あたかも別の名前を言おうとして急に言い換えたように。そんなこと気にしている余裕などはないが。
「とにかく、こんな危険な物を放置しておくいわけにはいかない」
「これを止めれば台場全域への電力供給が再開されるのよね」
「そう考えてよろしいでしょうね。そこにある制御パネルを操作すれば、おそらく送電を遮断できるかと思われます」
ネイが指し示すは強化ガラスの前に設置されたモニタである。そこにもALART表示がある。
パネルに触れ電力遮断のためのUIを展開させようとしたが何やら文字を打ち込むためのウィンドウが出現する。
「パスワード要求か」
「これは予想外ですね、困りました」
「シグレとネイのサイバーダクトでどうにか出来ぬのか?」
「出来ないということはないでしょうが……」
ネイはそこまで呟くも言葉を噤んだ。何か嫌な予感でも抱いているのか。
「まあ、やらねば打開にもつながりませんしね。時雨様」
「ああ」
指示されるまでもなくアナライザーを構える。サイバーダクトを展開すると同時に視界内に無数のウィンドウがポップアップした。
NNインダクタの送電システムを防衛するセキュリティだ。ネイが迅速にそれらを解除、デリートしていく度に最初は六〇と表示されていた数値が着実に減少していく。
これはいわばネイに与えられたタイムリミットだ。サイバーダクトを行う場合ネイがセキュリティ解除に要せる時間。
サイバーダクトはネイが直接対象物に移動しそのセキュリティ解除を仕掛ける。それ故に事実上端末から離れた状態で作業をしているわけだ。
彼女は時雨の端末に残留しているデータ、一種のバグのようなものである。自由自在に色々な端末にインストールできるファイルではない。
そう言う条件もあってネイが端末から離れられる時間にも制限がある。それが六十秒なのだ。もしその時間内に解除が終わらなかった場合のネイの選択肢は二つ存在する。
一つ、解除を断念し端末へと戻る。
一つ、間に合わずに端末との回線を完全に断絶され、彼女は抹消される。
「間に合いそうか?」
「集中しているのですから邪魔をしないでください」
数字が三〇を切ったころ、ウィンドウが一桁数にまで減ったのを見て確実に間に合うと踏んで声を掛けていた。それを叱責したネイの声は真剣そのもので。真剣というよりももはや必死と言ってもいいほど。
どうしてまだ時間に余裕があるのに、彼女の声には奇妙な焦燥が織り交じっているのか。その理由は数秒後判明することになる。
「――遮断します!」
不意にネイの声が反響しウィンドウがすべて消失した。解除に成功したのではない。彼女が意図的にサイバーダクトを停止させたのだ。
「特別指定コードによる侵入を観測。非常対処プログラムから最善の対処法を選択――完了」
モニタからはいつしか聞いた声が発せられていた。ひどく機械的なノイズ交じりの声だ。
「やっぱりでしゃばってきましたか」
「LOTUS……」
「妨害出力データ参照、リセットコアN.E.Iとの照合開始――適合率92.4パーセント」
「自分の体の内側を覗き込まれているような嫌な感覚ですね……」
「また締め出されたのか?」
「そう言うことになりますね。帝城に出向いた時、私がLOTUSのセキュリティコードを解析・デバックしデータを対処プログラムに上書きしたことは覚えていますか?」
「言ってることの意味はよく解らないが、そんなことを言っていたことは覚えている」
「今回、LOTUSにそれをやられました。前回私が侵入した時の私のコードを取得され、妨害プログラムを生成されていたようです」
ネイは心底悔しそうに説明をする。つまるところLOTUSに技術的に負けたということだろう。
「負けてなどいません。前回は私が勝ったので現在の勝率はトントンです」
「何気なく人の思考を読んでくるんじゃない。あと張り合わなくていい」
同じ人工知能としてLOTUSに後れを取っていることが我慢ならないのか。
何であれLOTUSにネイの情報を取得されていると解った以上、これ以上サイバーダクトを試みるのは得策とは言えないだろう。
LOTUSにはネイのように人間のような人格は存在しないようではあるが。AIの持つ特有の学習能力ディープランニング。それがネイよりもLOTUSのほうが秀でていることは火を見るよりも明らかなわけで。
