2054年 12月10日(木)
第127話
派閥の人間たちがこの区画からの脱走作戦に乗り出す前日の夜。和馬は自室のベッドで何をするでもなく横になっていた。
「やるべきことはやった、あとは運が味方してくれることを祈るしかねーな」
彼らの作戦に便乗するために必要な下準備はすでに済ませてある。
そのために連日、結局この部屋から出て危険な竹下通りに出向くことになった。幸い元所属していた派閥の連中に会うこともなく。
それ以外にもこの下準備には様々な危険が伴ったが、今のところは順調に事が進んでいる。
こちらの所在を特定されてはいないようだし、あとはその心配よりも明日の決行に備えるのが吉日だろう。捕捉される可能性も捨てきれないため油断は禁物だが。
「和馬くん、入っていいかな」
「あいてるよ、どうした?」
ノックの後に部屋の中に入ってきた優姫。その手にはコーヒーを乗せたプレートが持たれている。
「あれ、もう寝ようとしてた? コーヒー止めた方いいかな」
「いや別に。やることなくてボーっとしてただけだ」
「最近は色々と忙しかったもんね……今日はぐっすり休んだ方がいいよ」
「まあそうさせてもらうが。でも、もうちっと起きてるわ」
最後の夜になるかもしれないからな。と口に出すことはなかった。
実際どれだけ危険な脱走になるかは分からない。もしかしたら簡単に出れるかもしれないし、最悪の場合どちらも命を落とす可能性がある。
彼女の持ってきたコーヒーを受け取り蜂蜜の匂いがしないかを確かめてから口を付けた。
「突っ立ってないで座れよ」
「うん、失礼させてもらうね」
優姫はとすんと隣に腰を下ろす。
彼女の存在を近くに感じて以前彼女がこの部屋に来た時のことを思い出した。
あの時は少し彼女をからかって恐怖体験をさせたのだったか。その後にここから見える絶景をたっぷり堪能させ嫌な空気を醸し出して雰囲気最悪にしたのだ。
我ながらいい性格していると思う。
「明日、うまく行くかな」
「うまく行くにしても行かないにしても。たぶん俺たちがこの部屋に戻ってくることはないかもしれないな」
「それって……」
その言葉の真意を察したのか優姫は問いかけ直そうとして口を噤んだ。言葉にしてしまっては実現しかねないと思ったのかもしれない。
「まあ、別に愛着あるわけでもないんだけどな」
「二ヵ月以上、ここに住んでいたんでしょ?」
「この区画であったことは大半が嫌なことばっかだったからな。むしろここにいた時間が長すぎて、ここにはそういう印象が染みついてやがる」
「嫌なことばっか? よかったこととか何もなかったの?」
「んなもん特になかったな。もしそんなもんあったら脱走しようなんて考えないで、ここで延々と……冗談だって」
不貞腐れたように頬を膨らませた彼女を見て降参だと示すように両手の平を見せる。
「お前と出会ってからの九日間、結構充実してたな」
「私たち、出会ってから意外と経ってるんだね。家にいたころは時間なんて無限に存在してて、でもゆっくりまるで時が止まったように長く感じられたのに……和馬くんといると早鐘のように過ぎちゃうね」
「……自分で言っといてなんだが、俺たちの発言、すげえ死亡フラグ臭がプンプンしてんぞ」
「大丈夫、和馬くんも私も死なない」
「なんでそんなことが言える?」
「うーん、カンかなぁ」
「あてにした俺が馬鹿だったみたいだな」
唇に指先を当てて唸る優姫をしり目に見つつ小さくため息で返す。危険な作戦の前日だというのにこの少女は変に度肝が座っている。
「冗談だよ。なんていうかね、和馬くんはずっと過酷な人生歩んできた。それは神様が和馬くんに与えた運命ってやつなのかな……でもそんなの酷いよ。だからこれからの人生は、私が和馬くんに幸せな人生を与えるの。だから和馬くんは死ぬわけない」