再度侵入を試みようものなら一瞬にして抹消されかねない。
「どうしたものか」
依然としてパネルにはパスワード要求が表示されたままだ。サイバーダクトがうまく行かない以上、このパスワードを攻略しない以上はどうしようもないというのに。
「パスワード、一体何だ、ラグノスか? LOTUSか?」
「思いつく限り打ち込んでみるのも手ですが、検証し続けている時間などはありません」
「せめてこのパスワードを設定した人物だけでも解れば……」
「やめ、ろ……!」
何かが時雨の足を掴んだ。
「ふぬんっ」
「ぐぉぁっ……!?」
はっとしてライフルに手をかけるがそれよりも早く脚からその手が離れる。手だけでなくその局員の肉体そのものが数メートルほど吹っ飛ばされた。
そうして局員が横たわっていたはずの場所には凛音の小柄な体が着地する。容赦のない蹴撃を炸裂させたのだろう。
「が、は……っ」
コンソールに背中から叩き付けられた彼は血反吐を吐き散らしながら頽れる。敵が覚醒したとからとは言え容赦しなさすぎではなかろうか。
「動かないで」
ふらつきながらも立ち上がろうとした局員に真那が銃口を突き付ける。撃つつもりはないだろうがあくまでも牽制だろう。
研究員はだがそれでも立ち上がろうとしては横転を繰り返していた。そんな研究員を真那は手早く床に組み伏せ背中にハンドガンをめり込ませた。
「やめろ、やめるんだ……!」
「悪いがそう言うわけにもいかない。これを止めなければデルタサイトが機能しない。無実の人間たちの命が奪われる結果になる」
「駄目なんだ、それを止めてしまっては……」
「まあ気にする必要はなさそうですね。さてパスワードですが教えていただけませんかね?」
「…………」
「答えなさい」
「ッ……私は知らぬ」
ネイの脈略のない質問に彼は答えなかったが、真那がハンドガンの撃鉄を起こしたためか彼はその首を小さくふるう。しらを切っているという感じでもないが。まさか本当に知らないのか。
「嘘をついているようには見えませんが……であれば誰がパスワードを知っているのですか?」
「この場にいるだれもパスワードは知らない。悪いが尋問されても私たちは何も答えられないぞ」
ということはそもそもこのインダクタの電力漏洩は途中で停止することなどありえないということか。台場の波乱を収めるつもりがないと。
「ふぅむ……これは困りましたね」
「局長しかパスワードは知らない。これ以上は何も答えられん」
「いえいえ、ありがとうございます。十分な情報でした」
局員としてはそれはさして重要な情報ではないと考えていたのだろう。
上層の人間がこの基地の管理をしていることは大よその予想がつく。それ故に局長がこのパスワードを設定したということは話しても何の手がかりにならないと考えた。が、それは大きな間違いである。
「この者はナノゲノミクス……化学開発局の傘下にある研究機関の職員ですね。つまりパスワードを設定したのは佐伯・j・ロバートソンの後釜となるナノゲノミクス局長です」
「山本一成か」
もし佐伯・J・ロバートソンなどであったのならば解明にしばしの時間を要したことだろうが、自称アダムの一成が決めたとあればだいぶ候補が絞れるはずだ。
「A、D、A、Mかしら」
「いえ、あの変質的な男のことです。自分の名前を権威の象徴としてパスワードに指定することもないとは思えませんが。どちらかと言えば、変質者にありきな自分の好きな相手の名前を指定したりしそうな予感がしますね」
「好きな相手……?」
「時雨様、E、V、Eと打ち込んでみてください」
確かに一成らしいパスワードだと思いつつ手早くパネルを操作する。するとパスワード承認マークが表示された。
「まさか本当にEVEだとは」
「改めて彼の気持ち悪さを再実感させられましたね」
「……それより、これを操作すればいいのか」
切り替わったモニタには血のようにどす赤い色のボタンが表示されていた。
「や、やめろ! それを押してはならない!」
パスワードを解析されたことを知って、研究者は激しい焦燥に駆り立てられるように叫んだ。
「悪いが、そうもいかない」
「クソ! させるかッ」
銃口を背中に押し付けられ縮みこまっていたはずの研究員は、堰を切ったようにその場から飛び出した。
真那の拘束を振り払い一直線に時雨の元まで接近してくる。
乾いた筒音が管制室内に反響した。足から鮮血を噴出させながら横転した対象の向こうには、銃口をこちらに向けた真那が佇んでいる。流石の精度と言ったところだろう。
「っ、く、くそ、ちくしょうっ」
「悪いけれど、止めさせるわけにはいかないの」
「貴様たちは何をしているのか理解しているのかッ!?」
「あなたたちの非人道的で猟奇的な殺人を止めるために動いているのよ」
「なら聞けッ! そのボタンを押せば、貴様らが意図している以上の被害が生ずることになるッ」
その言葉に思わずモニタに触れさせかけていた指先を止めていた。
脚を撃ちぬかれたことによる激痛すら盲目にさせるほどの焦燥。彼を突き動かしている衝動は一体どこから湧き出してきているのか。
「どういう意味?」
「詳細を話している時間はない、とにかく今はコンソールから離れるんだ……ッ」
青ざめながら訴えてくる彼の顔を見れば、ハッタリで行動を抑制しようとしているようにも見えない。
もしこれがハッタリであるならば歌舞伎役者も顔負けの迫真なる演技だと言える。留意する必要がありそうだ。
「なんだかよく解らぬのだが、これを押せばいいのだろ?」
「! 凛音、まっ――」
真那の静止など凛音の好奇心を抑え込むに値しない。彼女は状況の深刻さに気が付いていなかったのか、躊躇なくその指先をモニタに触れさせた。
電子音が生じ確かに電力遮断のコマンドを打ち込んだことを示す。
「あ、あ……ッ」
それを理解し白衣の男は驚愕にその目を見開く。唇が震え更に青ざめた顔には、小刻みな波のようなおののきが走っていた。
戦慄に撃たれ立ち上がれぬのかその場に項垂れた彼の様子は異常。恐慌のあまりに声が出ないといった様子で。
その反応に脊髄が空洞になったような悪寒を感じた。ぞわぞわとした実感がないながらも確かな予感。
「なに……?」
最初に異変を感じ取ったのは真那であった。会話程度しか音という音がなかった静寂に機械音が鳴動し始める。キィンキィンという金属を擦りあわせたような不快音。同時に酷く不安をあおられる地鳴りのような音。
強化ガラスの向こう側の空間、インダクタの境に出現していた電力嵐に変化が訪れていた。青白く明滅していたその電力の塊に激しいノイズのようなものが出現する。電龍とでも言わんばかりの電力の暴走。
インダクタの展開するフィールドに収まらず、それはあたかも寄生虫の様に周囲の空間を蝕む。
「何が起きているんだ」
「常軌を逸した状況であることは確かですね……」
心なしかネイの声音や表情も強張っている。彼女は忙しなくウィンドウを操り現象の解析を進めていた。
そんな彼女の奥でパネルに手を触れさせたままの凛音が固まっている。
「リオンは、またやってしまったのか……?」
彼女はわなわなとその手を震えさせ動揺しパネルに触れようとする。この現象を止めようとしたのだろうが、どれだけコマンドを打ち込んでも放電現象は収まる様子がない。
「先ほどの電力供給の遮断コマンド、まさか二重罠でも仕掛けられていたのでしょうか」
「二重?」
「一成様が、あえて時雨様たちにこうして遮断コマンドを入力させたという意味です」
「つまりさっきのコマンドは、電力遮断のための物ではなかったということ?」
「その可能性がありますが、時雨様、コンソールに私を接続してください」
「LOTUSに抹消されてしまうんじゃないのか」
「セキュリティ突破しようとしない限りはあのAIも私に干渉はできません」
それよりも早くしろと促され指示されるがまま彼女を繋ぐ。しばらく遠隔でモニタにアクセスしていた彼女であったが、やがてのその表情をしかめてみせた。
「おかしいですね……やはり先ほどのコマンドは電力供給遮断コマンドで間違いありません。またLOTUSがコマンドを切り替えた様子もありません」
「つまりどういうことだ」
「まったく別のコマンドではないということです。そして同時に私たちはどうやら重大な勘違いをしていたということ」