「だからそういうのが、死亡フラグなんだっつの」
コーヒーに口を付ける優姫は笑っていた。無垢で優しくて屈託のない笑顔。
優姫が死亡フラグをばらまくならそのフラグをとことんへし折ってやる。この笑顔を護りたいとそう思えてしまう。これまで何度この笑顔に惑わされてきたんだか。
「ねね、和馬くん。成功してもしなくても、ここに戻ってくることはないって言ったよね」
「……ああ」
「それならこの光景、しっかり目に焼き付けておこ」
立ち上がり壁際に寄った優姫。彼女は照明ボタンの隣のメモリをいじっていた。
すぐに壁の明度が変更されもともとの状態に変化する。真っ暗だった部屋の中に突然明るい光が差し込んだ。
優姫に手招きされ彼女のいる窓際へと歩み寄る。彼女の隣に腰を下ろすと無限に広がる光の世界に目を落とした。
闇夜に瞬く摩天楼の光。少しも衰えることを知らず、それは月下の世界に広がっている。
「和馬くんは前に、この光景が自分の支えだったって言ってたよね。でも同時にこの光は眩しすぎるとも言ってた。それなら、どうして今回の作戦で外に出るって思い切ったの? この区画の外に出たら、もっと純粋な澱み一つない光に照らされることになるんだよ」
確かに彼女の発言はもっともだ。和馬の言葉には矛盾がある。
「別に、深い意味はねえんだけどな。あるとしたらお前だ」
「え? 私?」
「お前は本来、こんな場所にいるべきじゃない存在だ。光の当たる場所で暗闇から最も遠ざかってるべき人間なんだよ。俺とは違う。だからお前を外に出してやりたいって思っただけだ。こんなところにいつまでも居座られても、眩しいだけだからな」
口を突いて出たのは無意味な嘘だった。不必要な見栄を張っていたのは、きっと明確な答えをもう自分の中に持っているからだ。
「そんなの間違ってるよ。だってその言葉じゃ、和馬くんは光の当たらない人間だから、私とは一緒にいられないって言ってることになる。でも、和馬くんは私と一緒に区画の外に出ようって言ってくれてる」
「言葉のあやってやつよ」
「違うよ。私は解るもん。和馬くんはここから抜け出そうとしてる。自分から光の当たる場所に行こうともがいてる……知らなかった? そういう人なんだよ、和馬くんって」
「お前にゃ敵わねーよ」
お手上げだともう一度手を軽く掲げる。そんな手くびを彼女が優しく握った。
「だから私が照らすの」
「なるほど葛城が太陽で俺が月ってやつか。でも悪いな、俺は暑いのは苦手なんだ」
「もう、茶化さないでよ」
優姫は下界に広がる竹下通りの一角をじっと見つめていた。
竹下通り自体はチンピラたちが活発に歩き回り、狩り残した残党がいないかを念密に確かめている。
「ねえ和馬くん、あそこ見て」
「んあ? どこだ? あのワン公か?」
渋谷駅周辺に設置されている忠犬ハチ公。
あの辺は確か区画外だったはず。確か派閥の連中たちの計画では、脱走経路としては渋谷駅方面だったはずだ。
その場合最悪巻き込まれるかもしれないが、がんばれワン公。
「違うよ。ハチ公じゃなくて……竹下通りの二番街ネオン看板」
彼女が指差しているのはもっとこの複合施設に近い方面だ。
ここから数百メートル付近にある数メートルほどの高さのあるネオンの看板。
「あそこ、覚えてる?」
「ああ覚えてる覚えてる、確か俺が所属してた派閥のチンピラが、持て余した性欲を野良犬で発散しようとして噛みちぎられたとこだよな」
「ち、違うよ……というか何その情報」
「冗談だって。覚えてるよ。俺とお前が初めてあった場所だろ」
忘れるはずがない。あの時見た彼女の姿は今でも目を閉じれば鮮明に思い出せる。それだけ衝撃的な出来事だったのだから。
ネオンの光に照らされ幻想的に染まりあがった彼女の長い髪。あの時の印象は今でも思い出せる。