ネイは不可解ですねと苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
どういうことだろうか。電力供給を遮断したことは間違いがないのに未だに、いやむしろその勢いを増強させてNNインダクタは放電し続けている。
青白い電力の束は断続音を放ち続け、あたかもその電流が一塊の物体に変貌しているようにも見える。そんな不気味かつ不可解な現象がたった一枚のガラスを隔てて顕現されていた。
「もう終わりだ……どうしようもない……ああ、あぁぁ」
悄然として気力や活力を失ったような声音。絶望に苛まされ呻く局員の様子に最悪の事態を予感する。
「どうなっているの、この状況は」
「あぁ……あぁ……あぁぁああぁあ」
「答えなさい。死にたくなければ」
うめき声をあげる局員を床に組み伏せたまま、真那はその後頭部に銃口を押し当てた。
「駄目だ、もうおしまいだ、っ、最悪だ、アぁ……ッ、ああッ!!」
「黙りなさい」
銃声がいくつか鳴った。恐怖に駆られて叫びちらす対象を真那は一瞬にして黙らせる。絶命させてではない。その頭部すれすれの位置を弾丸で撃ちぬいたのである。
弾丸が耳を掠ったのか、ナノゲノミクスの研究員は恐怖にその目を見開きながら喉を震わせた。床を抉りめり込んだ弾丸が硝煙をたちあげるのを見て、彼は新たなる恐怖のあまりか理性を取り戻したらしい。必要とあれば真那は躊躇なくその頭部を撃ちぬく。それを理解したのだろう。
「答えなさい」
「あ、あぁ嫌だ、殺さないでくれッ」
「答えれば殺さないわ……まあ、その様子から見るに、私が手を掛けなくてもこの状況は死に瀕する一大事であることが解るけれど。だから早く答えなさい。手遅れになってしまう前に」
「わ、分かった……ッ」
真那はその頭部に再度銃口を据え凄む。撃鉄をもう一度起こすのが音で分かったのか慌てたように答えた。
「先ほどの電力遮断コマンドは違うんだ」
「違うとはどういうこと?」
「そのコマンドは、デバックフィールドの顕現を阻止するための物じゃない……」
「デバックフィールド? ……あれのこと?」
真那は視線で未だ放電を続けている空間を示す。
それに対し防衛省の情報を漏らすことに難色を見せたが、真那がトリガーに指を掛けると震えながら答える。
「そうだ」
「そう。それで、そのデバックフィールドの顕現を阻止するものではない、とはどういうこと? さっきのコマンドは電力供給遮断コマンドでで間違いはなかった」
「確かにそうだ。あれは、この基地への電力供給を遮断するものだ」
「それなら、もうこの基地に電力は供給されていないということ?」
肯定の返答を耳に真那が視線を向けてくる。確認しろということだろう。ネイに視線を向ける。
「確かに地上の大気感染濃度が急激に減少しています……デルタサイトが機能していますね」
「本当か?」
「ええ、おそらく」
「こちらHQ、潜入部隊、応答しろ」
タイミングを見計らったように棗からの無線。
「聞こえている」
「地上のノヴァが減退していく。デルタサイトの機能が復旧したようだ。烏川、君たちの作戦が成功したのか?」
「ああ……そうみたいだな」
どうやら本当に台場への電力供給が再起しているらしい。
「よくやった、地上は今避難させていた市民の誘導を行っている。また同じことが起きるか解らない状況だ。本拠点から大型発電機を搭載している車両を向かわせている。これでしばらくは安泰だろう」
大型発電機があるならば、もはや台場の電力会社に頼る必要がなくなる。それに直接デルタサイト接続すればいいからだ。
もう同じような事態に陥らなくて済むだろう。もっと早く車両の導入が出来ていればとは思うが色々な問題があったのかもしれない。何とか難を逃れたわけだ。
それだのに何故か胸の内側に色濃く根付いた違和感は拭えない。
「君たちはその基地の機能が再発しないことを確認次第、離脱しろ。問題があるならば、そのNNインダクタを破壊しても構わない」
「それなんだが……NNインダクタは相変わらず機能している」
「何……?」
途端に棗の声音が翻る。
「親父、NNインダクタについて何か知っているか」
「いや、何も知らんな。私はその水底基地の存在すら知らなかったからな」
「クソ……役立たずめ」
「棗、お前はいつからそのような言葉を使うようになったんだ? 昔は素直で良識のある子ではなかったか」
「黙れ……仕方ない、烏川、そのNNインダクタの詳細を教えろ」
「おかしな空間の歪みみたいなものを出現させている。デバックフィールドと言うらしい。今は放電を続けていて、その空間がナノマシン反応の源みたいだ」
「不可解だな。そもそも電力遮断を行ったのに、どうして放電が起きている?」
「それは……」
何故なのか。電力供給がなされていない以上この現象は明らかに予測が出来ない状況であった。
この放電を止めるべく行動を起こしたというのに一向にそれがなされる気配がない。それどころか放電量は一気に増し始めている。
「状況を詳しく説明しなさい」
「解った。だからその銃口を退けて、」
「黙って話しなさい」
悠長な反応に痺れを切らしたのか真那は再度トリガーを振り絞った。その気迫に押し負け駆り立てられるように彼は頭を抱えて震え立つ。
「解った話す、話すッ! 台場の電力会社から供給される電力は、確かにこのデバックフィールドに届けられている。だがその用途が異なっている」
「何……?」
「供給された電力は、このデバックフィールドを展開させるために用いているのではない。むしろ逆……デバックフィールドを抑制するための制御機関を発動させていた」
「それって……まさか」
「なるほど。私たちはまんまと山本一成の手のひらの上で転がされたわけですね」
ようやくして今起きている現象に名前を付けられる。このデバックフィールドなる機関を稼働させるために、台場の電力を蝕んでいるのだと考えていた。
だがそれは違う。それどころか全くの見当違いだった。
「気になっていた謎が解けました。蓄電を主とするNNインダクタがあるにもかかわらず、台場の電力を用いていたこと。それは単純な話です。NNインダクタの電力と台場の電力。その用途は最初から違っていた」
デバックフィールド自体は別の電力源すなわちNNインダクタ内部の電力に補われ稼働していたのだ。
対し台場から流れていた電力はそのデバックフィールドを制御、抑制するために充てられていたわけだ。
「つまり、電力供給を遮断したことによって、デバックフィールドの機能を抑制していたというわけか」
「それを俺たちが解除してしまった」
「ああそうだ。私は止めた。それなのに貴様たちは私の話に耳を傾けることすらせず……なんてことをしてくれたんだ」
真那に拘束されたまま絶望に打ちひしがれるようにその身を震わす。つまりは時雨たちが一成の行動への加担をしてしまったということ。
「俺たちが防衛省の悪巧みに手を貸してしまったのか……っ」
「……いえ、一概にはそうとも言い切れませんね」
戦慄に心が波立たされるなかネイはそれを否定した。
「言いきれないというのはどういうこと……? 彼らの思惑通りにはなっていないということ?」
「もしかすれば、この状況自体を山本一成が目論んでいた可能性もあるかもしれませんが……おそらくは違います」
「どうしてそう言い切れる」
「簡単な話です。この状況は、防衛省にとっても最悪の事態と言えるからです。無論、私たちにとっても」
状況は悪転していないのだと安堵し一瞬芽生えた希望の光も闇に閉ざされ消える。どちらにとっても最悪な状況。それは一体どういうことなのか。
「そこの研究員、デバックフィールドに関して説明してください」
「…………」
「いまさら黙認しても意味はないですよ。ここまで話してしまったんですから。今から情報の漏洩に加担しないようにしたとしても、あなたはもはや防衛省にとっては最大の汚点なのですから」
「……ッ」
「さあ話してください。デバックフィールドの存在意義を。何のために稼働しこの電力空間が何を成しているのか」
「……デバックフィールドは、ナノマシンを生み出すための機構だ」
震慄が全身を叩きのめす。脳幹を殴打されたようなそんな眩暈に似た感覚だった。全身の血が一斉に冷却され動悸が高まる。
ナノマシンを生み出すための機構。それすなわちノヴァの存在の源。それがこの空間の歪みだというのか。
「どういう原理だ」
狼狽から声の出ない時雨たちに代わって棗が端的に質問する。