そして今ならばあの瞬間から胸に張り付いていた複雑な感情に名前を付けることが出来る。
「今考えても、私たちが出会ったのって奇跡みたいだよね」
「時間帯的な問題もあって、あまり人がいなかったのが幸いしたが……竹下通りのど真ん中でそれもあんな目立つ場所に座ってりゃな」
「もしあの時、他の人に最初に出会ったてたら、どうなってたんだろう」
「確実に犯されてたな」
「もうちょっと他に言い方ないの……?」
実際問題和馬のような人間が多いとは到底思えない。大抵の奴は彼女のことをそういう風に扱うだろう。
そう考えると先ほどの優姫の発言は間違っていたのかもしれない。神様は和馬に既に苦難以外の物を与えてくれていた。彼女に出会ったこと。それこそが神の思し召しだったわけだ。
神様ってやつもなかなか粋な計らいをしてくれるではないか。
「あそこら辺が、作戦決行の場所だね……」
彼女が見ている先を見やる。東北東方面、先ほどのハチ公が見える方向である。
渋谷駅とこの地点のちょうど中間地点付近。そこには数メートル間隔で巨大な軍用A.A.が配置されている。
計画通りに事が進めば派閥の連中たちはあの場所で戦闘を始めるはずだ。
「どれくらい、外に被害が及ぶか解んねえな」
「一般市民エリアで巻き込まれる人が出たりしなければいいんだけど……そう言えば和馬くんはもともとどこに住んでたの? 最初からここに住んでいたわけではないよね?」
「俺が住んでたのは渋谷内部だぜ。まあとは言っても閉鎖区画外部なんだけどさ。あのワン公の近く」
「ハチ公の近くっていうことは、渋谷駅の近くかぁ。色んなところに行けていい立地じゃない」
「今は電車もバスも自家用車もほとんどが廃止されてる時代だからな……基本高架モノレールが移動手段だし、渋谷駅が近くにあっても特別楽なわけじゃねーぞ」
二か月間モノレールすら機能していないこの区画で生活していたのだ。今の交通機関に不便性を感じることもなくなるだろう。
「そういう葛城はどこに住んでたんだ?」
「え? 私?」
「なんだかんだ言って令嬢っぽい感じだし、どっかのいいとこのお嬢さんなんだろ? となると富裕層区画の中央区か? 港区も一応富裕層区画か」
「私の家は……あっちの方かな」
言い辛そうに彼女はそっと東北東方面を指さす。ハチ公を越えてもっとその先渋谷区外の千代田。つまりレッドシェルターのある区画だ。
脳裏に以前アパレルショップで衣服を買った優姫の姿がよみがえる。庶民層用でも富裕層用でもない
彼女に家の場所を問うたことを後悔した。こうなることは半ば予想できていたのに。
彼女がそれを隠そうとしていたことは知っている。それならば彼女にその実を問い質さないと決めていた。だのに、ああなんて迂闊なんだろう。
「明日はもう早いし、寝るか」
「……聞かないの?」
立ち上がる和馬を見つめることもなく彼女は小さく問うてくる。
それに答えることはしなかった。答えるまでもない。そんなもの正直どうでもいいのだ。それを知って優姫がどこか別の場所に行ってしまうなら聞かないほうがいい。
「……ありがとう」
「気にすんなよ」
ベッドに腰かけコーヒーを呷る。気のないふりを装っただけだった。
「ねえ和馬くん」
「んあ?」
「今日私もこの部屋で寝ていいかな」
盛大にコーヒーをぶちまける。それを拭うこともせずに優姫を見つめた。彼女はどこか困ったように見つめ返してくる。
「なんだかね。この部屋にいられる最後の夜だから。一人だと寂しく感じちゃって。私は床でも寝れるよ。和馬くんはいつも通りゆっくり休んでほしい」
「一緒に寝る時点でゆっくり寝れる気がしないんだがな。お前がベッドで寝ろ」
「それはダメ。どうしても私をベッドで寝かせたいなら一緒にベッドで寝て」