「それは私たちのような下っ端には伝達されていない。解っているのはデバックフィールドというナノマシンを生成している空間と、こちらの現実を繋ぐためのゲートがその歪みの中には存在している」
「そのゲートを開かないようにしていた制御機構を、私たちが止めてしまったということ……?」
つまり、デバックフィールド自体はこちらの世界と繋がってはいなかった。繋がらないように防衛省が台場の電力を枯渇させてでも制御機構を築いていたからである。
それを除外した。勘違いと言えど保たれていた安寧を時雨たちが破壊した。
「最悪だ」
「ご……ごめんなさいなのだ」
こればっかりはフォローしようがない。前にも同じようなことがあった気がする。ホームレスが収監されていた重工格納庫にて彼女は電力制御室のブレーカーを弄りデルタサイトを停止させた。
もしかすればあの時よりもさらに深刻な事態に発展するやもしれない。
「でも結局、凛音が電力を復旧させなかったらデルタサイトも機能していなかったわ。そうすれば地上には今もノヴァが充満していたはずよ」
「一概にも凛音の行動が悪いというわけじゃない」
「残念ながら、そうも言っていられませんよ」
またもやネイの横槍。彼女とて凛音に罪悪感を植え付けたいがために否定しているわけでは無いだろう。そう述べる根拠がどこかにあるはずだ。
「デバックフィールド、ナノマシンを生成する世界だと仰っていましたが、そのナノマシンは果たして従来のナノマシンと同一のものなのでしょうか」
「どういう意味だね、シール・リンク」
「そうですね純一郎様。これまでも山本一成、いえ佐伯・J・ロバートソンでしょうか。彼らはナノマシンの生成をしていたはずです。そうでなければそもそも世界中が恐慌に陥ることなどなかったはずですから」
当然の話だ。現に世界中がナノマシンに脅かされている。
「けれども、これまで今回のような出来事がありましたでしょうか。台場全域が電力不足によって大規模停電に陥るようなことが。それに、そもそもどうしてこの水底基地は台場の地下にあるのか。ナノテク研究はこれまでも台場で行われていたというのでしょうか」
「いや、それはないな。台場の地下に地下ダムが建設されたのはそもそもエリア・リミテッドが建設された後だ。ナノテクノロジーの研究はそれ以前から施行されていた。そもそも、佐伯が帝城にて研究をしていたわけだ。以前から台場に置ける実験が進められていたとは考えにくい」
ということは本来のナノマシンの生成施設自体はここ以外にあるということか。帝城の中に全ての根源が。
「改めてこの基地を作った理由は何なのか。レッドシェルター内部ではなく、私たちや一般市民の手の及びかねない台場に生み出した理由は何であるのか」
「何かしらの最悪の可能性に備えてのこと?」
「この実験に伴う被害、か。あの用意周到な佐伯のことだ、万が一にもそのようなことは起きないように配慮しているだろうが……実際に、烏川たちがその万が一の状況へと発展させてしまった」
「レッドシェルター内部でその万が一のことが起きていけないとすれば、それはレッドシェルターの存在を脅かす事態に他なりません。台場であれば万が一何かが起きても、リミテッドから離れたフロートが害を被るだけ。そう考えたのでしょう」
彼らがおそれた被害とは一体何なのか。ナノマシンを生成しているということであるから、ナノマシンによる被害であることに間違いはない。
そもそもデルタサイトが復旧した今、どんなナノマシンが生成されようとその活動範囲はこの地下施設にしか留まらないだろう。もし地上に出たとしても活動を抑制されるのだから。
「おそらくデバックフィールドが生み出すナノマシンは、このゲートによってこちらの世界に出てきたときに最大級の災厄をもたらす」
「こっちにはデルタサイトがある。これがある以上どんなナノマシンでも」
「お忘れのようですが、ナノマシンもデルタサイトも防衛省が生み出した物なのですよ」
失念していた。どちらも彼らによって造られたものである以上、何が起きてもおかしくはない。
もややもすればデルタサイトがあるから安寧であるとそんな前提を覆しうる何かがあるのかもしれない。
「もしかしてデバックフィールドが生み出すナノマシンはデルタサイトの抑制効果が効かないの?」
「――そうだ」
局員の応答にて。憶測が確証へと変貌を遂げた。最悪なる事実。予測など出来ようはずもなかった悪運。
「デバックフィールドでは従来のナノマシンとは異なる個体が生み出されている。詳しいことは分からないが、そのナノマシンはデルタサイトの発する電波をものともしないらしい」
「嘘だろ……」
「おそらく嘘ではありませんね。ただ気になるのはそもそもどうしてそのようなナノマシンを生成するに至ったのか。防衛省はナノマシンを制御し今の世界情勢における立場を獲得しているのです。もしデルタサイトの抑制電波が効果を成さないナノマシンが世に出れば……彼らとてその存亡が危ぶまれるというのに」
ネイの疑問の通り辻褄が合わない。どうして防衛省はそんな自分が入るための墓穴を掘るようなことをしたのか。
ナノマシンは抑制が効いているからこそ防衛省のいい手駒として機能していたというのに。
「彼らの行為は傷ついた指先で蟻塚を突っつくようなものです。知能指数の低い動物ですら枝きれを使って掘り起こすというのに」
「何か別の用途があって作ったと言うことか?」
「その可能性は有力ですね。こうして電力供給をして遮断しながらもデバックフィールドを展開させ続けていたことも、このフィールドが失われては困るからでしょう」
ナノマシンはあくまでも人工物。自然に生まれるはずはない。故にこれは防衛省が生み出したもので間違いはない。
「でも別の用途って一体何なの?」
「それに関しては分かりかねますが……第一に目前の問題をどうにかする必要がありますね」
皆の視線が強化ガラスで隔てられた広大な空間に向けられる。
明らかに放電現象はその苛烈さを増強し、今にも制御室を崩壊させてしまいそうな勢いだ。ただの電流が硬質な鉄壁を破壊できるはずもないだろうが。
「このナノマシンはデルタサイトを物ともしない。そこにいる下っ端の発言が真実ならば、もしこのまま放電現象が続けば未曽有の大災厄がリミテッドに襲いかかることになるでしょう」
「ど、どうなるのだ?」
「今はまだデバックフィールドへのゲートが完全に生成されていない状況でしょうが……それも時間の問題。いずれゲートは完全に開いてしまう。そうなればリミテッドは抑制をすることもできずナノマシンに食い尽くされる」
「ぬぁ……リオンは、大変なことをしてしまったのだ……」
凛音は動揺したようにその大きな耳を抱え込む。そうしてあたふたとその場で落ち着きなく無暗に足の向くほうに歩き散らした。
「確かに凛音様に全面的な非がありますが十四歳児の衝動に枷をつけることなど、最初から難しかったのでしょう。凛音様は時折オオカミに豹変してその枷をご自身でかみちぎりますし」
「ごめんなさいなのだ……」
凛音は耳をしおれさせて項垂れる。そんな彼女にフォローを入れている余裕などはない。こうしている間にもデバックフィールドに繋がるゲートは開き続けているのだ。
「どうやったら止められる」
「まず凛音様が止めてしまった制御機構の電力を復旧するほかないでしょうが……それでは根源的な解決には至りません。また台場は停電してしまうでしょうし」
「先ほども言ったが、今は発電機を搭載した車両にデルタサイトを接続している。不慮の事態に陥る可能性がある以上、永続的な稼働は保障できないが……」
確かにこの手段を用いればNNインダクタの放電を阻害することはできる。が、それこそ永続的な手段ではない。
その方法を取れば解決法を見出すことが出来ない以上停電現象も復旧しえないからだ。
「……破壊するほかあるまい」
「でも、この放電機構の構造がどうなっているのか解らないのよ。無暗に破壊して取り返しのつかない事態に至ったら……」
真那のその不安に誰も答えない。それは肯定の意志表明ではあろうが、同時に破壊する以外に手段がないとも理解しているが故の無反応だ。
NNインダクタの破壊をすれば少なくともゲートへの送電は遮断される。それによってどのような副次的被害を被ることになるかは定かではないが。
「とはいえ、何の情報もなく破壊するのは少し心許ないですね……そこの愚者、構造について何か知っていることはありませんか」