「……警戒心がねー奴だな」
このままではどうせ平行線だとため息をついた。
一度ベッドから降り奥に彼女を誘う。寝相が悪いため最悪優姫を蹴り落とす可能性があるからである。
彼女が横たわるのを確認してその隣に背中を沈めた。二人が寝るには少々狭苦しいベッドの上で体を捩り毛布を引っ張りかける。気まずくて彼女に背を向けて寝ることにした。
「なんでそっち向いてるの」
「そっち向いたら多分寝相の問題で蹴りそうだからだ」
「別にいいのに」
「いやよかねえだろ……」
「うーん、ならこうすれば、蹴られないね」
その言葉と同時、背中に何かが接触する。
温かい人肌の女性特有の肢体の柔らかさ。途端に心臓が早鐘のように爆ぜるのを感じた。
「ねえ和馬くん」
「なんだよ」
「ここから出た後のことなんだけど……和馬くんと一緒にいてもいいかな」
その言葉にドクンと心臓が鷲掴まれたような衝撃が走る。
「何言ってんだ、お前にはお前の人生がある。お前が家出した理由は解んないけどさ、でも絶対に帰るべきだ」
「…………」
「第一、俺なんかと一緒にいても仕方ねえだろ。俺たちは住んでる世界が違う。まあ寂しくなるがここから出たら俺たちは……」
動揺しながら本音とは逆のことを口にした。本音が怖かったのだ。
「……そんなの、だめ」
突然声音が変わった。
静かだがその声は僅かに震えていて。腰あたりを掴む指の感触と押し付けられている小さな額が背中にめり込んでいる。
「ひとりに、しないで」
頼りない微声がくぐもって消えた。心なしか掴んでいる手は微かに震えているようで。
先までの甘えた声はもうない。彼女は何かを求めている。
「私をもう、ひとりにしないで……」
すがりつくように引き寄せてくる彼女は、どこか幼くいじらしくそして脆い。
「ひとりになんて……」
「和馬くんにそのつもりがなくても、結果的に和馬くんは私の前からいなくなっちゃう。ううん、違うね、いなくなるのは────」
それに継ぐ言葉が紡がれることはなかった。
「お前」
泣いているのかと、そう問おうとして無粋なことだと考え直してやめる。
「いなくなるのは、もう嫌なの、何もかも暗闇に閉ざされちゃうのが……嫌なの」
それを聞き自分の勘違いを恥じた。
彼女が何を恐れているのかそれは解らない。だが決して和馬の感じていたような無粋な理由などではない。
優姫は和馬の知らないところでとてつもなく重たい何かと戦い続けているのだ。
優姫と言う存在がとても小さく思えた。蝋燭のかすかな灯火のように。強い風でも吹けば消えてしまいそうな程に淡く頼りなく。
小さな肩を引き寄せようとして伸ばした手を止めた。彼女に触れることが怖かったのかもしれない。すがる華奢な身体を抱きしめ返すことが出来ない。
普段の優姫はただ強がっているだけだ。優姫はこんなにも小さかったのか。
しばらくして背から回されていた腕の感触が消える。彼女の小さな身体と共に柔らかい温もりもまた離れていく。
言い知れない寂寥感を胸の中に感じながら背を向けた彼女に声をかけた。
「なあ、葛城」
優姫の背中は反応を示さなかった。嗚咽はもう聞こえては来ない。
「お前何を抱えてるんだ? どうしてこんな場所に迷い込んだんだ? 何から逃れてきたんだ?」
「今の和馬くんには……教えてなんてあげない」
こちらを振り返ることはなかった。ゆっくりと彼女に背を向け目を閉じる。
「爽快感も青春も……やっぱ俺には駆け抜けらんねぇや」
この時点では、未だ気づくことが出来ていなかった。
暗闇の住人は和馬ではない。
和馬が光の差す場所に這い出ようとするのに反比例するように、優姫は徐々に光を失い続けていたのだ。
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