「知らん。私は何も知らん。知っていてもこれ以上話すつもりはないしな」
「……早く話しなさい」
「っ、は、はひ……ッ!?」
これ以上レジスタンスによる阻止行動に加担は出来ないとだんまりを決め込もうとした局員。だが真那の静かな圧力に気圧され呆気なくその黙認を放棄する。
「く、詳しい構造は分かりませぬが……NNインダクタには発電機構があるとか」
高圧的だったはずの口調は敬語になっていた。なぜそこまで従順思考になっているのかと訝しみ伺う。そうするとようやく局員の思考に辿り着くことが出来た。
真那は銃を持つ手と逆の手でナイフを首元に突き付けていたのだ。刃先が触れた首筋から一筋の赤い血潮が伝っている。
「発電機構ということは、永久機関なの?」
「あ、ああ……放置しても放電現象が収まることはない」
「やはり破壊するしかないか」
「機関部はNNインダクタそのものでしょうか。それともこの管制室のどこかにNNインダクタの駆動機器が設置されているので?」
「NNインダクタは独立機関だ。あの機械そのものを破壊しなければデバックフィールドのゲートを抹消することはできない」
「なるほどね、他には何を知っているの?」
「も、もう何も知らないッ、本当だっ」
「……どうやら、本当にもう何も知らないようですね」
声音から察したのかネイは呆気なく聞き入れる。もうこれ以上何かを聞き出すことは難しそうだ。
「そう……」
「話すことは話した。そろそろ解放してはくれないか」
「それは駄目よ。あなたは私たちに接触してしまったもの」
「ッ、は、話が違うッ! 話せば殺さないと言って……!」
「殺すつもりはないわ、ただ眠ってくれていればいいの」
その言葉に対する返答が紡がれることはなかった。真那は容赦なく銃床で彼のうなじあたりを殴打した。抵抗するまもなく白衣の男は気絶する。
真那はそんな彼の上から身を引き時雨の元まで近寄ってくる。
「それで、どうするの?」
「破壊するしか無いな」
「色々と不確定要素はあるが……時間はなさそうだからな」
「あとどれだけ時間が残されている?」
「ナノマシン顕現に伴う放電現象の度合いが解らないので、何とも言えませんが……このガラスを隔てた空間のナノマシン濃度はもうかなりの数値になっています。いつ出現してもおかしくはないですね」
放電現象は既に向こう側の室内の半分近くまでを浸食していた。ネイが言うようにもう時間はほとんど残されていなそうだ。
こうして見ている間にも火花のように無数の電圧が迸っている。今にも強化ガラスをぶち破ってこちら側に出てきそうな勢いで。
「よし、迅速な行動を心掛けろ」
「でもどうやって破壊すればいいの?」
「あのNNインダクタは独立した機関であると言っていた。であればNNインダクタを破壊すれば、デバックフィールドも消失するはずだ」
「一応この基地の機関部破壊のためのC-4はある。だが本当に大丈夫なのか?」
「憂慮している余裕などないだろうな」
最悪の事態に陥る可能性を考慮して未練がましく再考の余地を図るものの、そんな悠長なことをしている時間的な余裕はない。
「あの扉から制御室に入れそうですね」
強化ガラスの隣NNインダクタ制御室との境に設けられた壁の端に堅牢な扉がある。
外装からしてもかなり強固な扉だ。強化ガラスの分厚さを見ても、鉄壁の境界線を間に築いていることは明白であった。
「俺が行く」
「リオンも行くのだ」
「真那はこっちの管制室から内部の情報を観測していてくれ」
「待って、私も中に入るわ」
「内部はナノマシンが充満してる。それも従来のナノマシンとは全く異なる性質のだ。その大気に接触したらそれだけで発症する可能性もある。俺や凛音はともかく真那は行かせられない」
「時雨様にしては中々に的確な推察ですね。まったくの未知と言っていい領域なのです。必要以上に用心するに越したことはないでしょう」
「でも……解ったわ。気を付けて」
一瞬腑に落ちないように何か言いかけたものの、真那はそうすべきであると判断したのか小さく首肯した。
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